. 見よ、侮る者たちよ 驚け、そして滅び去れ わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする それは、人がどんなに説明して聞かせても あなたがたの到底信じようのない事なのである ― 使徒言行伝13章41節 ― : : : : : : : : : : :/ ̄ | __,,,,,,,,,,,====== : : : : : : :/ ̄ | . __,,,,,,,,,,,======¨¨¨¨ ̄ ̄: ( -─¨ ̄ __,,,,,,,,,,,======¨¨¨¨ ̄ ̄ . : : : : : : : : : : : : : : : :\ ¨¨¨¨ ̄ ̄ l7. : : : : : : : : : : : : ; ; ; ; : ; : : : : ; ; : : : : : : : :\ /: : : : : : : : :
はじめに言っておきますが、「中世ヨーロッパの収穫率(播種量→収穫量の倍率)が3倍程度だった」というのは資料上確かな事実であり、これ自体を否定する気は一切ありません。 しかしながらここから「ヨーロッパの農民は常に少ない収穫に苦しんでいた」だとか、「30倍にもなる稲は麦より優れた作物だ」なんて話に進んでいくのを見ると、それはちょっとおかしいぞと思います。 今回はそうした状況を生じる要因について見ていきながら、この数字のトリックを暴いていきたいと思います。 ■灌漑に関する話 農業の大きな区分として「天水農業」と「灌漑農業」があります。 これらは作物に対する水の供給方法の違いであり、前者は基本的に降雨からのみ、後者は河川等から人為的に引き込む方法をとります。 日本がどちらかといえば完全に後者が多く、代表的なのは言うまでもなく水田稲作でしょう。 また学校教育の世界史なんかでも、文明成立=灌漑農業とし
はじめに 私はノーテンキな進歩主義者です。人類は少しずつ、一進一退を繰り返しながらも精神面で進歩し続けていると固く信じています。その根拠の一つは、街中で歩きたばこや立小便や痰吐きなどの下品な行為を見かけることが減った、というような日常の些細な感覚です。そして最大の根拠は、「命が大事にされるようになったこと」です。具体的に数値で見ると、日本における殺人事件は減り続けています。 参考:平成12年版 警察白書 平成29年版 犯罪白書 日本人は長い年月を経て、命を大事にするようになりました。言い換えれば、昔の日本人は命を大事にしない蛮族であったということです。平然と殺し合いをしていました。歴史家の言葉を引用します。 光源氏が王朝時代の貴公子の理想像であることについて、これまでのところ、その優れた容姿や豊かな才能などが取り沙汰されるのが普通であった。だが、実のところは、理不尽な暴力事件を起こさないと
こんな記事があった。 「 getter/setterとはなんだったのか」- プログラマーの脳みそ JavaBeansはGUIなどで再利用可能なコンポーネントを提供する際の規格のようなもので(僕もあまり詳しくない)2000年ぐらいにGUIのコンポーネントを作るときに意識したような、どうでもよかったような、イマイチ恩恵が実感できなかった代物だった JBuilder2とか3の頃のJava開発といえば、AWTやSwingといったGUIアプリケーションを作ることがまだ当たり前だった時代。「部品」といえば、GUI部品のことを指していました。GUI部品といえば、ペタペタツールの存在を忘れてはなりません。当時のJava IDEは、こぞってVisual Basicの開発環境に追いつけ追い越せという状況だったんです。 それらのIDEが目指したもの、それは「コーディングなしでGUI画面を作れるようにすること」で
