事件の舞台となった鳴尾競輪場は、この事件直前の9月3日に関西地方を直撃したジェーン台風により、メインスタンドや投票所の屋根が吹き飛ばされるなど、施設に大きな被害が出た。このため主催者側では明石競輪場で代替開催する事も検討したが、災害救援レースと銘打ち、収益の全てを災害復興資金に充てる事で開催に踏み切った経緯があったのだが、結果的にこれが裏目に出た。 1950年9月9日、午後4時50分に発走した第11レース(B級選抜、距離2000メートル)は、実用車を使用して[注 1]9車立てで行われた。490メートル付近(当時は500mバンク)で、ある本命視されたN選手(『競輪三十年史』の表記ではイニシャル[1]だが、『近畿競輪二十年史』では実名[2]で表記されている)より、クランクピンが緩んだのでレースをやり直したいと審判員に申告があり、N選手自らはコースを離れてスパナで緩んだピンの締め直しを行った上で