コパ・アメリカの3試合にすべてフル出場したDF冨安健洋。「ボールを扱えるし空中戦も強い」とオシムも期待を寄せる。 イビチャ・オシムに日本対エクアドル戦の話を聞いたのは、試合の翌々日だった。初戦のチリ戦は見たが、日本が引き分けたウルグアイ戦は見ることができなかったオシムは、やはり引き分けに終わり準々決勝進出を逃したエクアドル戦を高く評価している。いったいオシムは、エクアドル戦に何を見たのか。コパ・アメリカでオシムが見出した日本の真実とは何であったのか。オシムが語った。 16番は期待以上の優れた逸材だ。 ――元気ですか? 「ああ、君はどうだ?」 ――元気ですが、パリはすごく暑いです。 「この季節に雪は降らないからな(笑)。女子の試合(ワールドカップ・ラウンド16の日本対オランダ戦。ちなみにオシムは日本対イングランド戦はテレビで見ている)は見られなかったが、男子の試合(日本対エクアドル戦)は見た
歴代で2番目の若さとなる、18歳5日でフル代表デビューを果たしたわずか5日後の今月14日に、世界一のビッグクラブ、レアル・マドリード(スペイン)への完全移籍を電撃的に発表。日本のファンやサポーターだけでなく世界中を仰天させた久保建英は、南米ブラジルで開催中のコパ・アメリカでも各国のメディアから熱い視線を注がれている。森保ジャパンでデビューした時は無所属状態となっていた舞台裏や、下部組織時代を過ごした古巣FCバルセロナの宿命のライバルを新天地に選んだ理由を、FC東京時代に久保が残してきた語録などを基に探った。(ノンフィクションライター 藤江直人) ● 「18歳の誕生日まで」に こだわってFC東京と契約していた Jリーガーと所属クラブとの契約は、例えば単年契約ならば2月1日から翌年の1月31日まで、となる形がほとんどを占める。春に幕を開け、J1ならば12月の第1土曜日で閉幕するシーズンに合わせ
2017年10月、ワールドカップを翌年に控え 調子を上げていた倉田秋は日本代表でも結果を出した 途中出場で代表初ゴール、続く試合でも得点 この好調ぶりが続けばロシア行きが近づくかと思われた だが同世代の香川真司や乾貴士が輝く中 倉田は選考から漏れてしまった 監督交代は倉田にどう影響したのか 自分に足りなかったものは何だと思っているのか 「あの、好感度上がるように書いてください」 そう笑いながら現れた人懐こい選手の 自分が感じているウィークポイントと 現在を作り上げた経験について聞いた 西野さんにふて腐れた態度を出してしまった プロになって3年目ぐらいは辛かったですね。1年目でちょっと試合に出てたけど、3年目になったら試合にも出られなくて。紅白戦にも出してもらえてなかったんですよ。「やんちゃ」じゃないですけど、態度には出しちゃってたんで。たぶん。ふて腐れるというか。 そういうのって、当時ガン
「Okazaki ‘Beautifully’ Adapted To The Premier League」(プレミアリーグに美しく順応したオカザキ) 【動画】“奇跡の優勝メンバー”岡崎慎司が笑顔で地元レスターサポーターと別れ 5月20日、こんなタイトルの記事がレスターの公式サイトに掲載された。私がリチャード・メロー広報官の取材に応じたものだ。10日に今季最後となる監督定例会見に出席した際にインタビューを受けた。天気の悪い英国では珍しく雲一つない五月晴れの日で、ちょうど3年前、レスターのプレミアリーグ優勝が決まった直後の定例会見も、こんな晴天の日だったことを思い出した。この2日前の8日、日本代表FW岡崎慎司の今季限りでの退団がレスター公式サイトで発表されていた。 この4年でメロー広報官とは、「リッチー」「マサ」と呼び合う仲になっていた。レスターと同じ青のユニフォームを基調とした“ブルーズ”で
