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  • 豪 水道管破裂で80mの噴水 NHKニュース

    オーストラリアの住宅街で水道管が破裂し、突然、大量の水が高さ80メートルの噴水となってあふれ出す騒ぎになり、水の勢いで近くの家の屋根が崩れるなどの被害が出ました。 オーストラリア・メルボルンの郊外で29日、各家庭に水を供給するための水道の管が破裂し、住宅地の中で突然、大量の水が噴き出しました。 地元メディアによりますと、水は住宅の屋根よりもはるかに高い地上80メートルまで噴き上がり、駆けつけた水道会社の作業員がたった1人で対応に当たりました。 水はおよそ1時間後に出なくなり、けが人はいませんでしたが、あふれた水は200万リットルに上り、水の勢いで住宅2棟で屋根が崩れるなどの被害が出たほか、近くの道路もまるで大雨が降ったかのように水浸しになりました。 被害を受けた家の住民は、「家中がめちゃくちゃに壊れてしまいました。この状態では生活できません」と話していました。 また、水と一緒に重さ60キ

  • 時事ドットコム:委員、「事故」表現に抵抗感=もんじゅ研究部会で初会合

    委員、「事故」表現に抵抗感=もんじゅ研究部会で初会合 委員、「事故」表現に抵抗感=もんじゅ研究部会で初会合 高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)のこれまでの成果の取りまとめや、放射性廃棄物の有害度減少を目指す研究計画策定のための議論をする作業部会の初会合が29日、文部科学省で開かれた。会合では、1995年のナトリウム漏えい事故について、委員から「事故という表現に抵抗がある」との発言があった。  作業部会では、座長に当たる主査の山名元京都大原子炉実験所教授が「事故を起こしてはいけない」と指摘。これに対して、「日エネルギー経済研究所」戦略研究ユニット原子力グループマネージャーの村上朋子委員がナトリウム漏えい事故について、「表現に抵抗がある。何とかならないか」と表現を緩めるよう求めた。  また、東北大金属材料研究所教授の永井康介委員は「何をどこまでしたいのか分からない。気度がどれくらいある

  • 支那 通州事件の記録写真を南京大虐殺と捏造.

  • 秋葉原通り魔事件 - Wikipedia

    2008年6月8日12時30分過ぎ、東京都千代田区外神田四丁目の神田明神通りと中央通りが交わる交差点で、元自動車工場派遣社員の加藤 智大(かとう ともひろ、1982年9月28日 - 2022年7月26日[7]、事件当時25歳)の運転する2トントラック(いすゞ・エルフ)が西側の神田明神下交差点方面から東に向かい、中央通りとの交差点に設置されていた赤信号を無視して突入、青信号を横断中の歩行者5人をはねた。 このトラックは、交差点を過ぎて対向車線で信号待ちをしていたタクシーと接触して停車。周囲にいた人々は最初は交通事故だと思ったが、トラックを運転していた加藤はそのまま車を降り、道路に倒れこむ被害者の救護に集まった通行人、警察官ら17人を所持していたダガー(ナイフ)で立て続けに殺傷した[注 1]。 さらに加藤は奇声を上げながら周囲の通行人を次々に刺して逃走。事件発生後まもなくして近くの警視庁万世橋

    秋葉原通り魔事件 - Wikipedia
  • 漢口事件 - Wikipedia

    漢口事件(かんこうじけん/はんこうじけん)とは、1927年(昭和2年)4月3日、国民革命軍の北伐のさなか、現在の中国の武漢を構成する漢口では国民党左派と共産党による武漢国民政府が一時的に樹立されていたが、そこで起きた暴徒化した現地民衆による日人・日人商店襲撃とその際に起きた日海軍による現地民衆に対する発砲事件。 日海軍・日人居留民の報告によれば、日租界で日海軍の水兵2人が中国人の子供に投石されたことを端緒に、現地民衆と日人水兵の争いが発生、水兵の一人は近くの堂に逃込んだが、その水兵が中国人を一人殺したとの噂が広まったことや同堂ないし隣の料亭に他に複数の日人水兵がいたことから争いが拡大、掠奪・破壊が始まった。居留民が暴行を受けた他、現場に駆けつけた田中副領事も民衆に殴打された。[1] 高尾享在漢口総領事と先任指揮官の協議で陸戦隊員120 人が上陸、抗議に来た中国人デモ隊

