Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

タグ

宮都に関するshig-iのブックマーク (48)

  • 大極殿院は未完成か 恭仁京跡で塀跡を確認できず

    8世紀に聖武天皇が造営した恭仁京(くにきょう)の跡(木津川市加茂町)から、官僚が政務をした「朝堂院」の北西角とみられる柱列が出土し3日、府教育委員会文化財保護課が発表した。これにより朝堂院の範囲が東西117メートル、南北100メートルで確定した一方、同院北端に接するはずの天皇が政務・儀式を行う大極殿院の南端の塀跡は確認できず、大極殿院が未完成だった可能性が高いことがわかった。 恭仁京は、天平12(740)年に藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が九州で起こした朝廷に対する反乱を機に聖武天皇が平城京を離れ、一時的に営んだ都。約5年間機能したといわれている。 昭和48年から始まり今回で100回目となる調査では中心施設「恭仁宮」の範囲確認のため、北から南に向け配された大極殿院、朝堂院、朝集院のうち、大極殿院と朝堂院が接した塀跡と朝堂院跡の内部の計約235平方メートルを調査した。 この結果、朝堂院の北西

    大極殿院は未完成か 恭仁京跡で塀跡を確認できず
  • お知らせ : 京都新聞

    File Not Found. 該当ページが見つかりません。URLをご確認下さい。 お知らせ 事件・事故のジャンルを除き、過去6年分の主な記事は、インターネットの会員制データベース・サービスの「京都新聞データベース plus 日経テレコン」(http://telecom.nikkei.co.jp/public/guide/kyoto/)もしくは「日経テレコン」(社・東京 http://telecom.nikkei.co.jp/)、「ジー・サーチ」(社・東京、 http://www.gsh.co.jp)のいずれでも見ることができます。また、登録したジャンルの記事を毎日、ネット経由で会員に届ける会員制データベース・サービス「スカラコミュニケーションズ」(社・東京、http://scala-com.jp/brain/) も利用できます。閲読はともに有料です。 購読申し込みは下記のページから

    shig-i
    shig-i 2017/12/06
    “隣接する「大極殿院」の区画が柱穴の位置から推定され、平城宮(第一次)と同形態の可能性が高くなったとしている”
  • お知らせ : 京都新聞

  • 大化改新の詔の「幻の単位」記す木簡 難波宮跡近くで出土 - 日本経済新聞

    大阪市の難波宮跡近くで、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土し、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が3日までに明らかにした。日書紀には、難波宮に遷都した孝徳天皇が、646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。しかし、五十戸と記した史料は、現在のところ天智天皇の時代の660年代のものが最古で、改新の詔の内容を疑問視する考えもある。同研究所の高

    大化改新の詔の「幻の単位」記す木簡 難波宮跡近くで出土 - 日本経済新聞
  • 大阪ニュース | 大阪日日新聞

    サイトに掲載の記事・写真など一切の無断転載を禁じます。 すべての記事・写真の著作権は新日海新聞社に帰属します。 著作物使用について ネットワーク上の著作権について(日新聞協会) ご意見・ご感想は住所、氏名を明記の上 info@nnn.co.jpまで

    大阪ニュース | 大阪日日新聞
  • 平安時代の幻の楼閣「白虎楼」の瓦見つかる 京都 - MSN産経ニュース

    shig-i
    shig-i 2012/09/07
    「平安時代の史記「延喜式」」史記?
  • 平安京跡に「物忌」木簡 高位の貴族所有か : 京都 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    中京区西ノ京笠殿町の平安京跡で、平安時代前期(9世紀)の道路側溝から「今日物忌(ものいみ)」と墨書された木簡や水晶の数珠などが見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が16日、発表した。側溝の西側では過去の調査で建物跡も出土しており、同研究所は「高位の貴族が所有したと考えられる珍しい遺物」としている。 調査地は平安宮のすぐ西にあたる一等地の右京二条二坊十一町だが、文献で誰の邸宅があったか判明していない。側溝は条坊道路「西堀川小路」の西側溝の一部とみられ、長さ30メートル、幅4メートルを確認。ほかに祭祀(さいし)で使う土馬や下駄、ベルトの飾り「石帯(せきたい)」もあった。 木簡は縦17・5センチ、幅3センチで上部が三角にとがっており、エックス線での分析で墨書の文字を確認した。平安京跡で「物忌」と書かれた木簡は2例目という。物忌は一定期間に外出や飲を慎み、身体を清める行為。特に平安時代の貴族は、家に

