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ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

安倍晋三の歴史的評価は、最悪の原発危機収拾に何を実行したか何をしなかったかというその一点で決まる

2013年08月14日 | 日本とわたし
たった今、朝からずっと、仕事や家事の合間を見つけては、コツコツ文字おこししてた、58分の動画のうちの40分ぶんの文章が、パソコンの操作ミスで消えてしもた
ただ今、か~な~り~落ち込み中……

今からもう一度、始めからやり直すエネルギーは無いので、あとひとつ、書いておきたかった記事を、代わりにここに載せようと思う。
ああ、それにしても残念無念……。

この記事の内容は、コラムニストであるペセック氏個人の見解であるのやけども、全く見事に、わたしが考えてることと重なってるので、ぜひ残しておきたいと思た。

『安倍晋三は、福島原発の処理は万事順調だと装う、3人目の首相となった』

この言葉はまさに、日本の悲劇を表してると思う。
福島原発の現実、被災地の現実、放射能汚染の現実を、経済やの外交やの軍事やの条約やのオリンピックやの憲法改正やの、
ほんまはせなあかんことをまるで実行せんと、無視し続けてる姿は、外の人間から見ると奇怪とさえ思える。

大平洋に流れ込んでる大量の汚染水は、可視化できるほどの勢いで、この2年間、毎日毎時毎分毎秒、地球の海を汚し続けてる。
もしも、原発事故が起きたのが、隣のよその国で、その国が2年以上経っても、恐ろしい放射線量の汚染水を海にダダ漏れさせてるとしたら、
日本政府のみならず、漁業に携わってる人はもちろん、一般の市民でさえ、ええ加減にせんか!と大騒ぎになってるんちゃうのか。
この汚染は、日本の太平洋側沿岸が困ったことになる、というような規模ではないことは明らかで、
そろそろ限界がきてる世界は、ペセック氏の言葉を借りて言えば、「全く回避可能な大惨事について、日本の言い分を2度も認めることはない」とわたしも思う。
日本が、ここまで地球に対して無責任な国やとは、今でも信じられへんのやけど、

日本は独立国であるというけったいな意地から、解決不可能で対処の仕様が無いくせに、世界からの援助を拒み続けてる愚行を、なんとかしてやめさせなあかん。
ペセック氏の6つの提案を、被災地以外で暮らす大人らが団結して訴える。
それがまずは、基本的人権を踏みにじられてる人たちを救うための第一歩になると思う。

原発の廃炉。
被害の規模を評価する独立監査人を、海外から招致。
周辺地域が、数十年間にわたり、居住や漁業、農業には、安全でない可能性を認める。
革新的な解決策を、世界中で模索。
原子力村の解体。
多額の汚染対策費用について、日本国民に真実を伝える。


原発事故の数日後、命をかけてヘリコプターから放水をした自衛隊の方々。
あの放水には、事故処理に対しても、放射線量を下げるということに対しても、ほとんど、いや、全く意味が無かったのやけど、
なんであんなことをすることになったかという理由が、それはもう、どないもこないもアホらしく、腹立たしいもんやった。
日本政府の本気度を示すため、
日本は独立国として、こういう事故にも対処できるというかっこつけ、
事故が起こっても大丈夫というパフォーマンス、などなど。
意味の無いことに命をかけさせられた隊員やその家族は、もしあの時、万が一のことがあったら、どこにその怒りをぶつけたらええのか。

国策というけど、そこには策なんかなんにも無い。
こんな危険極まりないものを運転する限り、重大事故の想定や、事故後の対処の仕方については、徹底的に、十分過ぎるほどに、ありとあらゆる手段を用意しとくべきやし、
事の次第によっては、速やかに、海外への救援要請を出すようになってなあかんはず。
うちは大丈夫やから。
そんな愚かなミエ張りのために、いったい何人の、原発作業員や社員の人たちが、健康を害されながら対処に当たってるのか。

原発動かさな値上げ。
廃炉にしても値上げ。

そうやってまた、やくざの脅しみたいな文句を、新聞はなんの意見もなく垂れ流す。

人をなめんのもええ加減にせい!


