滋賀県栗東(りっとう)市の新幹線新駅建設問題で、同県議会最大の会派「自民党・湖翔(こしょう)クラブ」は、これまでの「推進」の立場から「凍結」に転換する方針を固めた。 自民党県連もこの方向で調整する。 8日投開票された県議選で惨敗、「凍結」を掲げ、県民の人気が高い嘉田由紀子知事と対立したままでは、「抵抗勢力」としてイメージが悪く、夏の参院選を戦えないと判断した。 推進派の最大勢力の方針転換で、新駅建設は行われないことが確定的になった。 県議選(定数47)で、自民党は嘉田人気に配慮、推進の立場を明確にせずに戦った。ところが、嘉田知事を支援し、自民党を「抵抗勢力」と位置づけた政治団体「対話でつなごう滋賀の会」が公認、推薦した計19人のうち、12人が当選する躍進。自民党は24人の候補のうち当選は16人。改選前、27人の同クラブは無所属議員を取り込んでも過半数を割るのは確実になった。 同クラブが20
利用者が急増しているインターネットの動画投稿サイトに、東京都知事選(8日投開票)の立候補者の政見放送や街頭演説の映像が投稿され、いつでも自由に見られる状態になっている。 候補者の映像などの公開は、公職選挙法で決められた方法に限るのが原則だが、動画投稿サイトでの政見放送“放映”は想定外で、明確な定めはない。都選挙管理委員会は「公選法に抵触する可能性もある」としながらも、映像を前に手をこまぬいているのが実情だ。 動画投稿サイトは、もともと利用者が自分で撮影した映像などを公開するためのものだったが、テレビ番組などの録画映像が勝手に投稿されるケースも目立つ。米国の「YouTube(ユーチューブ)」が有名で、国内でも同様のサイトが運営され、急速に利用者が増えている。これらのサイトでは現在、複数の候補者の街頭演説や、支持者向けに作成された政策ビデオの映像などが視聴可能だ。 中でも、過激な発言が話題を呼
山口 節生(やまぐち せつお、1949年〈昭和24年〉9月26日 - )は、日本の政治活動家で、コンサルタント業、不動産業、実業家である。元・高等学校教員で元・信託銀行員。佐賀県出身。 1949年、佐賀県に生まれる。佐賀県立佐賀西高等学校、一橋大学商学部を卒業し、東京大学経済学部に学士入学して卒業。 1974年4月、三菱信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)に入行。その間、中央大学法学部二部法律学科に学士入学して卒業。三菱信託銀行では不動産鑑定業務に携わった。1977年、三菱信託銀行を退職。地元佐賀に帰郷し、佐賀県立伊万里商業高等学校商業科教諭となる。その後、佐賀県立有田工業高等学校英語科教諭、佐賀県立鳥栖高等学校英語科教諭を務め、1986年に高校教諭を退職。上京する。 1990年に不動産鑑定士資格を取得。不動産鑑定業務などを主とする有限会社日本経済研究所[1]を設立し、代表取締役社長となる。
2007年東京都知事選挙時の外山、高円寺駅前広場にて撮影 1970年(昭和45年)7月26日、鹿児島県姶良郡隼人町生まれ。福岡県大野城市育ち。父は元自衛官[2]。生まれた時すでに学生運動は衰退に向かっていた。1983年、大野城市立大城小学校卒業(大野城市立大野東小学校から転校)。1986年、西南学院中学校卒業。西南学院中の同級生に政治学者の施光恒がいる[3]。 福岡県立福岡中央高等学校に落第し、二次募集で新設校の中村学園三陽高等学校に入学するが、校風に反感を覚える[4]。高校入学直後より「反管理教育」の活動家というスタンスで管理教育への抵抗運動を始め、左翼運動を左翼の立場から激烈に批判するようになる。同年8月、鹿児島県立加治木高等学校編入。1987年8月、福岡県立筑紫丘高等学校編入。1990年8月、久留米市立南筑高等学校入学。四つの高校を転々とするも、いずれも中退した[4][5]。本人の著
