この地図情報は、Googleマップが提供するサービスを利用したものであり、地図の正確性等を砺波市が保証するものではありません。 古地図とGoogleマップを比較した際、実際の位置とずれている場合がありますのでご了承下さい。
なお、地名数がゼロの地図は他の地図の拡大版のため、今のところ作業予定はありません。 データセット 江戸マップデータセット 江戸マップβ版の地名をまとめて利用するためのデータセットです。 江戸マップデータセット 江戸マップ「れきちず」データセット 江戸マップβ版から抽出したデータを「れきちず」に統合するためのデータセットです。 江戸マップ「れきちず」データセット 参考文献 北本 朝展, 鈴木 親彦, 寺尾 承子, 堀井 美里, 堀井 洋, "地理的史料を対象とした歴史地名の構造化と統合に基づく江戸ビッグデータの構築", 人文科学とコンピュータシンポジウム じんもんこん2020論文集, pp. 171-178, 2020年12月 [ Paper ] 更新情報 2024-05-01 江戸マップ「れきちず」データセットを公開しました。 2023-10-20 既存の地名を2件修正しました。 2023
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筒井庄治郎が、明治12年(1879)に発行した奈良名所案内図。 元治元年(1864)の「和州奈良之繪圖」の改訂版。 編集者の「故人 筒井庄八」は元治版に見える「絵図屋庄八」のこと。 元治版と同じ横長図で、南都七大寺の寺院名や奈良八景を列記し、 春日大宮御祭・同若宮御祭礼・薪能・二月堂・大仏殿の説明を付け、羅針盤をかたどった円形を12等分して方角を区切り、橋本町から各名所までの里数記入。 大仏殿の左には、「円聖武天王御勅願所也、御たけ五丈三尺五寸、御堂高サ十五丈六尺、東西卅二間南北二十八間、くわいろう東西九十間南北百間也、但南向」と記す。 西大寺・法隆寺などの名所は、実際の距離よりも近く描き、里数を注記。左側に絵図以外の情報をまとめ、東西の紙幅を広くし、合羽刷りで黄色と赤色の彩色を施す。 元治版の「五軒ヤシキ」の字を抹消し、「御奉行所」は「御奉行跡」に「多門屋敷」は「多門」にかえて奈良奉行所
絵図屋庄八が、中沢八兵衛の彫刻で元治元年(1864)に発行した奈良の名所案内図。 天保15年(1844)の「和州奈良之圖」の改訂版。 宝永版・ 安永版の東を上にした縦長図に対して、 横長図に改めた天保版 を踏襲し、サイズは少し大きくする。 南都七大寺の寺院名や奈良八景の名所旧跡を列記し、春日大宮御祭・同若宮御祭礼・薪能・二月堂・大仏殿の説明を付け、 羅針盤をかたどった円形を12の方角に区切り、奈良の橋本町からの里数を記入。 大仏殿の左に「円聖武天王御勅願所也、御たけ五丈三尺五寸、御堂高サ十五丈六尺、東西卅二間南北二十八間、くわいろう東西九十間南北百間也、但南向」と記す。 西大寺・法隆寺・小泉などを実際の距離よりも接近して示し、里数を注記して相互関係を表すなど、 宝永版・ 安永版 より名所案内用の地図としての利用度を高めている (西田與四郎「奈良の古地図」『奈良叢記』所収)。 一方、天保版で
渋川清右衛門・柳原嘉兵衛が、安永7年(1778)に発行した木版墨刷りの奈良絵図。 表紙には「和州南都絵図全」、図中に「和州南都之圖」と記す。 『享保以後大阪出版書籍目録』によると、 出願は6月で、出版許可は9月2日、作者は山村左門、版元は河内屋喜兵衛。大きさは 宝永図の約半分に縮められ携帯に便利にしている。 本図の範囲は、東は「忍辱山」、南東は「ろくやおん」、南西は「郡山・やた寺」、西は「とみれうせんじ」、北西は「あきしの寺」、北は「ならさか」辺まで。 東を上にし、町屋の部分は寛文・宝永図が墨色で充填しているのに対して白ぬきにする。 町名は道路中に示すが、南北通り沿いの町名の記載方向が横書きではなく、三条通りを境にそれより北では南を上に、南では北を上にした縦書きにしている。 寛文・宝永図では 興福寺と東大寺の僧坊は、図中の屋敷に符号を付けて余白に僧坊名を一覧にしているが、本図は僧坊の一覧は
本図は、天保15年(1844)に奈良大仏前の絵図屋庄八が発行した奈良案内図である。 「天保十五年甲辰五月改」とあるので以前から発行していたと思われるが、初版の年月は分からない (西田與四郎「奈良の古地図」『奈良叢記』)。 従来の縦長図を横長図に改め、下段右には奈良から堺・吉野・高野・名張・伊賀上野・京・大坂・伊勢山田・初瀬・河内・宇治への距離を掲げ、 下段中央に南都七大寺の寺院名を、下段左に奈良八景の名所旧跡を列記。左上段には春日大宮御祭・同若宮御祭礼・薪能・二月堂・大仏殿について特記している。 その下には、地図に「大坂八り」「はせへ七り」「京へ十一り」などと記すだけでなく、円形を羅針盤をかたどり、12の方角に区切り、 地名や寺院と奈良の橋本町からの里数を書き込んでいる。また、西大寺・法隆寺・小泉などの名所を実際の距離よりも接近して示し、 里数を加えて相互関係を表すなど、本図には名所案内用
明治12年頃作成された添上郡高畑村の地引絵図。地租改正では、一筆ごとの点検、番号づけと測量が行われ、地引帳とともに一村限図を作り管轄長に提出(国史大辞典)。 高畑村総代1名、地主総代4名のほか、隣接する大慈仙村・須山村・紀寺村・京終村・白毫寺村・春日野村・奈良阪村・誓多林村の総代各1名、 奈良市街の池之町・東寺林町の総代1名、鶴福院町・不審ヶ辻子町・鵲町・公納堂町・福智院町の総代1名の15名が署名。 年代は、隣接する春日野村が明治9年に野田村と登大路の一部が合併して成立するので、これ以降となる。 図中の興福寺の僧坊屋敷の半分以上が荒試作地や畑で、春日社社家・禰宜屋敷も荒試作地や畑の所が目立つ。興福寺僧坊屋敷跡は、同13年の「興福寺境内外現今之図」 (『奈良公園史』所収) の僧坊屋敷跡とほぼ同じなので、同時期の絵図であろう。 恐らく、同9年11月の村限り明細地引絵図面調製につき達 (堺県法令
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