  • 飛鳥京跡:大規模造成を初確認 橿考研 - 毎日jp(毎日新聞)

    奈良県立橿原考古学研究所は27日、飛鳥時代に天皇の宮殿が多数造られた同県明日香村の飛鳥京跡で、低湿地に大量の土を入れて造成した跡を発見したと発表した。推定される造成面積は約2万5000平方メートルで、土は10トンダンプカー3500台分に相当する約1万7500立方メートルという。飛鳥京跡での大規模造成の確認は初めて。橿考研は「飛鳥時代の土木技術を知るうえで重要だ」としている。 用水路の改修工事に伴い、昨年10月から約1180平方メートルを調査した。天皇の宮殿があった飛鳥京跡の内郭と呼ばれる区画の北東側にあたる。内郭には7世紀、▽舒明(じょめい)天皇の飛鳥岡宮▽皇極天皇の飛鳥板蓋(いたぶきの)宮▽斉明・天智天皇の後(のちの)飛鳥岡宮▽天武・持統天皇の飛鳥浄御原(きよみはらの)宮があったという。 低湿地に山の土を深さ70センチ~1メートル入れていた。藤原京(同県橿原市)に遷都(694年)する

  • 藤原宮跡:発掘調査、建物跡5棟確認 造営の仮設事務所か /奈良 - 毎日jp(毎日新聞)

    shig-i
    shig-i 2011/11/07
    「確認されたのは、朝廷の石敷きが整備される前にあった5棟の簡易な建物跡。5棟は一度にすべて建っていたのではなく、最初に1棟、次に2棟、最後に2棟が建てられたとみられる」
  • お知らせ : 京都新聞

    File Not Found. 該当ページが見つかりません。URLをご確認下さい。 お知らせ 事件・事故のジャンルを除き、過去6年分の主な記事は、インターネットの会員制データベース・サービスの「京都新聞データベース plus 日経テレコン」(http://telecom.nikkei.co.jp/public/guide/kyoto/)もしくは「日経テレコン」(社・東京 http://telecom.nikkei.co.jp/)、「ジー・サーチ」(社・東京、 http://www.gsh.co.jp)のいずれでも見ることができます。また、登録したジャンルの記事を毎日、ネット経由で会員に届ける会員制データベース・サービス「スカラコミュニケーションズ」(社・東京、http://scala-com.jp/brain/) も利用できます。閲読はともに有料です。 購読申し込みは下記のページから

    shig-i
    shig-i 2011/07/28
    木簡「讃岐國鵜足郡少領□(□は判読不能)」
  • 京都、恭仁京の排水溝跡か 上狛北遺跡で発見|さきがけonTheWeb

  • asahi.com(朝日新聞社):長岡京「西宮」の回廊跡か 大極殿跡西側に掘立柱用の穴 - 文化

    掘立柱を立てるための穴=京都府向日市  平安京遷都(794年)までの10年間都が置かれた長岡京の中枢、長岡宮跡(京都府向日市)で、桓武天皇が政務を執ったとされる大極殿跡の西側から回廊跡の遺構が見つかったと17日、向日市埋蔵文化財センターが発表した。  大極殿の西350メートルの地中から、掘立(ほったて)柱を立てるための穴21基(深さ1.4〜1.6メートル)や、石で作られた溝が出てきた。穴に立てられた柱の間隔は2.4メートルか3メートルと規則的だったと推定され、柱は3列に配置される「複廊」と呼ばれる回廊跡とみられる。  「続日紀」によると、桓武天皇は789年、第1次内裏と呼ばれる「西宮」から、第2次内裏の「東宮」に移った。これまでの調査で西宮の場所は判明していなかったが、掘立柱の複廊は内裏など重要な施設に用いられることなどから、同センターは「第1次内裏(西宮)の一部である可能性もある」とい

    shig-i
    shig-i 2010/12/19
    「ただ、山中章・三重大教授(歴史考古学)は「内裏は大極殿の北にあるというのが通説」と、遺構が西宮以外の施設である可能性を指摘する」
  • sankei-kansai.com - このページは表示できません。

