社会に溶け込めず お金持ちにもなれず 夫にも 父親にもなれず 親の期待にも応えられず 誰かに愛されることもなく 誰かを導く 存在にもなれず 誰かの一番の仲良しにもなれず 次の時代に何かを残すこともできず それでも俺は明日も俺の人生を生きていく
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「ねえ、お母さん。フジテレビってずっと記者会見してるけど、いつからやってるの?」 「そうねえ、お母さんが子供の頃からずーっとやってるから…」 「ばあちゃんが子どものときは、はねるのトびらとかめちゃイケとか、バラエティ番組がいっぱいあってね…」 「本当に?全然聞いたことないけど…」 「本当だよ。他のテレビ局みたいにドラマやバラエティ番組をたくさんやっていて、『楽しくなければテレビじゃない』」なんて張り切ってた時期もあったけど…」 「ばあちゃんの若い頃にね、SMAPっていう人気のグループにいた中居君って人が不祥事を起こしてから…あんなことになったんだよ」 2100年1月27日、フジテレビが記者会見を始めてから75年が経過した。 その間に社長は4人変わり、港区台場のフジテレビ社屋は90年代バブル経済期を象徴する歴史的建造物として登録された。 以前はサザエさんやちびまる子ちゃんといった国民的アニメ
交通事故で膝の骨が粉々になり、半年くらい車椅子の生活を強いられていたことがある。俺はその間、一時的に「ひまわり学級」いわゆる特別支援学級に登校することになった。もといた教室までの階段を登れなかったし、エレベーターもなく、車椅子が入れるフラットなトイレも1階にしかなかったのが理由だ。 でもひまわり学級は身体障害者向けと言うよりは少し知能や精神に問題のある児童のためのものだった。3〜6年生のそういう児童が集められて、各自の進行度に合わせたプリントを進めたり、先生が一対一で教科書を読んで説明したりする。先生は二人いて、一人は児童の勉強を見て回り、もうひとりは大人しくしていられない子どもを落ち着かせたり指導をする、という感じだった。 俺は車椅子用に広めのスペースを開けてもらった教室の右後方からそれを眺めながら「こりゃヤバいところに来たな」と純粋に焦った。常に奇声が上がっているし、自閉症やダウン症の
理由はわかってて、その子がいつも愚痴を言ったりオタクトークをしていた男性社員が先日退職したんだよね で、そいつの次にそういう話題をふっかけやすいのが俺だったと 正直言って仕事の邪魔だが、部署の数少ない若手社員なので懐いてくれて嬉しい気持ちもある ただ、強がりではなく、全く浮かれるような気持ちにはなっていない 彼女は自分が話したいことをウンウンと相槌打ちながら聞いてくれれば誰でもいいんだろう それが明らかすぎて、便利に使われてるなーと毎日ウンウン言って聞き流している こういう人たまにいるけどよくわからんなと思う 性別問わず、話を聞いてくれそうな人に自分が話したいことや思考の整理のためのおしゃべりを一方的に話して去っていく人は意外と多い 大学の頃にサークル活動で知り合った友人にもそういう男がいた そいつは4年間にわたって一方的に話し続けたが、自分が何を話したか全然覚えてなかっただろうと思う で
ハラルフードのお店でマトンのビリヤニを注文したら ムスリムのおじさん店主に「最後だからライタないけどいい?」と言われた ライタってなんだっけと思っていたら「ヨーグルトソース無いから100円引きにするけだいじょぶ?」とのことだった 「大丈夫です」と伝えて、しばらく経って、マトンのビリヤニがやってきた パサパサの米とマトンをスプーンでかっ込んでいると、店に電話がかかってきたらしく、 店主のおじさんは奥へ引っ込んでいった 小さな店でお昼のピークを過ぎていたのでお客は私一人、店員は店主のみなのでその場には私しかいない マトンの骨とクミンシードと明らかに辛そうな青唐辛子をよけつつ香味のついたジャスミンライスを汗をかきながら口に放り込んでいた スピーカーにしているのか、おじさんの電話の相手の声が聞こえてきた 「耳の聞こえない方からの依頼で電話しているのですが」 「はい、どういったご用件ですか?」とおじ