2003年、高校3年生でG大阪のトップチームに帯同 2004年、そのまま無事プロ選手として契約を結んだ ところが最初の3年間は1試合も出場できない 2007年には出場の場を求めてJ2の徳島に移籍する 2008年はJ1の大宮に移籍したがここでも出番に恵まれず 同じ年にJ2の福岡へと活躍の場を移した 2011年まで所属した福岡ではJ1昇格とJ2降格を味わい 2012年、J1のG大阪に復帰する ところが同年G大阪がJ2に降格 2013年は3度目となるJ2でプレーすることとなった そして2014年、J1に復帰するとともに三冠達成 2015年には日本代表に選ばれる 2017年と2018年はシーズン途中で広島とFC東京に移籍 丹羽大輝のサッカー人生は大きな変動を繰り返している 解任後のヴァイッド・ハリルホジッチ監督に会いに行った話とともに 激動の中で何を思ったか語ってもらった 苦しい経験が自分を強くす
4年間在籍したレスターでの最終戦を終えた岡崎。サポーターの大きな声援で送り出された 【Getty Images】 5月12日(現地時間)に行われたプレミアリーグ最終節のレスター対チェルシー戦。0−0で終わった試合後、レスターの本拠地キングパワー・スタジアムで、「シンジー・オカザキー」の名が盛大にアナウンスされた。手を振って声援に応える岡崎慎司。スタジアムに集まったサポーターは、スタンディングオベーションと割れんばかりの拍手で岡崎の功績をたたえた。 2015年6月にドイツ1部マインツからプレミアリーグのレスターに4年契約で加入。最終年となった今シーズンで契約満了になり、レスターを離れることになった。試合前、ブレンダン・ロジャーズ監督が「シンジはレジェンドとしてクラブを去る。感謝の意を示されるだろう」と話していたとおり、シーズン最終節となるこの一戦が“ラストゲーム”になり、大きな声援とともにサ
佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun説田浩之●撮影 photo by Setsuda Hiroyuki 世界2位の快挙から20年...... 今だから語る「黄金世代」の実態 第4回:加地亮(前編) 「俺、ワールドユースに行けるんかなぁ......」 1999年ワールドユース(現・U-20W杯)・ナイジェリア大会で、U-20日本代表は準優勝に輝いた。その数カ月前、同代表チームがフランス&ブルキナファソ遠征を実施した際、遠征メンバーのひとりである加地亮(かじ・あきら)は、そんなことを思っていたという。 「本大会では、合宿メンバーから数名が(代表メンバーから)落ちるわけじゃないですか。このメンバーと『一緒にいたい』というより、このメンバーの中で『生き残れるのかなぁ』って、(遠征中は)そのことばかり考えていた」 1999年ワールドユースについて振り返る加地亮 のちの2006年ド
〈記事本文〉 ここ数日、ヴァイッド・ハリルホジッチは電話に出てくれなかった。ワールドカップ開幕までわずか2カ月、日本代表監督を解任されたことは彼に影響を及ぼしたのだ。ようやく昨日(注・4月13日)になって連絡が取れたが、疲れた声で話す彼は失望を隠すことが難しいようだ。 「ショックを受けたよ。本当にショックだ」 「多くを話したくはないね。数日後には東京に行く。問題を解決して、そのあとに自分の心の中にある事柄について話すつもりだ」 ヴァハ(旧ユーゴスラビア諸国でのハリルホジッチの愛称)はそのように語ったが、失望の一部分を我われにも明かしてくれた。 ディナモ・ザグレブ監督時代のハリルホジッチ。2010年11月のオシエク戦にて。国内リーグでは20勝3分1敗という圧倒的な戦績を残したが後に解任された。 ©長束 恭行 「ショックを受けたよ。本当にショックだ。そんなこと(解任)が起こる前触れは本当に何も