安倍首相の歴史的評価、鍵は経済より原発事故対応-ペセック氏
【Bloomberg(ブルームバーグ)ニュース】2013年8月13日

アベノミクスは忘れよう
日本の外交・軍事面での影響力を、再び高めるための取り組みも、無視すべきだ。
>安倍晋三首相の歴史的評価は、チェルノブイリ事故以来、最悪の原子力発電所危機を収拾するために、
何を実行したか、何をしなかったかという、その一点で決まる


驚かされるのは、2011年3月の、福島第一原子力発電所のメルトダウン(炉心溶融)事故以降、日本のリーダーの関心がいかに薄れたか、ということだ。
菅直人元首相や野田佳彦前首相は、東京から217キロの距離にある福島原発の放射能漏れや、使用済み核燃料棒を、事実上無視していた。
昨年12月に就任した安倍首相も、福島原発の処理は万事順調だと装う、3人目の首相となった

そうした中で、現実が先週、不都合な形で、再び表面化した。
放射能に汚染された地下水が、太平洋に流れ込んでいる証拠が相次ぎ、安倍首相は、東京電力に、問題の収拾を一任しないことを、認めざるを得なくなった。
国際的な圧力を受け、首相は、流出に歯止めをかけるため、政府が、速やかに多面的なアプローチを確実に取る、と言明した。

安倍首相の本気度を疑うのは申し訳ないが、提案された改善措置は、大ざっぱで、地下水凍結という方法は不十分だろうと、科学者は懸念している
原子力の規制当局は、北アジアを汚染する原子炉を廃炉にすることよりも、運転再開にまだ集中しているようだ。
東電は、もっと悪いものを垂れ流しながら、真っ赤なうそを言っている
にもかかわらず東電は、国有化されていないし、役員陣は職にとどまったままだ


体制順応起因の人災

だが、私が本当に心配なのは、こうしたことではない。
日本の当局は、福島が、「どのようにして」チェルノブイリと同義語になったのか、という問題で行き詰まり、
「なぜ」発生したのかや、世界にとってそれが「何を」意味するのかを、考えていない点が心配なのだ。

福島の事故は、日本株式会社の、体制順応的な傾向に起因する人災で、回避可能だった
東電は、安全性の記録をごまかし、数千万人の命を危険にさらした。
腐って危険な、こんなシステムを増殖させるのは、「原子力村」だ。
電力会社と規制当局、官僚、原子力産業を擁護する研究者との癒着によって、東電は長年、怠慢に対して、何の罰も受けないで済んでいた。
こんな関係やカネ、メディアへの影響力に裏打ちされた東電は、この2年半にわたり、放射能汚染データをごまかし続けてきた。

東電の汚染水対策を、政府がようやく代行することになっても、大したことではない。


現実を見詰めよ

日本政府は、今こそ現実を見詰め、以下の6つを実行すべきだ。
まず、
原発の廃炉。
被害の規模を評価する独立監査人を、海外から招致。
周辺地域が、数十年間にわたり、居住や漁業、農業には、安全でない可能性を認めること。
革新的な解決策を、世界中で模索。
原子力村の解体。
多額の汚染対策費用について、日本国民に真実を伝えること。


こうすることで、世界にとって「何」を意味するか、という問題に行き着く。
国際舞台では、福島は、ますます日本の不名誉になりつつある
放射性物質は、クロマグロから検出されている。
日本からロシアに輸出された中古車や、自動車部品は言うまでもない。
もう一度大地震に見舞われれば、福島に再び被害が出て、東京が開催を希望する、2020年の夏季五輪までに、さらに原子炉が打撃を受ける恐れがある。
世界は、全く回避可能な大惨事について、日本の言い分を、2度も認めることはない。


アナリストは、安倍首相による、日本の財政健全化に向けた取り組みを評価しているが、
後世の人々は、東電と原子力村が作った惨事の後始末をしたかどうかで、首相の手腕を判断するだろう
(ウィリアム・ペセック)


(ペセック氏は、ブルームバーグ・ビューのコラムニストです。コラムの内容は同氏自身の見解です)
原題:Fukushima Replaces Economy as Abe’s Legacy Issue: WilliamPesek(抜粋)
記事についてのエディターへの問い合わせ先:Nisid Hajarinhajari@bloomberg.net
コメント (6)
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「どれだけの犠牲を払って平和と憲法第九条を手にしたか。絶対変えちゃいけん」はだしのゲン・中沢啓治