    漢口事件 - Wikipedia
  • 漢口邦人巡査射殺事件 - Wikipedia

    中国側には責任はないと主張した揚永泰湖北省主席 1936年9月19日午前11時半、漢口日租界河街大正街(バンド下端租界境界線)にある日総領事館第9号見張所に立番中の吉岡庭二郎巡査(長崎県出身)が日租界に隣接するスタンダード・オイル社前の道路から7~9mほど入ったところの煙草屋で店主と談話していたところ、河下からやってきた37、8歳の中国人が隠し持っていた拳銃で至近距離から吉岡巡査の左頚部を狙撃したため、巡査は即死した[7][8]。 事件直後に日総領事館から揚永泰州政府主席と呉市長に対して事件の通知と犯人逮捕捜査の要請がなされた[9]。9月22日には三浦義秋総領事[10]と揚永泰州政府主席との間で会談が行われ[11]、三浦総領事からは中山水兵射殺事件を始めとする一連のテロ事件事件の導因となったことなどから中国側の責任が指摘されたが[11]、揚永泰は犯人捜査には協力するが事件は日

    漢口邦人巡査射殺事件 - Wikipedia
  • 尼港事件 - Wikipedia

    座標: 北緯53度8分 東経140度44分 / 北緯53.133度 東経140.733度 廃墟となったニコラエフスク(尼港) 虐殺事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真。 中央の白衣の人物が虐殺の中心人物ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリピャーツィン。 左の女性は宣伝部指導者、次いで参謀長を務めたニーナ・レペデワ(レベジェワ)・キャシコ。 その隣、左端の椅子に座った人物が副司令のラプタ。背後には日人から略奪した屏風が見え、撮影時期は1920年4月と推定されている。 尼港事件(にこうじけん、露: Николаевский инцидент Nikoláyevskiy Intsidyént, 英: Nikolayevsk Massacre[1][2][3])は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にある日人統治状態にあったニコラエフスク(尼港、

    尼港事件 - Wikipedia
  • 済南事件 - Wikipedia

    人居留民: 死者16〜13人[1] 暴行侮辱:30余 陵辱2 掠奪被害戸数136 他被害人員約400 日軍: 死者26[1] 負傷者157[1] 済南事件(さいなんじけん)は、1928年(昭和3年)、中国山東省の済南における5月3日に始まる日軍と、蔣介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件[1]。その際、日中双方で相手方の官民・居留民らに対する虐殺、残虐行為があったとされる。日軍は現地における日権益と日人居留民の保護のため山東省に派遣(第二次山東出兵)され、国民革命軍は北伐中であった。中国側ではとくに5月3日以来の残虐行為と虐殺のほうに注目して五三惨案あるいは济南惨案と呼ばれることも多い。 事件の発端については日中国では見解が異なる[1]。 また、日軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日軍の「無抵抗の外交

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  • 北海事件 - Wikipedia

    1936年9月3日、広東省北海で商店を経営する日人中野順三が店舗を襲撃した暴徒によって殺害された[1]。同地方は広西軍の新編独立第一師翁照垣麾下の旧十九路軍及び第六十一師丘北琛部隊の暫駐地であり、排日意識が暴動の背因をなしていた。 事件の一報が伝わると、当時成都事件直後の日中関係は緊迫していたため日は軍艦を派遣、また調査員を送った。9月20日、翁照垣軍の撤退を待って現地調査を行い、9月24日調査を完了。近郊に隠れていた被害者の中国人)及び子供を救出した。 事件について日側は大使川越茂を通じて8月4日に日人が殺害された成都事件とあわせて厳重な交渉を国民政府と行い(川越・張群会談)[1]、幾多の紛糾を重ねて12月30日、国民政府の陳謝、責任者及び犯人の処罰、被害者の遺族に対し3万元を贈ることその他を決定した。

  • 成都事件 - Wikipedia

    襲撃直後の大川飯店 左:上海毎日新聞記者深川経二の遺体 右:大阪毎日新聞記者渡辺洸三郎の遺体 1936年(昭和11年)8月24日、四川省成都で、大阪毎日新聞上海特派員渡辺洸三郎[1][2]、上海毎日新聞社員深川経二[1][2]、南満洲鉄道上海事務所員田中武夫[2]、漢口邦商瀬戸尚[2]の4名が同地の中国人学生をふくむ暴徒の襲撃を受け散々に殴られ、渡辺・深川の2名が殺害され[3]、田中・瀬戸の2名が重傷を負った。 この事件の背景として、日の外務省が満洲事変後閉館中の成都総領事館を再開すべく岩井総領事代理を派遣しようとしたところ、中国側は成都が商埠地でないことを理由に開館を拒否した。日側は以前に総領事館があったことから、これを既得権と主張、領事代理の派遣を強行した。[4] 中国側は民衆運動によってこれを阻止しようと図った[4]ともされ、この結果、8月初旬以来、四川省、殊に成都において「開館