COLUMN清水英斗の世界基準のジャパン目線 第62回 ハリルホジッチの解任は“戦略なき戦術”。広がり続ける、日本と世界の差 By 清水 英斗 ・ 2018.4.10 ハリルホジッチの解任によせて、兵法書『孫子』から一文を引用する。 『戦術なき戦略は、勝利に至るもっとも遠い道のりである』 『戦略なき戦術は、敗北の前の戯言である』 戦略とは? 長期的な目標に基づく計画のこと。戦術とは? 目先の場面で最善の手を探すこと。もっと簡単に言えば、戦略とはプラン、戦術とは手段だ。 どちらも大事だ。戦術がなければ、勝利を得るのは長い道のりになるし、戦略がなければ、最初から敗北は決まっている。そのように孫子では説かれている。 今回、日本サッカー協会が発表したハリルホジッチの解任は、戦略を捨てた戦術だった。ザッケローニで敗れた反省を生かし、後任のアギーレ、ハリルホジッチの選定には、過去のワールドカップで指揮
ハリルホジッチ監督の解任が正式決定、懐かしい「腐ったみかん」と「自分たちのサッカー」が復活! 2018.04.09 日本代表 昨晩から噂に上がっていた、ハリルホジッチ監督の解任が正式発表となり、後任には技術委員長だった西野朗氏が就任する事が発表されてしまいましたね。 ハリル解任、田嶋会長「選手との信頼関係が薄れた」(ゲキサカ) – Yahoo!ニュース 表向きの理由が、つまりはハリルホジッチでは選手をまとめられず、本番で結果が出せないと判断したという事になるんでしょうが、本音のところはハリルホジッチに冷遇されたスター選手と、選手とセットで製品を売りたいスポンサーに忖度した結果でしょう。 ハリルホジッチを監督に選んだのは、既に協会中枢を去ってしまった霜田さんと原さんのラインだったので、協会側にハリルホジッチの味方になる人がおらず、協会が意見を聞いたらしい”主力選手”からも求心力を得られず、気
<ハリルホジッチ電撃解任(1)> 連載「フットボールの真実」の第2弾は「ハリルホジッチ電撃解任」。W杯(ワールドカップ)まで約2カ月、この土壇場でハリルホジッチ監督を解任した舞台裏に迫ります。全5回の第1回は、解任の決定打になったベルギー・リエージュの夜。 【写真】宿舎に入るハリルホジッチ監督(左)と西野朗技術委員長 ベルギー・リエージュの夜が解任への決定打になった。3月23日のマリ戦は、格下に引き分けるのが精いっぱいの大凡戦。ガラガラのスタジアムには“前監督”の「蹴れ、蹴れ」というむなしい指示と、それに呼応できないピッチ上の選手の大きな溝があった。 翌24日夜。日付が変わり、欧州は未明にサマータイムになったがその夜は長かった。代表宿舎はリエージュ市の中心にある5つ星。坂の上にあるお城のような古いレンガ造りで趣のある建物だった。深夜まで、明かりが漏れ、会話が続いていた。 日本協会はマリ戦の
さて皆様こんにちは。 大変お久しぶりですが、本日は先日行われた日本対ウクライナの試合のレビューをお届けします。 ここの所、サッカーのA代表は、全然勝ててないのでハリルホジッチに対する風当たりが強いです。なんで、あまり気乗りはしませんが、今回のエントリはハリルを擁護気味で書いてみることにしました。どうせ、俺が叩かないでもハリルホジッチは袋叩きにされるでしょうからね。この後、ガーナ、スイス、パラグアイとやってW杯本戦ですが、勝てる気しませんし、勝てなけりゃ袋だたきにされるのが代表監督の仕事です。 しかし、内容的に周回遅れ気味のエントリですし、今回の話はどうしたって、 www.footballista.jp こっちの記事の二番煎じになってしまうのですが。 今回の記事の内容的にはハリルサッカーの特徴です。主なポイントとしては 1,ハリルホジッチは中盤でボール動かす気がない。よく言えば縦に早いサッカ