2013年08月14日 | 日本とわたし
『はだしのゲン』
このマンガと出会った時は、もう子どもとは言えん年になってたけど、夢中で読んで、いつもカバンの中に入れて歩いてた。
ちっちゃい頃から、図書館に行っては、原爆について書かれた本を読んだり、写真集を見たりしてた、けったいな子どもやった。
ゲンとゲンの母親の目の前で、父親と姉と弟が壊れた家の下敷きになり、火に焼かれて死んでいくシーンは、
阪神大震災を伝えるニュースの中で、同じような辛い経験をした人の話し声とともに、鮮明によみがえってきた。
戦争や原爆のことを、人の何倍も読み聞きした。
なんでここまで執着するのやろと、自分でも思た。
けど、多分、絶対にくり返してはあかんという気持ちを、固めてたんやと思う。

戦争をしたがってる人間は、そらもう、どんな手を使てでも、どんなウソをついてでも、戦争に向かわせる。
普段は、そこそこ独立してるっぽい新聞やテレビ局までもが、コロッと丸め込まれるのを目の当たりにした時には、さすがに恐なった。
気がつくと、いつの間にか、戦争なんかするべきやない、などということは、相手を選んで言わなあかんようになってた。
それが今からたった10年前の、21世紀のアメリカでのこと。

◯◯国がどうたらこうたらと、あることないことを吹聴し、ビデオを流したり、議会で発言したりして、一般の市民らをとことん怯えさせたり心配させ、
やられる前にやらなあかんという流れにもっていく政府と軍に、どんなけ反対しようが、デモで叫ぼうが、まるで意味が無いと思い知った時の絶望感。

止められるとすれば、知識だけやと、イラン人の若い女性が言うてはった。
知ること。
今の日本に、日本人に、一番求められてること。
知るためには、自分の手でとり、足で動き、目で読み、耳で聞き、頭で考える。
そうやって、戦争のこと、憲法のこと、原爆のこと、原発のこと、被ばくのこと、差別のこと、
ひとりひとりの大人が知り、ひとりひとりの子どもに伝え、ひとりひとりの生きることの権利を、しっかりと自覚してほしい。

流れがまだ、それほど巨大でない今、ひとりひとりの目覚めがほんまに大切。
流れが巨大になってしもたら、もうその時は、どんなに目覚めてようが、みんないっぺんに押し流されてしまう。

そんなことにならんように、そんなことをさせんように、日本の未来に、子どもに、4度めの被ばくなんかに遭わさんように。

「どれだけの犠牲を払って、平和と憲法第九条を手にしたか。絶対変えちゃいけん」
「放射能の怖さはわかってるはずなのに、日本人は原爆の教訓を忘れてしまう。原発はなくさんといけん」


これは、中沢さんの言葉。中沢さんの遺志を、わたしらはしっかり継いでいかなあかん。


宮さんとおっしゃる方のブログ宮②伝統文化をつなぐ日本の暮らしとは?に、中沢さんのことが書かれてた。
↓その記事の一部と新聞記事を、ここに転載させていただく。

73歳で逝去した中沢啓治さんは、六歳で地獄を見た。
▼広島原爆の爆心地から1.3㌔で被爆した中沢さんは、自宅の焼け跡から、父と姉、弟の骨を兄と掘り出した。
 父と弟と姉は、家屋の下敷きになり、生きながら焼かれた。

▼おびただしい数のむごたらしい死体、漂う死臭の記憶。
 それは生涯、中沢さんを苛んだ。
 そのたびに〈逃げ場のない穴に閉じこめられたような暗い気持ちになって、落ちこんでしまいます〉と、最後の著書『はだしのゲン わたしの遺書』に書いている。

▼小一の子を持つ母親から、抗議の手紙を受け取ったことがあるという。
 漫画 『はだしのゲン』を読み、夜トイレに行くのが怖いと泣く。
 あんなどぎついものはかかないでくれと。

▼中沢さんは返事を書いた。
〈あなたのお子さんは立派に成長しています。ほめてやってください。
『はだしのゲン』を読んでトイレに行けないくらい、自分のこととして感じてくれた。こんなありかたいことはありません〉

▼座右の銘は「一寸先は、闇」。
 被爆以来、死の恐怖と 背中合わせで生きてきたからだ。
 死を見つめ続けたからこそ、生のたくましさを描きえた。
 その死は、穏やかなものだったという。




中沢啓治さん死去
原爆の恐怖 ゲンと叫ぶ

↓以下、上記の新聞の書きおこし

2008年夏、広島市内の自宅でお目にかかった。
柔和で、人懐こい笑顔。
おじいさんになった『ゲン』がそこにいた。

6才で被爆し、父親や姉、弟を奪われた。
「原爆という文字を見るだけで、残酷な死体や臭気を思い出して嫌でね」。
手塚治虫さんに憧れて漫画家になった後、過去を隠して暮らしていたという。

