共存という考えは大変見栄えが良いのですが、どうにも結果だけを切り出しているようで、実際的ではない場合があります。「共存している様」を安全圏から見下ろしたような、第三者的な面があります。 好きな人と仲良くやっていくだけなら、敢えて「共存」などと言う必要はないのですから、共存という時に念頭に置かれているのは「嫌いなヤツ」の筈です。人が人を嫌いになるのに理由など要りませんし、民族やら国家やらにイチャモンつけるのだって、どんな屁理屈ででも出来ます。 こういう人たちと「共存」ということを言う時、それは歩み寄っていって握手をするとか、そういう話ではないでしょう。 いや、握手できれば大変結構ですが、そうもいかない場合が多いでしょうし、むしろ握手できない場合における「共存」こそがクリティカルは筈です。 そうした状況に自らが身をおいているところを想像してみれば、「共存」という言葉はいかにもしっくり来ません。