中華人民共和国の新疆ウイグル自治区では、当局によって「漢民族との同化政策」が行われているとされる。世界ウイグル会議は、その政策に反対する中国国外のウイグル人と団体の多数が加盟する組織だ。 14日、国会に隣接する憲政記念館で行われた開会式には、自民党の日本ウイグル友好議員連盟のメンバーを中心とした国会議員が参加した。 一連の動きは、中国共産党政府をいたく刺激したようだ。開会式に参加したことが明らかになった国会議員に対し、程永華中国大使から「日本での(世界ウイグル会議代表者大会)開催容認は中国に対する内政干渉」として、同会議と関係を絶つよう要求する抗議書簡が送られた。 また大会前の5月13日、日中韓首脳会談が行われている北京で、温家宝首相は野田佳彦首相に対し、ラビア・カーディル総裁ら世界ウイグル会議メンバーらに日本政府が入国ビザを発給したことについて、「テロリストを入国させるのは許せない」と厳
エジプト警察当局は30日までに、米国などの財政援助を受けカイロで民主化支援活動をしている非政府組織(NGO)の事務所17カ所を一斉捜索した。パネッタ米国防長官は同日、エジプト軍最高評議会のタンタウィ議長と電話会談し「深い懸念」を表明、民主化の推進を訴えた。 米国務省のヌランド報道官によると、エジプト側は捜索を停止し押収物も返却する考えを明らかにした。 捜索は29日に実施。警察当局は、外国からの財政支援を捜査する一環としているが、軍最高評議会に対する批判を強めているNGO側は「名誉を傷つけ汚名を着せるための作戦」だと非難した。 ヌランド報道官は29日、NGOへの捜索などが続けば、対エジプト軍事支援予算が米議会を通過するのは難しくなるとの認識を示し警告した。(ワシントン共同)
米国の非政府組織(NGO)「フリーダムハウス」のシェリフ・マンソール氏が米国家予算を使って企画した「フェローシップ計画」は07~09年に計3回実施された。 毎回15人前後の若者グループがワシントンに到着すると、民主主義について1週間の講義を受講する。座学を終えた若者たちは米各地に散らばり、人権擁護団体などで6週間の実地訓練を積んだ。 インターネットを通じた広報などを実践し、社会への効果的なメッセージの発し方や活動の進め方を学ばせるのが狙いだった。滞在の締めくくりに米政府高官との面会を設定し、09年5月の参加者はクリントン国務長官とエジプト民主化について意見交換した。 訓練の場は米国だけではなかった。「エジプトの若者は世界の民主化運動の経験に学ぶ必要があった」(マンソール氏)からだ。 09年1月、エジプトの若者十数人が南アフリカに2週間派遣され、アパルトヘイト(人種隔離)体制と闘った活動家と
シェリフ・マンソール氏は06年1月20日、4年前にエジプトから亡命した父を頼り、再び米国の地を踏んだ。前年の初渡米は1週間だったが、今度は祖国の民主化まで帰国できないと覚悟を決めていた。既にエジプト秘密警察「国家保安情報局(SSI)」の「お尋ね者」になっていた。 マンソール氏は「エジプト民主化運動が直面していた問題は政権の弾圧だけではなかった」と言う。「ムバラク体制は野党、メディア、NGO(非政府組織)の活動をある程度認めて『民主化』を国外に発信しながら、反体制派を巧みにシステムに取り込んでいた」 マンソール氏は米マサチューセッツ州のタフツ大学フレッチャー法律外交大学院に入学した。アパルトヘイト(人種隔離)体制を打倒した南アフリカや、共産主義政権と闘った東欧の活動家の話を聞き、大衆運動の必要性を確信する。修士号取得後の07年6月、米NGO「フリーダムハウス」に就職した。 フリーダムハウスは
「エジプトには改革を推進できる勢力がある。NGO(非政府組織)だ」。米国の援助機関「国際開発庁(USAID)」は02年、民主化の推進役としてエジプト国内のNGOに着目する方針を公文書に明記した。 USAIDの民主化支援は99年から存在したが、ブッシュ政権の中東民主化構想の下、エジプトのNGOに対する支援は増額され、04会計年度(03年10月~04年9月)には前年度の2倍の2900万ドルが供与された。 さらに04年12月、米国で重要な法改正があった。それまでの法律はムバラク政権との関係に配慮し、米政府は「エジプト政府に認可されたNGOのみ支援できる」と定めていたが、改正法は、エジプト政府の認可を得ていないNGOへの支援も認めた。改正により米資金はムバラク政権の意向に関係なくNGOに行き渡り始めた。 NGOが勢いづく中、シェリフ・マンソール氏は05年3月、米シンクタンクの招待で1週間、初めて渡