転機は、生き地獄を耐えて守ってくれた母親の死。
ぼろぼろの遺骨を見て、
「あの放射能が骨の髄まで奪っていった。原爆から逃げちゃいけない。戦争を起こした者どもを許さんぞ」。
封印していた怒りを、自らをモデルにした『はだしのゲン』にぶつけた。

原爆の悲惨さや死を生々しく表現して議論になったが、
「多くの人に読んでほしいと、あれでもセーブして描いた」。
平和の尊さだけでなく、家族愛、人間の強さや弱さ、ユーモアを盛り込んだからこそ、子どもの心をつかんだ。
「図書館に初めて入った漫画がはだしのゲンだそうです」。
とびきりうれしそうだった顔を思い出す。

原爆後遺症ともされる糖尿病を長年患い、この10年は白内障も悪化。
2年前から肺ガンで入退院をくり返しながらも、「あの悲惨さは子々孫々とことん教えていかなくちゃいけない」と講演を引き受けた。

「どれだけの犠牲を払って、平和と憲法第九条を手にしたか。絶対変えちゃいけん」と語り、
『3.11』後は、「放射能の怖さはわかってるはずなのに、日本人は原爆の教訓を忘れてしまう。
原発はなくさんといけん」と訴えたという。
妻ミサヨさん(70)は「最期まで自分の思いを伝えたいと。執念でした」。

「百まで生きて、講演しまくってやろう」と笑った取材の帰り際、握手してもらった手は、ふっくら温かかった。
晩年も「壁画を描きたい」と表現者へのこだわりを見せ、
「踏まれても踏まれても根を張る」と、青麦に例えたゲンそのままに生き抜いた。
「8月6日がなかったら、おやじと酒を酌み交わして、6人きょうだいで楽しかったでしょうね」。
そんな67年越しの夢を、天国でかなえているに違いない。
(芦原千晶)

中沢啓治氏(なかざわ・けいじ=漫画家)
19日、肺がんのため死去、73歳。
広島市出身。
喪主は妻ミサヨさん。

原爆投下後の広島を生きる少年を描いた『はだしのゲン』の作者として知られる。
45年8月6日、6歳の時に爆心地から約1.2キロ離れた国民学校に登校する途中で被爆。
父、姉、弟を亡くし、母や兄と廃墟の広島を生きた体験が原点になった。

63年に漫画家としてデビュー。
『黒い雨にうたれて」を皮切りに、原爆や戦争の悲惨さを告発する漫画を発表。
73年から連載した自伝的漫画『はだしのゲン』は、原爆投下後の広島でたくましく成長する主人公の姿が反響を呼び、平和教材として活用されたほか、
英語やロシア語など、18(現在は20)カ国後に翻訳(翻訳中含む)され、海外でも出版された。

晩年は白内障による視力低下や、けんしょう炎に苦しみ、執筆活動を断念。
10年に肺がんが見つかってからは、故郷の広島で闘病生活を送っていた。


続いてこれは、今朝観たビデオ。
NHKの『クローズアップ現代』で、『はだしのゲン』が、20カ国もの国で翻訳され、出版されていると知り、それを文字おこししました。
残念ながら、このビデオを、ここに載せることがまだできません。
お手間をかけますが、下の青文字↓をクリックしてください。映像が出てきます。

http://www.dailymotion.com/video/x12mq51_世界をかける-はだしのゲン_news

原爆で家族を亡くしながらも、広島で力強く生きる少年を描いた『はだしのゲン』です。
発行部数は国内外で1000万部以上、20カ国で出版され、連載開始から40年経った今も、世界中でファンを増やし続けています。
今月には、核開発問題に揺れるイランで、ペルシャ語版が発売されました。