    ドメイン名:sankei-kansai.com このドメインは、登録期限が超過したため、ページを表示できません。

    shig-i
    shig-i 2010/10/23
    ]「今回の調査で判明した推定全長と、平城宮跡の調査でわかっている移築回廊の長さがほぼ一致」
  • 隣の官舎が広い!不公平だ!…平城遷都の理由? : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    同じ広さの官舎だと思っていたのに、隣の方の敷地が広かったら――。 そんな不公平感が平城遷都につながった可能性があるというユニークな説を、入倉徳裕・奈良県立橿原考古学研究所総括研究員がまとめた。藤原京や平城京では、碁盤の目状の条坊道路で区画された宅地を、朝廷が身分に応じて支給していたが、藤原京では道路の方位に誤差があり、宅地の区画が均一にならなかった。入倉総括研究員は「貴族らの不満が高まり、遷都の一因になったのではないか」と推測している。 藤原京には東西南北に直線道路が通っており、橿原、桜井両市の発掘調査で見つかった側溝などの道路遺構をもとに検討。道路はほぼ直線だったが、方位については、調査した藤原京跡の東西道路13が1000メートルにつき30メートルの範囲でばらつきがあった。一方、奈良市内の平城京跡では、17が5メートル以内に収まっていた。 平行する道路の間隔は、設計上は約133メート

    shig-i
    shig-i 2010/09/06
    「ユニークな説を、入倉徳裕・奈良県立橿原考古学研究所総括研究員がまとめた」
  • 最古の「大嘗宮」か 藤原宮跡で遺構を発見 (1/2ページ) - MSN産経ニュース

    報道陣に公開された藤原宮朝堂院朝庭調査の現場。「塀」「建物」「門」のほか奥には大極殿院南門跡がうかがえる=1日午前、奈良県橿原市(竹川禎一郎撮影) 奈良県橿原市高殿町の藤原宮(694〜710年)跡で、天皇の即位儀礼「大嘗祭(だいじょうさい)」を挙行する仮設の宮「大嘗宮(だいじょうきゅう)」とみられる建物や塀の遺構が見つかり、奈良文化財研究所が1日、発表した。大嘗宮跡は平城宮跡(奈良市)で6例確認されているが、奈良時代より古い宮跡では初めて。奈文研は「大嘗宮とすれば最古かつ初期の事例で、極めて重要な資料だ」としている。 大嘗祭は天皇が即位後に最初に行う「新嘗祭(にいなめさい)」(神に新穀を供えて収穫を感謝する祭り)。日書紀などから、大嘗祭の儀式は天武〜持統朝(673〜697年)に整備されたと推定される。藤原宮では文武天皇と元明天皇が即位し、大嘗祭を営んだことが続日紀に記されており、今回の

    shig-i
    shig-i 2010/07/01
    「藤原宮中枢部の朝堂院広場の北東部で、当時の柱穴を多数発見」
  • 長岡宮内裏脇殿に甲!!の条 - yaaさんの宮都研究

    考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。 長岡宮後期内裏(東宮)南東脇殿跡から甲の小礼発見!! 長岡宮内裏脇殿から大量の小礼が発見されたことを伝える2010年2月19日朝日新聞朝刊の紙面 2010年2月19日の関西地方の新聞各紙は、オリンピック中であるにもかかわらず、1面紙面中央にカラーで大々的に長岡宮内裏脇殿跡から確認された甲の部品の一つである小札を「天皇御物発見!」として伝えた。 昨年年6~8月に内裏内郭南東部で実施された発掘調査ではそれまでの仮説を覆す東西棟の脇殿発見のニュースが伝えられ私も早速現地を確認に行ったことがある。今回はその遺跡の資料を整理中に錆びた鉄製品をX線にかけると小さな穴が空いており、小札であると判明したというのである。小札自体はさほど珍しいものではなく、それなりの古墳を調査すると出土する

