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佐保姫に関するkochizufanのブックマーク (5)

  • おさんぽ日和 春の女神を感じて【3/21(水)掲載】

    東大寺(奈良市)の1261回目の修二会(お水取り)は、15日で満行となった。春分も過ぎ、春の女神・佐保姫が温かくもてなしてくれる日も近い。 *** 古代中国の学説である五行説では、春は東、平城宮から見ると佐保山の方角からやってくる。山野が色とりどりに染められ、薄い衣で透かしたように霞む景色。染色と織物が上手な佐保姫は、うっとりするほど美しい女神なのだろうなと想像する。 以前訪ねた神社に、元は佐保姫が祀られていたはず…と思い立ち、西包永(にしかねなが)町にやってきた。東大寺転害門から、一条通りを西に進む。普段は格子で閉ざされている静かな社「佐保川天満宮」に到着した。 由緒書きを見ると、奈良朝の時代、雷神(天の神)を多門山の守り神として祀ったのが始まりとのこと。戦国武将、松永久秀が多門城を築く際に、同地に祀られていた「佐保姫明神」と一緒に現在の場所に遷宮されたそうだ。佐保姫明神は、さらに他の地

  • かはひらこさんの添上添下めぐり(奈良阪、佐保、山陵の神社と古墳)

    「神社メグラー」かはひらこさんが、奈良市の北部奈良阪から法蓮・佐保、さらに歌姫街道を越えて佐紀、山陵方面の神社を訪ねられました。 写真も添えられた連続ツイート、せっかくですのでまとめてみました。

    かはひらこさんの添上添下めぐり(奈良阪、佐保、山陵の神社と古墳)
  • 『流転の佐保姫神社』

    川面の赤いもみじ葉が、冷たい風に吹かれて 揺らぎながら走ってゆく。 川岸の枯れ草たちが拍手を送る。 師走。 流転の佐保姫神社 戦国の世、大和平野は国人が割拠して乱れていました。 乱れた大和を制したのが筒井順慶でしたが、永禄3年 (1560年)になって、松永弾正久秀が筒井順慶を 破って大和に入り、現在の佐保川天満宮や佐保姫を 祀る神社があった、多聞山を拓いて多聞城を築きました。 このときに、天満宮は佐保川沿いの現在地に移り、 佐保姫明神もこの地でともに祀られていました。 江戸時代に入ってから、佐保姫明神は川上の 今在家の地に移り、織姫とされる天棚織姫神社に 合祀されて、佐保姫神社と呼ばれていました。 天棚織姫神社 かってはここに佐保神社がありました。 明治に入って、明治28年に奈良市内東北部の 神社の統合整理に伴い、佐保姫神社は手向山 八幡宮内にある末社の松童神社に他の神々と 共に合祀されて

    『流転の佐保姫神社』
  • うつた姫に関する考察 - 絶滅危惧II類(VU)

  • 『佐保姫神社 』

    川面の赤いもみじ葉が、冷たい風に吹かれて 揺らぎながら走ってゆく。 川岸の枯れ草たちが拍手を送る。 師走。 佐 保 姫 神 社 聖武天皇と、光明皇后の佐保山南陵と東陵のある 多聞山には、古くから垂仁天皇の皇后であった 狭穂姫を祀る佐保姫神社がありました。 松永弾正久秀が多聞城を拓き多聞城を築いた際に 今の佐保川天満宮の場所に祀られて、後に佐保川の 上流地に移りました。 移転した佐保姫神社は、奈良から京都へ向かう奈良 街道が佐保川を横切る橋が架かる近くにあります。 天棚織姫神社、桜七所明神社、蔵王権現、勝手上下 大明神などと共に狭い境内に祀られています。 しかし、明治28年に周辺地域の神社の統合整理が 行なわれ、近在にあった他の11社と共に手向山八幡宮の 末社の松童神社に合祀されているようです。 一方、大極殿跡の北東の山裾にある狭岡神社には 佐保姫にまつわる伝承があり、東方にある奈良時代に

    『佐保姫神社 』
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