じっくり歴代将軍の大戦術を楽しもう 動画サイトには数多くの歴史関連のコンテンツが上がっていますが、みんな見たいに違いないのが、戦闘経過の解説動画です。 ニコ動にはそれなりにあるんですけど、今回はYouTubeから英語圏の動画を20ピックアップしました。ぜひ帰宅後、寝る前の落ち着いた時間などにドリンク片手にじっくりお楽しみください。 できれば音声付きでご覧いただきたいんですが、状況によって音声を再生できないかもしれないし、再生しても英語なので、日本語の簡単な解説も記載します。 1. 古代 実は戦闘経過動画で一番充実しているのが古代の戦闘動画なのです。 アレクサンドロス大王、ハンニバル、スキピオ、カエサルなど、偉大な将軍たちの戦いぶりはやっぱり興味ありますもんね。 1-1. イッソスの戦い(紀元前333年) www.youtube.com イッソスの戦いは、アレクサンドロス大王がペルシア帝国の
コンサルタントをやっていた頃、良いか悪いかは別として、採用に関して「地頭の良さ」を重視する風潮があった。 地頭の良い人間は一定の訓練でそれなりのコンサルタントになる。 だが、お世辞にも地頭の良いとはいえない人間は、いつまでたっても一人前になれなかったからだ。 実際、私が20代半ばで所属していた部署では、中途採用にあたって「学歴」をさほど重視していなかった。 重視していたのはとにかく「地頭」だ。 ある応募者は、「高卒」で「自動車整備工」になり、そして「先物取引の営業」に転職、そして最後に「漁師」という経歴を持っていたが、彼は採用された。 彼の言動は、地頭の良さを十分に感じるものであったからだ。 彼の業務経験の貧しさは訓練でなんとかなる、皆がそう思ったのである。 彼はその後、会社に大きな貢献を残し「支社長」まで努めたのだから、その時の判断は間違っていなかった。 ■ この「地頭」の正体について、
【ヴォイニッチ手稿】 https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴォイニッチ手稿 彡(゚)(゚)「暗号ファンのみならず、世界中で知られとる古文書やな」 (´・ω・`)「確か1912年に発見されて以来、未だに解読されてないんだよね。執筆者も不明。使われてる言語も文字数すらも判明してないとか」 彡(-)(-)「解読されてないんやから当たり前やけど、どんな本かもわからんしなぁ。錬金術書、秘密結社の暗号文、医学書……どれも言われるとそう見えてまうわ」 彡(゚)(゚)「謎が謎を呼ぶ暗号……未解読文書と言われれば、真っ先にこれを思い浮かべる人も多いんちゃうか?」 (´・ω・`)「他にも未解読の古文書なんていくらでもあるだろうに、なんでこんなに取りざたされてるんだろう」 彡(-)(-)「うーん……あの『解読して下さい』と言わんばかりのミステリアスなデザインやろなぁ」 彡(゚)(゚)「摩
これはなに? はじめに AGCあれこれ Temporary I HOPEHOPEHOPE ASTRONAUT NOW LOOK WHERE YOU ENDED UP ふと気になりました いい時代ですね 1201&1202エラー なにそれ? カ、カルマンフィルターだー!!! カルマンフィルターの開発経緯 その他面白コメントアウト集 TRASHY LITTLE SUBROUTINES(つまんないサブルーチン) NUMERO MYSTERIOSO(神秘の数字) OFF TO SEE THE WIZARD COME AGAIN SOON HONI SOIT QUI MAL Y PENSE(悪意を抱く者に災いあれ)、NOLI ME TANGERE(私に触れるな) PINBALL_GAME_BUTTONS_AND_LIGHTS.agc おわりに 反省 参考文献 これはなに? この記事はeeic Adv