イラン人女性:
とっても面白かった。一気に読み終えちゃったわ。

テロとの戦いを掲げ、イラクに派兵したアメリカ。イラク戦争(2003年~2011年)
ゲンの物語は、帰還兵の心も揺さぶっています。

元アメリカ軍兵士:
戦争に行く前に、このマンガを読むべきだった。

世界をかける『はだしのゲン』。その魅力に迫ります。

国谷裕子アナウンサー:
こんばんは、クローズアップ現代です。
はだしのゲンの作者、中沢啓治さんは6才の時、爆心地から1.2キロの所で被ばくし、
もし、コンクリートの壁に寄り添っていなければ、自分は黒こげになって死んでいただろうと書いています。
原爆地獄の中を必死で逃げ抜き、母親と再会することができましたが、父親、姉、弟を亡くし、自らもやけどを負いました。
その時の体験をそのまま主人公に投影して創作したのがはだしのゲンです。
原爆投下直後の広島の惨状、それとともに、貧困や差別に苦しみながら、戦後の過酷な社会の中を力強く生き抜く、少年の姿を描いたものです。
戦争、そして原爆に対する怒りに突き動かされて、創作された『はだしのゲン』。
その中沢さんは、73才で、去年の暮れ、亡くなりましたが、最後まで使命感を持って、子供たちに伝える活動を続けました。
その中沢さんの思いに応えるかのように、今、『はだしのゲン』は、世界各国で読者を広げています。
『はだしのゲン』が翻訳、出版された国々20カ国に及びます。
(アメリカ・フランス・ドイツ・ポーランド・タイ・インドネシア・フィンランド・ウクライナ・クロアチア・スウェーデン・ロシア・スペイン・オランダ・韓国・イラン・ブラジル・トルコ・イタリア・ノルウェー・パキスタン)
ご覧のように、アメリカ、ロシアといった核保有国、お隣、韓国などアジアの国々、そしてヨーロッパ各国でも翻訳されています。
その多くが、『はだしのゲン』を読んで感動した日本人や、海外の人々によるボランティアで、翻訳されたものなんです。

なぜ今、『はだしのゲン』は、国境を超えて人々の心を捉えているのか。
まずはじめに、これまであきらかにされてこなかった、『はだしのゲン』連載を巡る、中沢さんの苦闘です。

『はだしのゲン』の作者、中沢啓治さんの妻、ミサヨさんです。
中沢さんが亡くなって半年あまり、ミサヨさんは、作品にかけた夫の思いを、初めて語りました。

中沢ミサヨさん:
俺はやらなくちゃいけん、というか、マンガという武器を使って、子どもたちに知らせると。
原爆に対する知ったこと、思ったこと、全部『はだしのゲン』に託してね、やるんだと。

連載のチャンスを得たのは昭和48年、『マジンガーZ』や『ど根性ガエル』などの人気マンガで、急速に部数を伸ばしていた少年ジャンプが、その舞台でした。

『まるで悪魔がほえたけるように、3分間で、原子雲は3万2千フィートまで上昇し、グングーンひろがっていった……』

中沢さんがこだわったのは、被ばく直後の悲惨な光景を、ありのままに表現することでした。
爆風で、全身に突き刺さるガラス、熱線で皮膚が垂れ下がった人々。
建物の下敷きになり、火に巻かれて亡くなるゲンの家族。
父、姉、弟を失った中沢さんの体験をもとに描きました。

中沢ミサヨさん:
やっぱり体験者でないとわからないじゃない?
だから、俺が見た目で思ったことをやると。
やっぱりこれ、使命感ていうかね、こう、誰かがこう、背中でね、「おまえ描け描け」と言ってるような感じがするって言ってましたからね。

しかし、『はだしのゲン』は苦戦を強いられます。
読者の人気投票を参考に決められる掲載の順番。
連載当初の4番目から、2ヵ月後には、最下位寸前にまで落ち込みました。
当時の連載の場面。
原爆症の死の恐怖に怯えるゲン。
生き残った母親や生まれたばかりの妹のために、あてもなく食べ物を探すゲン。
孤独で淋しい場面が続いていました。

当時、編集者として、中沢さんのもとに通っていた、山路則隆さんです。
読者の厳しい反応を、中沢さんに伝えていました。

山路則隆さん:
やっぱり、「いつまで続けるんだ」とか、この「暗い作品はもう真っ平だ」とかいう、そういった反応はもちろんあったんですよ。
でもリアルに描きたい。でも本当のことを描きたいという、その相克はずっとあったんだと思うんです。

将来を担う子どもたちにこそ、原爆の本当の姿を伝えたかった中沢さん。
少年誌での人気の低迷に悩み続ける姿を、ミサヨさんは間近で見ていました。

中沢ミサヨさん:
家族が死んだ後、その次のストーリーが面白くないんですよ、全然。悲しいばっかりで重くて。
つまんないよこれって言ったらね、本人もそう思ってるらしくて、
それじゃだめだから、とにかく、面白くもっていくにはどうしたらいいか、そればっかりですね。