2017シーズン限りでプロサッカー選手としての生活を終えた羽生直剛氏。Jリーグ各クラブで活躍した彼のキャリアを語るうえで外せないのは、イビチャ・オシムの存在だ。 ジェフユナイテッド市原・千葉で見いだされ、「考えて走るサッカー」を体現したプレースタイルは、ジェフ時代、そして日本代表と多くのサッカーファンに知れ渡ることになった。 引退に寄せてのインタビューを敢行した際、なくてはならない恩師の存在について彼は「幸せなことだったのか、分からなくなってきた」と語っていた。その本心とは――。 「お前はそのプレーで満足させられたのか?」 ――え、どういうことですか? 「偉大すぎて、自分もああなりたいと望んでもなれない、自分がちっぽけだということを思い知らされるだけだし(苦笑)、トレーニングひとつとっても、内容がすごく濃かったから、その後、どうしても物足りなさを覚えてしまって。もしオシムさんと出会っていな
2018年1月5日、ジェフユナイテッド市原・千葉から1本のリリースが発表された。 「羽生直剛選手 現役引退のお知らせ」 市原時代を含めた千葉、FC東京、ヴァンフォーレ甲府の3クラブでJ1計344試合に出場したMFは、どのクラブでもレギュラーの地位を確立し、ファン・サポーターに愛された。 ADVERTISEMENT その羽生が年明けのタイミングで、なぜ引退を発表したのか――。 現在、FC東京の強化部に籍を置く羽生氏。16年間のキャリアを振り返ってもらった。 インステップも思い切り蹴れない。 ――16年間の現役生活、お疲れさまでした。いつもジャージでしたから、スーツ姿の羽生さんと向き合うのは、違和感がありますね。 「自分でも着ていて違和感があります(笑)」 ――右膝のケガのために引退を決断されたそうですが、いつから膝を傷めていたんですか? 少なくともFC東京時代は、問題なくやれているように見え
フィジカルとメンタルを鍛え上げ、持ち前のテクニックにも磨きをかけた鹿実時代の松井。高校生にして独特の雰囲気を醸し出していた。(C)SOCCER DIGEST 画像を見る ポーランド2部リーグのオードラ・オポーレでプレーする元日本代表MF、松井大輔。36歳となったいまでも、フットボールへの情熱に陰りは見られない。 これまでフランスやロシア、ブルガリア、ポーランドと数多の国とクラブを渡り歩いてきた男のキャリアにおいて、最初の大きな転機となったのが、鹿児島実業高校への越境入学だ。1997年当時、すでに関西のJクラブユースは整備が進み、ガンバ大阪、セレッソ大阪、京都サンガが一定の評価を得て、タレントがひしめいていた。地域トレセンに選出されるなど引き手数多だった15歳の大輔青年は、なぜ生まれ育った古都・京都を離れ、遠い九州の地で新たなチャレンジをスタートさせようと決意したのか。みずからが信じる道を突
欧州の舞台に立ち続ける松井。稀代の名アタッカーを駆り立てる原動力とはなんなのか。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部) 画像を見る 現在ポーランド2部リーグのオードラ・オポーレでプレーする、元日本代表MF松井大輔。これまでフランス、ロシア、ブルガリア、ポーランドを渡り歩いた名手は、昨年の夏、ジュビロ磐田から再び新天地を欧州に求めた。 36歳での決断。松井には松井なりの、揺るがない価値観がある。 「日本は経済大国です。そっち方面では世界でも上位なんでしょうけど、サッカーに関してはFIFAランキングを見ても分かるように、50位くらいなんですよ。その国のJリーグの選手がフランスやスペインの2部リーグのクラブに入団する。それって、むっちゃ上に行ってるじゃないですか。だから23歳でル・マンに行ったときも、僕のなかではまったく迷いなんてなかった」 とかく日本では欧州4大リーグがもてはやされ、し
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