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treatyとunequal-treatyに関するnabinnoのブックマーク (5)

  • 露清密約 - Wikipedia

    露清密約(ろしんみつやく、カシニー密約、李鴻章-ロバノフ協定、中国語: 中俄密約、禦敵互相援助條約、防禦同盟條約、英語: Li-Lobanov Treaty, Sino-Russian Secret Treaty、ロシア語: Союзный договор между Российской империей и Китаем)は、日清戦争及び三国干渉後の1896年6月3日、モスクワでロシア帝国と清の間で締結された秘密条約。 ロシア側は外務大臣アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーと財務大臣セルゲイ・ヴィッテ、清側は欽差大臣李鴻章が立ち会った。 この条約は、日ロシアと清のいずれかへ侵攻した場合に互いの防衛のため参戦するという相互防御同盟の結成が目的であったが、同時に、清に対してロシアの満洲における権益を大幅に認めさせるという不平等条約の側面もあり、日露戦争を惹起した原因の一つとされる。 三

    露清密約 - Wikipedia
  • 日清通商航海条約 - Wikipedia

    日清通商航海条約(にっしんつうしょうこうかいじょうやく)は、下関条約に基づき1896年7月21日に北京において日と清国の間に締結された条約[1]。 同年10月20日に批准書交換が行われて[1]10月28日に発効した。日側全権は林董。清側全権は張蔭桓。 条約により日は清に対して領事裁判権、協定関税、最恵国待遇など欧米と同一の特権を獲得し、これを足場に中国市場に進出した[1]。 辛亥革命で成立した中華民国にも継続された。五・四運動以後、中国内の反帝運動の高まりで、改訂もしくは廃棄が主張されるようになり、1928年7月19日の中国政府の廃棄通告を経て、1930年5月6日に日政府が条約改訂に応じ、中国は関税自主権を回復した[1]。 締結[編集] 1894年(明治27年、光緒20年)に勃発した日清戦争によって日清修好条規が破棄されたため、戦後の下関条約締結後、新たに結ばれた[3]。 日清戦

  • 九カ国条約 - Wikipedia

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "九カ国条約" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2010年3月) この条約は、中国に関する条約であり、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、日中国進出を抑制するとともに列強による中国権益の保護を図ったものである。日は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。 これ以後、国際社会はワシントン体制と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かった。九カ国条約の根的誤謬は、中華民国の国境を明確に定めないで、

  • 不平等条約 - Wikipedia

    不平等条約(ふびょうどうじょうやく、英語: unequal treaty)とは、条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約である。民事事件については訴えられる側の国の司法機関、刑事事件については被疑者の国の司法機関で裁判を行うとした条約もある(治外法権)[1] 19世紀から20世紀初頭にかけて、帝国主義列強はアジア諸国に対して、条約港の割譲や在留外国人の治外法権承認、領土の割譲や租借など不平等な内容の条約を押し付けた。その中には、片務的最恵国待遇もあった。憲法および法典(民法、商法、刑法など)を定めている先進国側が、それらの定められていないあるいは整備の進んでいない国において、それらを定めていないことによって被るであろう不当な権力の行使を避けるために結ばれることが多い。現刑法においても「国民以外の者の国外犯」による「日国民に対

  • 日朝修好条規 - Wikipedia

    興宣大院君 この条約が締結された当時、朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかし、そのような朝鮮も1860年代以降に欧米列強から近代的な国交・通商関係を求められるようになる。 当時、朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。大院君は鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の行為を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を推進していた大院君が西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。大院君は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建て、攘夷の機運を高めた。また、朝鮮では、文禄・慶長の役で中国が朝鮮を救援したため、戦時には中国からの救援を期待していた。小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識です

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