どうすれば読者を惹きつけられるのか。
試行錯誤の末に思いついたのは、新たなキャラクターを登場させることでした。
建物の下敷きになり亡くなった弟とそっくりの、隆太です。
原爆で孤児となり、食べ物を盗んだ隆太と偶然出会ったゲン。
隆太を助けたことで仲間となり、次第に明るさを取り戻していきます。

中沢ミサヨさん:
孤児の仲間、みんな生きる力を持ってるじゃないですか。一生懸命生きてるじゃないですか。
もうすんごい面白いわ、わくわくしてるから次読みたくなっちゃうわって素直に言ったら、
よしって感じで、もう次へ進むんですよね。

原爆の病気がうつるという偏見にも負けないゲンたち。
間借りした家でイジメにあっても、それを撥ねのけていきます。
仲間を得たゲンが、困難に打ち勝ち、成長していく物語が、読者の心をつかんでいったのです。

山路則隆さん:
だから、ゲンは、自分一人のために、自分勝手に、悲惨な状況、環境で、それを嘆きながら、怒りながら生きているわけではなくて、
やっぱり、人の面倒見たりとか、助けたりとかすることでもって、そういった子どもの成長を物語にしたいんだと。
それを読者が、一緒になって、マンガを読むことで疑似体験できるわけなんで。

中沢ミサヨさん:
原爆で苦しんでたけど、だけど生きていくじゃないですか、精いっぱい。
だからその生きる力、負けるなよっていうね、それが言いたいんですよね、実際ね。
どんなことがあっても生きていけよっていう、それがテーマなんですよね。

連載中、中沢さんは、悪夢にうなされながら、被ばくの惨状について描き続けたと、妻のミサヨさんは語ってくれました。
作品は、主人公のゲンが中学校を卒業し、画家になるため上京する場面で終っています。
中沢さんはゲンを通して、東京での被爆者の苦悩について描きたいという構想を練っていましたが、
白内障に悩まされ、作品を描き上げることはできませんでした。
しかし、力強い作品に感動した人々から、海外の人々にも読んでほしい、翻訳させてほしいという申し出が相次いだのです。
中沢さんは、世界中の子どもたちに読んでほしいと、著作権に対する対価を求めることなく、心良く応じ、
作品は、主にボランティアの手によって、20カ国語に翻訳されたのです。
今、『はだしのゲン』のメッセージは、被ばくの惨状だけに留まらず、世界が抱える問題とも重ね合わせて、新たな共感を得ています。

核開発問題に揺れるイラン。
今月(20日)、『はだしのゲン』のペルシャ語版が出版されました。
原爆をありのままに描いたストーリーに、注目が集まり始めています。

イラン人女性:
とっても面白かった。一気に読み終えちゃったわ。
原爆があんなにひどいものだなんて……。

翻訳したのは、広島に留学しているイラン人の、サラ・アベディニさんです。
万が一にも、イランが核兵器を開発することがあってはならない。
サラさんは、ゲンを祖国の人に読んでもらいたいと、ボランティアで翻訳をかって出ました。

サラさん:
体の皮がむけたりとか、髪がそのまま抜けちゃったりとか、そんなのは、そこまでは、『はだしのゲン』を読むまでは知らなかったんですよ。
この悲しい気持ちを、できればイラン人にも伝えられるんだったら、いい本になるんじゃないかなと思って。

この日、イランの書店では、『はだしのゲン』の読書会が開かれていました。
核兵器とどう向き合うべきか。
イランで、本音の議論が始まりました。

「私だったら、どうしただろうって思ったわ」
「家族が生きながら焼け死ぬところは、心が痛かった」
「想像するだけで、本当に大変だわ」
「それでも、世界から核兵器をなくすのは、理想に過ぎないと思う。
戦争はなくならないから。
特に中東では、さまざまな紛争が起こるし、私たち市民が、核兵器をなくすことが出来るのかしら」
「核兵器をなくす方法があるとすれば、それは、私たちが、知識を身につけることだと思う。
核戦争や放射線などの恐ろしさを、(ゲンを通じて)みんなに知ってもらうべきだわ」

