文政10年(1827年)6月5日(文政12年(1829年)6月5日午刻とも)、土御門晴親と家女房・圭順院との間に誕生。天保4年(1833年)10月18日に従五位上に叙されて、同10年(1839年)に元服して従五位上・大膳大夫。同13年(1842年)に陰陽頭となる。嘉永2年(1849年)に右兵衛佐を兼ねる。安政2年(1855年)には正四位下となり、安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加する。同年12月1日に行われた江戸幕府14代将軍・徳川家茂の就任式に際して侍従高倉永祜と共に勅使として江戸城に派遣されている。翌年の3月には従三位、8月には民部卿に転じて、元治元年(1864年)には正三位となった。明治元年(1868年)民部卿を辞任。 明治維新によって江戸幕府が崩壊すると、新政府に働きかけて旧幕府の天文方を廃止に追い込んで、編暦・頒暦といった暦の権限のみならず、測量・天文などの管轄権