www.yutorism.jp これ違う…違うよね? 韓信に対する理解も古代の戦争に対する理解も何もかも Q.1 韓信は兵士達が信頼してついていくリーダーだった? 結局、人間がついていくのって『この計画ならなんとかなりそうだな』と思える何かか、あるいは『この人だったらなんとかしてくれそうだな』って人なんじゃないの。歴史のどこにも残っていないかもしれんけど、韓信ってそんな人だったんじゃない?それこそがまさに『リーダーとしての資質』って言われるものだと思うけどさ。 ちっげーよ! 歴史の逸話には色んな解釈の幅があるべきですが、井陘の戦いをこういう風にまとめるのは明らかに間違いです。 韓信は偉大な軍人ですが、一般兵士が自分の奇計を理解してくれるだとか(理解出来るわけねー)、いつでも自分の采配を信じてついて来てくれるだとか(そんな好意得るような出自・来歴じゃねー)、そんな甘っちょろいことは考えていま
信長公記 私訳信長公記 はじめに・参考文献 年譜 首巻 第一段~二十段 信秀時代~正徳寺の会見~信行謀反 首巻 二一段~三十段 信長と信玄~桶狭間の戦い~道三の死 首巻 三一段~四五段 長良川退陣~小牧移転~稲葉山陥落 巻一 永禄十一年(1568年) 義昭奉戴~上洛・畿内平定戦~岐阜帰還 巻二 永禄十二年(1569年) 三好勢の反攻~二条御所造営~伊勢平定 巻三 元亀元年(1570年) 金ヶ崎撤退~姉川の戦い~近江志賀の陣 巻四 元亀二年(1571年) 江北の戦雲~第一次長島征伐~叡山焼き討ち 巻五 元亀三年(1572年) 三好・松永背反~江北出兵~三方ヶ原の戦い 巻六 天正元年(1573年) 将軍追放~浅井・朝倉氏滅亡~第二次長島征伐 巻七 天正二年(1574年) 薄濃の首~蘭奢待切り取り~長島一向一揆殲滅 巻八 天正三年(1575年) 長篠の戦い~越前一向一揆制圧~家督移譲 巻九 天
私のメインHP「まちかどの西洋館」の別館で、 私の所有する古写真・古絵葉書・戦前の建築書籍を展示しています。 2024-04 « 123456789101112131415161718192021222324252627282930 » ※サムネイル画像のクリックで拡大します。 太平洋戦争突入以後、敵国であったアメリカ・イギリスの英語を排除しようという社会運動が起きました。 それらは「敵性語」と呼ばれ、必ずしも法律によって使用を禁止されたものではありませんでしたが、官民合わせて敵性語を排除していこうとする運動が沸き起こりました。それらは街中から英語を排除し世用というだけでなく、会話などで使われていた英語の呼称を日本語に言い換えていこうという運動も起きました。 この資料は、昭和18年2月3日付の「写真週報第257号で、表紙には「CHINA TOWN」の英文字の看板が掲げられた店の写真に 「米
およそ八十年前の東京・上野桜木に、現在のデジカメ感覚で写真を撮り続けた少年がいた。 少年が手にしたカメラは、小さな家が買える程の高価なカメラだった。 カメラが貴重だった時代に、家族や街並み、海水浴や学校など、少年は思いのままに撮り続けた。 プロカメラマンとしての目線ではなく、少年の目線での普段着の目線で・・・ 忘れ去られつつある普段着の昭和初期が今蘇える。
「神の子」の顔はどのように表現されたか 我々が想像するキリストの顔と言えば、 肩まで垂れた長髪 面長な輪郭 二重でぱっちりした目 こけた頬 口元とあごに生えたヒゲ のような感じでしょうか。 絵が下手な人に「キリスト描いてみて」って無茶ぶりしても、 だいたいこのイメージに従って書いているような気がします。 それにしてもいつの時代からこのイメージが出来上がっているのでしょうか? 初期キリスト教時代のイエス像 とにかくなんかすげーやつ キリストがゴルコダの丘で十字架に磔にされて死亡してから、イエスの弟子たちはローマ帝国各地にイエスの教えを伝えるべく伝道の旅に出ます。 徐々に信者数は増えていったのですが、どうも最初の頃はキリスト像など特に存在しなかったようです。 ヨハネによる黙示録には、イエスの姿についてこのように記述がなされています。 そこでわたしは、わたしと、七つの金の燭台が目についた。それら
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