    成都事件 - Wikipedia
  • 長崎事件 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "長崎事件" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2014年2月) 定遠 鎮遠 1886年(明治19年)8月1日、清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に入港した[4]。 8月13日、500人からなる清国水兵が日の許可無しに勝手に上陸を開始。長崎市内をのし回り、泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くす。この内の一部の水兵が遊廓に押し掛けたが登楼には予約が入っており順番待ちがあった。このことに怒った水兵は暴れだし、遊郭の備品を破壊したり盗み出したりした。長崎県警察部

    長崎事件 - Wikipedia
  • 南京事件 (1927年) - Wikipedia

    3月22日朝、日海軍は荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊10人を領事館警備のために機関銃一門、無線電信機、小銃などを携えて駆逐艦檜から上陸させた[6]。しかし、自動車で南京城に入ろうとすると儀鳳門で張宗昌ら直魯連合軍は、蔣介石軍を援助する疑いがあるとして小銃など武器を押収した[6]。機関銃一門、無線電信機は先発の自動車で運んでいたので押収はされなかった[6]。荒木大尉は抗議したが受け入れられず、儀鳳門に翌朝まで抑留された[6]。 南京在留日側は、掠奪暴行が予想されたので3月22日に南京城内の婦女子を領事館に避難させ、23日午後8時までに領事館舎15人、館に38人、警察官舎に20人、書記生室に19人、署長官舎に10人を収容した[7]。 また、23日に山東軍の敗兵が南京外れの港のある下関地区で略奪・発砲をしたため、危険があるとして下関地区の婦女子は駆逐艦檜と日清汽船のハルクに収容した[8]。

    南京事件 (1927年) - Wikipedia
  • 通州事件 - Wikipedia

    元々、1933年5月の塘沽協定で日中の軍事衝突を避けるための非武装地域が設けられ、双方の軍隊は立ち入りを禁止され、治安維持は中国側の警察部隊が担うことになっていた。そのため、保安隊は主に日軍を避けて満洲から逃れてきた漢人や馬賊たちが採用され、これらは俗に「雑軍」と呼ばれていた。[10][11] 冀東防共自治政府は、なおも華北への影響力拡大を狙う日の華北分離工作によって樹立された傀儡政権であった[8][12]。早稲田大学を卒業した親日派の殷汝耕を中心に1935年11月25日、通州で自治宣言を発表し、12月には自治政府として活動を始め、自治政府保安隊2個隊が設置された[8]。国民党政府はこの冀東自治政府に対抗して冀察政務委員会(冀察政府)(委員長:宋哲元)を設置した[8]。 冀東防共自治政府保安隊は、日軍の支那駐屯軍から派遣された将兵により軍事訓練が施された治安部隊であり、教導総隊及び第

    通州事件 - Wikipedia
  • 幸徳事件 - Wikipedia

    1910年(明治43年)5月25日、長野県の機械工で社会主義者の宮下太吉が爆発物取締罰則違反容疑で逮捕されたことにより明るみに出た、明治天皇の暗殺計画である。 宮下は長野県東筑摩郡中川手村明科(現:長野県安曇野市明科中川手)にある勤務先の明科製材所にて爆弾を製造し、1909年(明治42年)11月3日に爆破実験を行っていた[1]。計画に関与したとして、宮下の他に管野スガ・新村忠雄・古河力作の3名も逮捕された。 明科事件を口実として、警察や政府によるフレームアップ(でっち上げ)によって幸徳秋水をはじめとする多数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、証拠不十分のまま1911年(明治44年)1月18日に24名へ死刑、2名へ有期刑の判決が下った。死刑となった24名のうち、1月24日に秋水を含む11名、翌日に管野の死刑が執行された[2]。 死刑が執行されたのは秋水・管野の他に明科事件で逮捕さ

  • 甲申政変 - Wikipedia

    甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した[1]。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。 閔妃とされてきた写真 1880年代前半、朝鮮の国論は、清の冊封国としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指す開化派に分かれていた。後者はさらに、国際政治の変化を直視し、外国からの侵略から身を守るには、すでに崩壊の危機に瀕している清朝間の宗属関係に依拠するよりは、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき親清開化派(事大党)に分かれていた[2]。親清開化派は、清国と朝鮮の宗属関係と列国

