庄原市口和町の民家に長年保管され、昨春に広島県立歴史民俗資料館(三次市小田幸町)へ寄贈された三次人形70体のうち9体が、三次人形作りの草創期だった1860(万延元)年ごろに作られたものであることが同館の調査で分かった。22日から同館で始まる企画展「春を待つ 三次人形とひな人形」で展示する。
義経神社・義経資料館よしつねじんじゃ・よしつねしりょうかん 設立:2000(平成12年) 建築面積:約200㎡(木造平屋建) 収蔵点数:約100点 開館日:火曜日〜日曜日 開館時間:9:00~17:00 入館料:大人200円・子供100円 団体20名以上150円 設立経緯 義経神社は源義経公を御祭神とし、択捉・国後を探検した北地探険家で『金銀図録』『外蕃通書』を著した近藤重蔵らが寛政11(1799)年に義経像を寄進し、安置したのが創建である。義経像は、高さ約60cmの木造で台座の背面には「寛政十一年巳未四月二十八日近藤重蔵・原藤守重 比企一郎右衛門・原藤明可満」と、台座の底には「江戸神田住大仏工法橋善啓」とそれぞれ墨書されている。明治9(1876)年には村社に列格されている。 平成元年(1989)には「生活環境保全林整備事業」により公園整備がはかられ、展望台・遊歩道・あずま屋・駐車場等々が
日本でのビール普及を予言した初代駐日イギリス公使・オールコック (Rutherford Alcock)1809-1897/イギリス出身 イギリスの外交官であるオールコックが日本駐在総領事(のちに公使に昇格)に任命されたのは、1858(安政5)年のことである。この年、朝廷の許しを得ぬままに日米修好通商条約が結ばれたり、大老・井伊直弼による知識人への大弾圧事件「安政の大獄」が起こったりしている。オールコックは、こうした激動の渦中に飛び込むこととなったのだ。 翌年に江戸湾品川沖から上陸したオールコック一行は、いくつかの候補地から、高輪(品川)の東禅寺を居住場所に決めた。交通の要衝である東海道や品川沖に近いことがこの地を選んだ主な理由だが、オールコックは東禅寺へと続く針葉樹の並木道や静寂な境内にも惹かれたようだ。日本着任から休暇で一時帰国するまでの3年間を綴った『大君の都』の中で、居所を定めた時の
2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。 これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。 安政7年(1860)3月18日、元号が“安政”から“萬延(万延)”に改元されました。 萬延の言葉は、菅原為定が勘申(先例を調べ上申)し『後漢書』馬融伝に登場する“豊千億之子孫 歴万載而永延”から採用しました。 漢文はあまり得意ではありませんが、永遠の先の子孫まで喜びが続くというくらいに読み取れるのですが、詳しい方はお教えください。 余談ですが、安政は『旬子』“庶人政安然後君子位安”でした。 これは、庶民が安泰だったら自然と君主も位を保てるくらいの意味でしょうね。 しかし、安政年間は庶民は黒船来航以来の諸外国の外圧や、安政の大地震と安らかとは程遠い混乱の時代を送り、権力者は安政の大獄や桜田門外の変といった位を保てない事件に遭遇したのです。 改元の理由として、安政の大地震と桜田門外の変に
撮影者はジョン万次郎 伊豆・旧代官家の武士写真 2007年10月30日01時14分 静岡県伊豆の国市の旧家に保存されていた幕末の武士の写真が、中浜(ジョン)万次郎(1827〜98)の撮影と分かった。東京大学史料編纂(へんさん)所などが写真と旧家の文書を調べた結果、万次郎が遣米使節の通訳として咸臨丸で渡米し、帰国した直後の1860(万延元)年7月、米国から持ち帰った道具を使い、撮影したとみられる。 中浜(ジョン)万次郎撮影と分かった江川文庫所蔵の写真(江川文庫提供) 写真は江戸幕府の代官で、静岡県・韮山(現伊豆の国市)を拠点に駿河、武蔵、相模などを支配した江川家の史料を集めた「江川文庫」からみつかった。ガラス板を使った湿板写真で縦8.4センチ、横7.1センチ。人物の特定はできていないが、江川家に出入りしていた小沢太左衛門ではないかとみられている。 写真の撮影は包み紙の「万延元年七月十六日夕七
台湾の古名、『唐土歴代沿革図』に「塔葛沙古《タカサゴ》」、『台湾鄭氏記事』に「塔加沙古」とあり。本邦の文書に「高砂」と記す。外国地名に和訓字を当てるは、邦人に読みやすく、かつ字数を節約し得る利益あり。 万延元年作、桂園森田行の『航米雑詩』に、 軋鬚碧眼|花間《パナマ》宰、脱v帽屈v腰搓v手待、鉄路四十又七里、分明画破東西海。 その註に、「花間は即ち巴納麻《パナマ》、邦音ニ因テ之ヲ填メ、以テ声調ヲ叶ハシム」とあり、こ れ、自注のとほり、詩の平仄の関係上、江戸を江都と書きし類に過ぎざるも、洋音訓訳の魁なり。 福沢諭吉は、世界の地名を記すに、和訓字をもつてするを便とし、その著『世界国尽』の凡例中に、「西洋の地名・人名等は、勉めて日本人に分り易きを用ふるやうにせり」とて、満落加《マラツカ》・荒火屋《アラビヤ》など出し、古来の翻訳者の、唐音の漢訳字を襲用する旧習を踏まず。これが、和訓音訳の中興開山と
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