大岡裁き。それは我が子を想う母親の心情を巧みに掬い上げた大岡越前守が名裁決である。 白洲に引き出されたは二人の女と幼き稚児。女どもは我こそが子供の母親であると口々に申し立てる。母は己が益よりも我が子の心身を重んじるはずと考えた大岡越前守は、自らこそ子供の母親であると声を上げる二人の女に子供の手を引っ張らせ、まことの母親であれば子供を諦めないはずであると、敢えて真逆の行為をけしかけた。果たして本物の母親はすぐさまに我が子の身体を想い手を離したのであるが、偽りの母親は最後まで子供の悲鳴にも聞く耳を持たずに手を引き続けた。 この、お白洲という非情がまかり通る場所での親子の情を重んじた名裁決は、またたく間に江戸中の評判となった。大岡越前守の公正かつ賢明な裁きに感銘を受けた江戸の母親達は、我と我が子が白洲へ上げられる最悪の事態に備え、こぞって相手よりも素早く手を離す訓練を始めた。はじめは隣近所で集ま
大学生の時、サークルの部室の前で同じサークルのメンバーたちとダベっていると、 小学校5~6年ぐらいの少女が寄ってきて、 「肩車して」 と言ってきた。 大学の構内なのだが、出入り自由なので「大学と関係ない小学生が入り込んでいるのかな」と意識の片隅で思った。 肩車なんて、子供の時以来やったことがなかったから、転んだりしないかちょっと不安だったが、なんとなく雰囲気に押されて「うん」と答えてしまった。 ぼくの動悸が速くなった。 今にして思えば、この時点で、すでにその少女に完全に飲まれていた。 その少女の容姿、声のトーン、表情、服装、匂い、全体が醸し出すある種の雰囲気に。 その少女は、まるでぼくが「うん」と答えることが分かっていたかのように、あっというまにぼくの身体によじ登り、肩車の位置にするりと納まった。 僕の動悸がさらに速くなった。身体がかっと熱くなり、自分の顔が赤くなっているのが分かった。 そ
36歳になった。 彼女いない歴年齢で、職業は家事手伝いをしている。 家事手伝いというか、親が自営業で、そこの役員ということになっているが、何も仕事をしていない。 一応、年収は1500万円くらいはあることになってると思うが、自分の通帳は見たことがない。親の年収は多分1億くらいあると思う。 朝食、夕食はパンやパスタだが家族の分を作って、認知症の祖母を介護している。 もちろん、何度か、仕事もしてみたが、仕事は続かなかった。 誰ともうまくやれないんだな、自分は。いわゆるアスペってやつなんだと思うが、特に診断はしてもらっていない。 毎日、なろう小説を読んで、「世界救うかあ〜」って思っている。 実際に、昔は、世界を救う挑戦をしていた。 一応、東大の博士号を持っている。誰でも名前を知ってるアメリカの有名大学でも研究留学してた。科学で世界をなんとかしようと思って昔は論文も書いていた。 毎年、波がありながら
下北沢の雑貨屋の軒下にサボテンが売られていた。 親指くらいのサイズ、100円。 同棲している彼女が好きそうだなと思った。 その日は給料日で余裕があった。 店の中で椅子に腰掛け気だるそうに雑誌を読んでいる店主に声をかけて、サボテンを買った。 レジでサボテンを袋に入れてもらっている間、なんとなしに気恥ずかしさが湧いた。照れ隠しに「プレゼントなんすよ」と言ってみた。 「へえ、誰に?」と店主。 「同棲している彼女に」 「サボテンはね、人を選ぶよ」。目を合わせず店主がつぶやいた。 きっと喜ぶよ、とか、センスいいね、とか、客商売ならもっと気の利いた一言もあるだろうに、と思ったが、妙に納得した。 サボテンを持ってる自分がおかしくて、足早に家に向かった。 家の間取りは玄関扉を開けるとすぐに廊下兼台所がある。 扉を開けると煮込み料理を作っている彼女と目があった。 彼女の視線が俺の顔から右手に移る。 「…サボ
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