22日告示の岩手県知事選(4月8日投開票)で、覆面レスラーのザ・グレート・サスケ県議(37)が17日、出馬の意向を明らかにした。 18日に盛岡市内で記者会見し、正式に表明する。 知事選にはすでに、民主党衆院議員の達増(たっそ)拓也氏(42)が出馬を表明しており、サスケ氏は「小沢王国での無謀な戦いかもしれないが、岩手をより良くするためにはこの方法しかない」と話している。無党派層を中心に支持を訴えるとみられる。 サスケ氏は、2003年の県議選盛岡選挙区で旧自由党推薦の無所属で初当選。県議会では民主党系の会派に所属している。 知事選には、このほか前滝沢村長の柳村純一(56)(自民党推薦)、県労連前議長の菅野恒信(61)(共産党推薦)、廃棄物処理業の芦名鉄雄(61)の3氏が立候補を表明している。
統一地方選前半戦の県議選(定数九五)と千葉市議選(定数五四)は八日投票が行われ、即日開票された。県議選は四十五選挙区に百五十八人が立候補、無投票で当選が決まった六選挙区の十四人を除く三十九選挙区、八十一議席を百四十四人で争った結果、自民は公認五十七人中、当選は五十人にとどまった。保守系無所属で会派入りを見込める新人を合わせても改選前の六十議席を割り込む見通し。民主は改選前議席の十二から二十へ伸ばし躍進した。投票率は県議選44・43%(前回40・24%)、千葉市議選48・37%(同45・12%)だった。 (統一地方選取材班) 県議選は、定数を九八から九五、選挙区を四十七から四十五に、それぞれ減らす条例改正後、初めての選挙となった。 無投票は松戸市など六選挙区十四議席で、自民七人、民主四人、公明二人、共産一人が当選を決めていた。無投票を含む当選者の内訳は自民五十人、民主二十人、公明七人、共産四
青森1区 227.8 横山 101.3・44.5% 津島 68.9・30.2%(68.7) 升田35.3・15.5%(20.2) 民主候補が一般に苦手とする郡部・小都市で津島と升田が票を喰い合いにより、序盤から横山がリードし、青森市内で大差がつくという展開となった。郡部で小差のリードで中心都市で大差をつけるという民主候補圧勝の典型的パターンといえる。 津島は、自民党の強い郡部・小都市で升田にリードを許しており、自民党は次回もこの候補にこだわる必要はなさそう。 横山:東津軽・北津軽で津島・升田両候補に5千票の差をつけ、更に五所川原で5千票、青森市で津島に2万票の差を付けるという盤石の展開で圧勝した。 津島:全市町村で横山に及ばず。青森市外では升田にも及ばず。 升田:出身地の中泊で大量得票して北津軽ではトップ得票を獲得した。青森市では得票力のアップが課題となった。 青森市 150.5 横山
ゆきゆきて神軍. <内容> 神戸市で妻とバッテリー商を営む奥崎謙三は、たったひとりの「神軍平等兵」として、 神軍の旗たなびくトヨタ・マーク2に乗り、今日も日本列島を疾駆する。 そんな中、かつての所属部隊・独立工兵隊第36連隊のうち、ウェワク残留隊で隊長 による部下射殺事件があったことを知り、奥崎は遺族とともに真相究明に乗りだした。 なぜ、終戦後23日もたってから、二人の兵士は処刑されねばならなかったのか。 執拗ともいえる奥崎の追求のもと、生き残った元兵士達の口から戦後36年にして はじめて、驚くべき事件の真実と戦争の実態が明かされる。~公開資料より抜粋~ <始めに> 下記感想描写は、この映画の主人公である奥崎謙三という人物の言動・行動のみに 焦点を当てたものであり、映画の骨格そのものである「戦争」を茶化すような意図など、 微塵も含まれていないということを予めお断りしておきます。 ※1:奥崎
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