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心理と哲学に関するzoniaのブックマーク (3)

  • 「人間の心は心理的に記述できるか?」の補足 - 一本足の蛸

    今日はこれから出張することになっていて2時間早起きした。時間がないので走り書き。 前回の記事を書いたときに、ちょっと議論に弱いところがあるとは思っていたのだが、案の定、そこを突かれた。 これは、物理的に記述できていることを検証することが出来るか、という議論であって、物理的に記述することができるか、という議論ではないように思われる。確かに、ある事柄を行うということと、ある事柄を行っているということを検証するということは別のことだ。そして、前回の記事は、心を物理的に記述したことをいかにして検証するのか、という検証可能性の問題を提起しているのであって、物理的記述そのものの可能性を論じたものではない……というふうに読める。その読みは間違っていない。でも、それだけではない。 前回の記事で言おうとしたことは、唯物論は心の物理的記述の検証可能性を保証しないということと、もう一つ、「心を物理的に記述する」

    「人間の心は心理的に記述できるか?」の補足 - 一本足の蛸
  • http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20061215

    zonia
    zonia 2006/12/15
    んー、物理的という言葉に対するイメージの違いもありそうな。
  • 誰も誰かを理解する事なんて出来ない - 神コップBloG_ver.?

    結局はそういう事だ。幼子が親心を理解できないように。日人が韓国人を理解できないように。男が女を理解できないように。女が男を理解できないように。 誰も誰かを理解する事なんて出来ない。理解しようとする事は出来ても、理解する事は決して出来ない。 人間の内面という物は生まれてから現在に至るまで自己に影響を及ぼした、何億何兆という要素が複雑に絡み合い構成されている。その要素が決定的に重なる相手など存在しよう筈もないし、大部分が重なるであろう双子でさえ完全に理解しあえるわけもない。 人は決して人を理解する事が出来ないのだ。そうしたつもりになる事は幾度も幾度もあるだろうが、それは全て幻であり嘘であり虚構だ。 だが人はその逃れられない性として、誰かに理解されたいと望む。知己の仲、気心の知れた仲などといって、互いが相手を理解しているように思い込もうとする。だがそれは十中八九、或いは十中に十勘違いであり、理

    誰も誰かを理解する事なんて出来ない - 神コップBloG_ver.?
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