    甲申政変 - Wikipedia
  • 三島事件 - Wikipedia

    三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に作家の三島由紀夫(名・平岡公威)が、憲法改正(憲法第9条破棄)のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる[1][2]。 この事件は日社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家が起こした異例の行動に一様に驚きを示した[3][4]。2000年(平成12年)に『文藝春秋』が実施した「20世紀における20大事件」というアンケートでは、1945年(昭和20年)8月15日の日の敗戦に次ぐ、第2位の出来事となった[5]。警視庁が2016年(平成28年)に実施した「警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大

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  • 朴正煕暗殺事件 - Wikipedia

    朴正煕暗殺事件(パク・チョンヒあんさつじけん、ぼく・せいきあんさつじけん)は、1979年10月26日に大韓民国のソウル特別市で、朴正煕大統領と車智澈大統領府警護室長が金載圭大韓民国中央情報部部長によって殺害された事件である。韓国では起きた日付から「10・26事件」、また発生した場所から「宮井洞事件」とも呼ばれている。 大韓民国中央情報部(KCIA)部長・金載圭は朴大統領の古い友人で、5・16軍事クーデターに参加はしなかったものの、朴大統領との良好な関係を保ちつつ軍の要職を歴任し、予備役入りして政治家に転じた後も要職を務めた後、KCIA部長に就任して腹心の一人となった。しかし、KCIA部長に就任後は数々の反体制派弾圧政策に携わる一方で民主化について度々言及し、朴大統領に「学生運動の弾圧が生ぬるい」としてしばしば叱責されるなどその関係が悪化していた。 また、これと並行して金は車智澈大統領府警護

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  • 浙江省でダム決壊 百人近く死傷 -- 新唐人テレビ日本

    【新唐人2012年8月12日付ニュース】8月10日早朝、中国浙江省舟山市岱山県でダムが決壊しました。当局は10人が死亡、27人が負傷したと報道。一方、地元住民によると少なくとも40人以上が死亡し、50人あまりが病院で救急治療を受けているそうです。また、地元住民は2ヶ月前からダムの水漏れを報告したものの、地元政府に無視されていたそうです。 決壊したダムの貯水量は18万立方メートル。惨劇が発生したのは10日午前4時半頃で、水と土砂が下流に押し流され、多くの家屋が一瞬のうちに飲み込まれました。我々はダムからわずか300メートル離れた所に住んでいた地元住民に話を伺いました。 地元住民 柴さん 「南に向かって流れてきました。下の住宅地は全部平地になりました。一箇所の決壊で、ダムと同じ幅が全部平地になり、家はもうありません。目下 地元の人だけでも10数人死亡し、地方の人も入れると40数人死亡しています

  • 日航機事故から27年 灯籠流し NHKニュース

    520人が犠牲になった日航ジャンボ機の墜落事故から、12日で27年になります。 墜落現場がある群馬県上野村では、亡くなった人たちを追悼する灯籠流しが行われました。 墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」のふもとを流れる神流川では、毎年、事故が起きた8月12日の前の晩に、事故の犠牲者を追悼する灯籠流しが行われます。 11日も、遺族や関係者が集まって、灯籠に思い思いのメッセージを書き入れたあと、墜落時刻の午後6時56分に合わせて、1つずつ、静かに川に流しました。 姉とその家族3人を失った58歳の女性は「ここに来ると、亡くなった姉と語り合えるような気がします。灯籠を流しながら、ことしも元気で来たよと伝えました」と話していました。 また、同僚の客室乗務員を失った53歳の女性は「27年を前に心の整理ができ、ことし初めてここに来ることができました。安らかに眠ってくださいという思いを込めて、灯籠

  • 日航機墜落事故、御巣鷹山のふもとで灯籠流し : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故から12日で27年になるのを前に、犠牲者の霊を慰める灯籠流しが11日、御巣鷹山のふもとを流れる群馬県上野村の神流(かんな)川で行われた。 大粒の雨が降る中、「二度と事故が起こらない世の中になりますように」などと遺族の思いが書かれた灯籠約300個が川面に浮かんだ。 事故当時、村長として遺族支援に尽力し、昨年12月に97歳で亡くなった黒沢丈夫さんへの感謝を記したものや、今年4月に7人が亡くなった関越道バス事故の犠牲者の冥福を祈るものもあり、遺族らは静かに手を合わせていた。 遺族で作る「8・12連絡会」事務局長の美谷島邦子さん(65)は「事故を風化させたくないという思いは年々強くなっている。雨が心配だったが、開催できて良かった」と話した。