原爆を投下したアメリカでも、『はだしのゲン』は共感を呼んでいます。
ゲンが読まれている学校は、小学校から大学まで、2000以上にのぼります。

授業風景:
「このマンガは、君たちが考えているより以上に、パワフルでシリアスです。
中沢さんの作品は、さまざまな感情をかきたてるんです」

ゲンを題材に授業をしているレナード・ライファス教授です。
これまでは、歴史のひとこまとしか受け取られなかった原爆に、学生たちが興味を持つようになったといいます。

学生たちの感想:
「少し前に、歴史のクラスで、原爆について学んだけど、今回の方が、より身近に感じることが出来たわ」
「マンガの絵が生々しかった。アメリカ人がこれを読むのは重要だと思う」

『はだしのゲン』を過去のこととしてではなく、現代の戦争と重ねている人がいました。
カルロス・グランデさんです。
3年前まで、陸軍の兵士として、イラク戦争の最前線で戦っていたカルロスさん。

カルロスさん:
同じ部隊にいた5人の仲間を失いました。
彼らが死んだと聞いてショックだったよ。
そんなはずはないと、かすかな望みを持ち続けた。
でも、本当に死んでいたんだ。

当初は、自分の苦しみばかりにとらわれていたというカルロスさん。
しかし、ゲンと出会い、考えを変えました。
最も衝撃を受けたのは、両親の死に直面する、孤児たちの姿でした。
カルロスさんは、戦場で親を失った多くの子供たちに出会っていました。
ゲンで描かれた孤児たちの苦労や悲しみに触れ、イラクの子どもたちの心情が初めて分かったといいます。

カルロスさん:
ゲンにはすべてが描かれている。
実際の子どもたちの気持ちがわかる、力のある物語だよ。

自分が参加した戦争は、正しかったのか……カルロスさんは、疑問を持ち始めています。

カルロスさん:
戦争に行く前に読むべきだった。
戦争が何をもたらすのか、世界中の人は、このマンガを読んで知るべきだ。

国谷裕子アナウンサー:
スタジオには、『はだしのゲン』のミュージカルの脚本・演出を手がけられ、そして国内だけでなく、海外での公演を続けてらっしゃいます、演出家の木島恭さんにお越しいただいています。
今の、最後の、イラクから帰還したアメリカ兵のカルロスさんが、戦争に行く前に読んでおけばよかった、という言葉が印象的だったんですけども、
『はだしのゲン』、20カ国に翻訳されて出版されて、そのうちのこの10年間に、半分以上が出版されているという、この世界への広がり方をどう捉えていらっしゃいますか?

木島恭さん:
そうですね、先ほどのVTRの女性の方の話もありましたけど、
戦争という問題と核の問題が、非常に身近なところにあるんだなあということを感じますね。
それはもうほんとに、第二次世界大戦が終ってずいぶん経ちますけど、そういう時間ではなくて、まさに今、近い状態に、戦争なり、核という問題を、みんな世界が抱えているんだという情勢が、ひとつは影響しているんではないかというふうに思いますね。

国谷裕子アナウンサー:
海外では、アメリカをはじめ、ポーランドやロシアなどでも公演されてますけども、どういう反応が多かったですか?

木島恭さん:
そうですね、アメリカは戦争を集結した平和な爆弾、という教育が、まずは行われてまして、
ただ、被害の実態についてはあまり、伝えられてないんですね。
まあ、意図的に伏せているということもあると思うんですけども。
ですから、そのことの、原爆というものがこんなに悲惨な状態を生むのかということを目の当たりにする、ということがショックだったという、
ちょっと認識が変わったという意見が、ニューヨークではけっこう多かったと思います。

で、ポーランドは、アウシュビッツを抱えてますから、ナチスドイツの問題もあれで、
戦争というよりもほんとに、幸せな家族が突然引き裂かれて、不幸が、というかな、災難というか、
そういう弾圧なり、いろんなものが起きてくることの、彼ら自身が抱えた問題と、
ゲンが受けた、被ばくによって受けるいろんな差別だったり、ほんとに幸せな家族を崩壊させられていく人たちの心というかな、気持ちというか、
そういったものが、とても共感を呼んだんではないか、というふうに思いますね。
そういう意見がとても多かったです。

