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コラム 【セルジオ越後コラム】松田直樹は最期まで松田直樹だった Tweet 2011年08月05日10:31 Category:コラムセルジオ越後 松田直樹が急逝してしまった。サッカーファンの誰もが、悲しみに打ちひしがれていることだろう。残念で残念で、仕方がない。これほど思い出深い選手が、ほかにいるだろうか。亡くなるには、早過ぎるよ。 僕は高校時代の彼を取材したことがある。高校選手権の解説の仕事で、場所は確か駒沢競技場だったと思う。当時の前橋育英はとても強くて、その中でも松田の存在感は際立っていた。松田はその後Jリーグに進み、一年目からレギュラーとして活躍した。 彼はまさしく、日本を代表するセンターバックだった。大型で個人技があり、井原正巳の後を継いで新しいセンターバック像を作り上げ、五輪でもA代表でも、日本サッカーがもっとも華やかだった時代を牽引してきた。 そのプレースタイルは、松田の人
熱くて不器用で、いつまでも若くて青くさい男・松田直樹さん安らかに。 Tweet Share on Tumblr カテゴリ:サッカー 2011年08月05日12:18 いつまでも若く、青くさい、青春時代のような男でした。 2002年ワールドカップで全試合出場を果たし日本代表のベスト16進出に貢献。アトランタ五輪でブラジルを下した「マイアミの奇跡」、シドニー五輪・無念のアメリカ戦に出場、ミスターマリノスとして幾多のタイトルを獲得した松田直樹さんが、4日亡くなりました。謹んでお悔やみ申し上げます。 早すぎるその死。J1でもJ2でもないJFLに所属する現在の立場は、決して栄光に満ちたものではないかもしれません。しかし、松田直樹という男を見ていると、それが衰えや後退には思えませんでした。身体全体にみなぎる若さと青くささ。むしろJFLの舞台からJ2・J1を目指す、成長の途上にいたようにさえ感じられます
いつも、いつも、私の期待を、全く予想外の斜め上に外してくれる選手だった。そして、最後の最後まで、信じられない外し方をして、私たちから去って行ってしまった。 いつも、いつも、「おい、何をやっているんだ」と野次を飛ばしたくなる選手だった。そして、最後の最後まで、「おい、何をやっているんだ」と叫ばれながら、私たちから去って行ってしまった。 いつも、いつも、「まだやれる、もっとやれる」と思わせてくれる選手だった。そして、最後の最後まで、「まだやれる、もっとやれる」と皆から支えられ、私たちから去って行ってしまった。 私がはじめて、松田直樹を見たのは、1993年の日本開催のワールドジュニアユースだった。敵FWと正対して自分得意の間合いに詰めるうまさ、敵のパス方向を適切によめる読みのよさ、いわゆるフィジカルの強さを活かした強い当たり。まだ16歳の若者が、ここまでできるのだ。そして、前年のアジアカップ制覇
2002年ワールドカップのロシア戦に臨んだ松田直樹さん。日本はこの試合で記念すべきW杯初勝利をつかんだ。松田さんは闘志あふれる守備で完封勝利に貢献した=2002年6月9日、横浜【時事通信社】 サッカーの日本代表DFとして40試合に出場し、横浜Fマリノスの主力として長く活躍した松田直樹選手(34)が4日、亡くなった。2日、現在所属する日本フットボールリーグ(JFL)、松本山雅の合同練習中に急性心筋梗塞のため倒れてわずか2日。ついに松田選手の意識が戻ることはなかった。 強健者と言える現役サッカー選手の突然の死は、あまりにショッキングだ。昨年、横浜Mを戦力外となり、長野県のチームを新天地に選んだ。「長野のサッカーを盛り上げ、このチームを、J2、そしてJ1に昇格させたい」。新たなモチベーションを胸に、夢を描く地方チームを引っ張っていた中、34歳にして前途を断たれた。その無念な思いは想像に難くない。
<1995年1月16日の日刊スポーツ紙面から> 松田直樹(17=前橋育英3年)は、将来、井原正巳(27=横浜M)を超えると評価されている高校NO・1のDFだ。中田英寿(韮崎3年)安永聡太郎(清水商3年)らと、今年の三羽ガラスとも呼ばれ、3月のU-20世界選手権(ナイジェリア)では守備のかなめになると期待されている。入団が決まった横浜Mでも「DFとしての、正確な判断力、当たりの強さ、攻撃へのセンス、すべてそろった選手」と、はっきり「ポスト井原」を意識して獲得した選手だ。「転機は、U-17の代表に選ばれたことでした」と松田は言う。 実は、1年の冬までDFではなくFWを務めていた。相生中では1、2年と県大会に出場はしていたが、松田はベンチにいたまま、一度も出場していない。3年でようやく県大会に優勝し、全国大会へコマを進めた。しかし、あっけなく1回戦で敗退。高校に入学しても、まだ無名の存在だった。
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