    長岡宮内裏脇殿に甲!!の条 - yaaさんの宮都研究
  • 天皇代替わりごとに利用? 平城宮跡で宮殿や倉庫群など発見 - MSN産経ニュース

    奈良時代に皇太子の住居や天皇の宮殿があった平城宮跡(奈良市)の東院地区で宮殿や通路、倉庫群など遺構が見つかり16日、奈良文化財研究所が発表した。 同研究所は「短期間で建て替えており、天皇が自由に使える空間として、代替わりのたびに利用形態を変えたのだろう」としている。 調査は東院地区の西側約1500平方メートルで実施。建物は6時期に区分されることが判明し、淳仁天皇在位期(758〜764年)のものと考えられる建物跡も確認された。 調査区の中央付近で東西に仕切る塀の北側には一辺が15メートル以上の建物跡2棟分、南側に30メートル以上の建物跡1棟分を発見。柱穴は一辺が1・5〜1・8メートルと比較的大きいことなどから、宮殿もしくは官衙(かんが)(官庁)として利用されていた可能性が高いという。

    shig-i
    shig-i 2010/02/19
    「調査は東院地区の西側約1500平方メートルで実施。建物は6時期に区分されることが判明し、淳仁天皇在位期(758~764年)のものと考えられる建物跡も確認された」
  • 皇族の甲冑コレクション? 長岡宮・内裏跡から部品出土 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    京都府向日市の長岡宮跡(784〜794年)で天皇が居住した内裏跡から、6世紀末〜8世紀末に作られたとみられる甲冑(かっちゅう)の部品「小札(こざね)」約30点が見つかり、同市埋蔵文化財センターが18日、発表した。皇族の墓とされる藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の副葬品や、正倉院宝物と同型のものもあり、皇族にかかわる甲冑の一部とみられる。同センターは、歴代の甲冑が約200年にわたって伝えられ、内裏で保管されていた可能性があるとしている。 小札は短冊形の薄い鉄板で、小さな穴を開けてひもで1000枚前後をつなぎ合わせ、胴などを守る甲冑の部品。内裏の中にある脇殿の基壇の穴からまとまって見つかった。平安京に遷都する直前に意図的に埋められたらしい。 十数点分の甲冑の部品で、最小1センチ四方、最大で長さ9センチ、幅2センチ。厚さはいずれも2ミリ以内。大きさなどから〈1〉6世紀末〜7世紀後半〈2〉8世紀前半〈3

    shig-i
    shig-i 2010/02/19
    「小札は短冊形の薄い鉄板で、小さな穴を開けてひもで1000枚前後をつなぎ合わせ、胴などを守る甲冑の部品。内裏の中にある脇殿の基壇の穴からまとまって見つかった」
  • 周防国で東アジア宮都を勉強するの条 - yaaさんの宮都研究

    考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。 「東アジア諸国における都城及び都城制の比較を通じてみた日古代宮都の通時的研究第7回研究会」と言うとても長いタイトルの研究会が、9・10日の二日間、山口大学人文学部であった。 今回は中国から社会科学院の劉振東さんをお迎えしての漢代長安城の報告と、中国近世の宋・元・明・清代の都城(複都)に関する文献研究者からの報告であった。いずれも内容の濃い、充実した報告であった。 報告内容の詳細はいずれ刊行される図書によって知ることができるだろうが、ここでは報告の主旨とは直接関係しない、トピック的に知ることのできた内容の一部をご紹介しよう。 漢の長安城については何度(4度?)か現地を訪れ、その様相を見学してきたのだが、今回は直接調査を担当されている研究者からの報告ということで、内容も豊か

    周防国で東アジア宮都を勉強するの条 - yaaさんの宮都研究
  • 大阪ニュース | 大阪日日新聞

    サイトに掲載の記事・写真など一切の無断転載を禁じます。 すべての記事・写真の著作権は新日海新聞社に帰属します。 著作物使用について ネットワーク上の著作権について(日新聞協会) ご意見・ご感想は住所、氏名を明記の上 info@nnn.co.jpまで

    大阪ニュース | 大阪日日新聞
    shig-i
    shig-i 2010/01/10
    「後期難波宮期(726~784年)のものとみられる建物の土台「基壇」跡が見つかった」