NHKでは、沖縄が体験した悲惨な沖縄戦の真実を語り継いでいくために様々な企画に取り組みました。この特集記事ではそれらの特集・番組・証言等を集約して掲載しています。
NHKでは、沖縄が体験した悲惨な沖縄戦の真実を語り継いでいくために様々な企画に取り組みました。この特集記事ではそれらの特集・番組・証言等を集約して掲載しています。
戦闘は4月8日(7日)から16日間にわたって展開され、その間の両軍の戦死傷者は合わせて約10万にのぼった(諸説あり)。アメリカ軍は4月9日には嘉数を占領することを目標としていたため、損害を省みず続々と部隊を投入した。このことが激戦になった一因と思われる。また、嘉数戦では日本軍最後の対戦車戦闘での勝利が記録されている。 この項では、嘉数戦の開始を一般的に言われている4月8日からとし、日付は主な行動が展開された日によるものとする。また読みにくくなるのを避けるため、戦闘経過を序盤、中盤、終盤に分けて記述した。 日本軍 主な師団:第62師団独立混成旅団(師団長藤岡武雄中将) 第62師団所属の旅団(連隊):歩兵第63旅団(旅団長中島徳太郎少将)、歩兵第64旅団(旅団長有川主一少将)等。62師団の歩兵大隊は約1233名であった。 歩兵第63旅団:所属部隊(中島徳太郎少将) 独立歩兵第11大隊(三浦日出
当地は、1945年4月6日頃から2週間余りにわたって激戦が繰り広げられました。 日本軍が爆雷を背負って戦車に体当たりをするという肉弾戦法により、米軍は大きな被害を受けました。日米両軍の兵士に加え、嘉数区の住民のおよそ半分(53%)が戦闘に巻き込まれて命を落としています。 今は「嘉数高台公園」として市民の憩いの場となっていますが、園内には今もなおトーチカや陣地壕が残っています。この場所で悲しい歴史があったことを忘れてはいけません。 公園内のトーチカ(南側) トーチカとは、大砲や機関銃などを置くための場所を、分厚いコンクリートでおおった陣地のことです。様々な形のものがありますが、このトーチカは3~4メートル四方、高さ1.3メートルで、おおっているコンクリートの厚さは約70センチにもなります。宜野湾ではここ嘉数高台にしか残っていません。 トーチカには北側に向けて2箇所、南側に向けて1箇所の開口部
慶良間チージ(シュガーローフ) 沖縄戦の激戦地。字安里(あざあさと)の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は“すりばち丘”、米軍は“シュガーローフ”と呼んだ。 一帯の丘陵地は、日本軍の首里防衛の西の要衝(ようしょう)で、米軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。特に慶良間チージでの攻防は、1945年(昭和20)5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。 それ以降、米軍は首里への攻勢を強め、5月27日に首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は、6月末まで続いた。 所在
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