01年9月11日、テロリストに乗っ取られた旅客機が米ニューヨークの世界貿易センタービルに突入した米同時多発テロ。実行犯グループにはエジプト国籍の男(モハメド・アタ)もいた。 カイロの大学に通いながら小さな新聞に記事を書いていたマンソール氏は「9・11」のテロに衝撃を受ける一方、民主化運動の停滞に頭を抱えていた。 当時、ムバラク政権による弾圧は苛烈を極めた。運動の拠点「イブン・ハルドゥーン開発学センター」所長のイブラヒム氏は01年5月の1審に続き、02年7月の控訴審でも禁錮7年を言い渡された。マンソール氏の父は87年に続いて再び逮捕される危険を察知し、単身、米国に亡命した。 だが、マンソール氏が苦悩していたころ、歴史の針はエジプトの民主化へ向け、ゆっくりと、だが着実に動き始めた。「9・11」の後、ムバラク政権と米国の間にさざ波が立ち始めたのだ。ムバラク大統領はブッシュ政権(当時)の中東政策を
「他国の国内政策を米外交の直接の目的にするのは危険だ。基本的人権の保護は内政問題だと、どの政府も極めて神経質だからだ」 ニクソン、フォード両政権で大統領補佐官、国務長官を務めたキッシンジャー氏は73年の米下院外交委員会の公聴会で、他国の人権抑圧には干渉しない方針を示唆した。 だが、その後に登場したカーター大統領(在任77~81年)は就任演説で言い切った。「人権に対する米国の責務は絶対的なものでなければならない」 米国益のため抑圧を黙認する現実主義と、「人権」の普及を目指す理想主義。米外交は両極の間を揺れ動く。二つは時に混じり合い、「二重基準」の批判を浴びる。そんな米外交の矛盾をシェリフ・マンソール氏が目の当たりにしたのは、カイロのアル・アズハル大学に通う20歳の時だった。 ◆ ムバラク独裁下のカイロには、著名な人権活動家、サアド・エディン・イブラヒム氏が主宰する民主化運動の拠点「イブン・ハ
さる7月30日、エマニュエル・マクロン大統領はモロッコ国王ムハンマド6世に宛てたたった一通の書簡によって、モロッコの西サハラ統治を認める決定をした。それは国際法を無視しただけではなく、フランスとアルジェリアが保っていた関係のあやういバランスを壊すものでもあった。 →
◇「独裁打倒」に米資金 エジプト人民議会(国会)選挙の投票が始まった11月28日。米ワシントンのビルの一室で一人のエジプト人男性がパソコンに向かい、祖国の仲間から送られてくる「選挙監視」の結果を黙々と分析していた。有権者は自由に投票できているか。軍政当局による投票妨害はないか--。 シェリフ・マンソール氏。カイロ生まれの31歳。06年から米国で暮らし、現在はワシントンに本部を置く人権NGO(非政府組織)「フリーダムハウス」の中東責任者だ。 今年2月のムバラク大統領の退陣劇では、フェイスブックやツイッターなどのソーシャルネットワークを駆使した若者たちが反政府デモを先導した。人民議会選では、その若者たちが暫定統治を続ける軍政当局に対して「文民統制を受け入れようとしない」と批判を強めている。 インターネット時代を象徴する「革命」の主役となった若者を米国から支援する--。事実上の「革命」支援がマン
最後にあと二つほどスノーの翻訳記事を紹介しておきたい。一つは、北部からの分離独立を決定した2011年1月の南スーダンの住民投票について、スノーがブラジルの新聞から取材を受けた際のインタビュー記事。もう一つは、日本でも多少報道されたことのある、2007年の「ゾエの箱舟」事件――スーダンの国連ミッションに参加していたフランス「人道」NGOによる黒人児童に対する組織的な人身売買をめぐる事件――である。後者については次回に掲載する。 南スーダンでは、有効投票の98.83%という圧倒的賛成多数の住民投票結果を受けて、独立が成立したが、これを南スーダンの人々の「自決権の行使」と呼ぶには、先進国による選挙操作と介入、それらに先立つスーダンへの歴史的な介入は、あまりにも深刻なものである。 「内閣府 国際平和協力本部事務局」の2011年3月付の報告書によれば、南スーダンの住民投票では、国連スーダン・ミッショ
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