ロシアは、チェルノブイリの事故の被害者の方たちが、観劇にいらっしゃいまして、
その後の、放射能の被害を受けた後、自分たちが現実に抱えてる問題、それがゲンの中で起きてくる、
同じような、やっぱり、放射能が、まあ伝染病という言い方はもうすでに、この時代では無いんでしょうけど、
差別というかたちにつながっていったり、自分たちが帰りたいと思っている所にも帰れない、
日々、ほんとに、放射線を測りながら、食べ物を食べなければいけないということが、
けっしてその、原爆という戦争の放射能の問題ではなくて、現実に自分たちが抱えている、放射能とどう対応して生きていくかというようなことと結びつけて、捉えられた方が多かったみたいですね。

国谷裕子アナウンサー:
まああの、原爆に対する、あるいは戦争に対する、強い怒りに突き動かされて創作された、この『はだしのゲン』ですけども、
もっとも中沢さんが伝えたかったのは、生き抜くことだと。

木島恭さん:
はい、そう思いますね。
もちろん、被害の実態、戦争というものが何を起こしたかというは、前半部分では強く語られるんですけども、
実際に人は生きていかなくてはなりませんから、その、いろんなことがありながらも、生き抜く力というのかな、
生きようとする努力、エネルギーみたいなものを、ゲンを通して感じてほしかったんだろうと思います。
ただこう、生き抜くというとね、とても個人的なことだったりしますから、
じゃあ俺が生き残るためには、人を踏みつけにしてもいいんだという、そういうことにもなりかねないので、
そういうことではなく、まさにこう、助け合って、同じように力を尽くして、支え合って生きるということが、
中沢さんにとっては、とても大事だったんだろうと思います。
それは、自分は被爆者で、原爆という体験を持ちますけど、同じように、日本中の人たちが、戦争という被害を受け、同じように孤児になり、同じように家族を失った人たちがたくさんいたでしょうから、
ほんとにひとつになって、みんな同じ思いだろうというような、支え合い方というものが、中沢さんの中に強くあったんではないかと思いますね。

国谷裕子アナウンサー:
そういう中沢さんの思いが、世界の人々にも共感を呼んでいるということもあって、ボランティアとしてぜひ、海外に伝えたいという、
ほとんどボランティアの方々が、出版を手助けしているっていうところが、やっぱりすごいですねえ。

木島恭さん:
それはひとつは、マンガという媒体の力があると思うんですね。
マンガというのは、コマとコマでつながりますから、間の部分をどうしても読者が埋めなければいけない、そこに参加せざるを得ない、
演劇もライブですから、同じように観客を必要とするんですけども、
40年経ってもその、40年前に描かれたマンガすら、今読むと、読み手がその中に入らざるを得ない。
そうすると、もらった感動ではなくて、自分自身のアイデンティティみたいなものを、そこで試されてしまうっていうのかな、
そこで受けた感動は、マンガからもらんではなくて、自分の感動なんですね。
それをやっぱり同じように、みんなに分かってほしい、みんなに伝えたいという思いが、
自分の国の言葉に訳して、みんなに話したいということにつながってる、大きな要素ではないかと思いますけどね。

国谷裕子アナウンサー:
自分の体験になっていくんですね、そのコマを埋める作業が。

木島恭さん:
はい、そうだと思います。
疑似体験ですけど、あきらかにそこで、自分自身が積極的に参加するというかたちで、この作品が生き続けていくという、大きな要素になっているんではないかと思いますね。

国谷裕子アナウンサー:
中沢さんはほんとに最後まで、若い人に伝えたい、子どもたちに伝えたい、という思いを強くお持ちで、
妻のミサヨさんがおっしゃっているんですけども、
とにかく、未来を背負う子どもたちは、戦争体験を知らない。
戦争体験を知らないから、世の中が戦争の方に向かっていても、わからないのではないかと。
だからそのためにも、ゲンを読めば、ちょっと待てよ、小さい時に読んだことを思い出して、もう一回大人になって読んでみようという気持ちになるのではないかと。
そのために、子どもたちに読んでもらいたい、という思いだったそうです。

木島恭さん:
だんだんね、放っとけば無くなっていくのが時代ですから、ほんとに入り口でいいので、こういうことをきっかけに、
入り口として、こういうことがあったんだよ、そっから何をじゃあ、自分は知って、
さっき、止められるとすれば、知識だけだとおっしゃってましたけど、知ることが始まりですから、
そういうきっかけになれる作品になればいいなあと思いますね。
演劇もマンガも、あらゆるメディアが、知ることから始めていただければ、先へつながっていくんじゃないかというふうに思います。

国谷裕子アナウンサー:
多彩な問題を投げかけていらっしゃいますけれども、そのマンガを通して議論の場っていいますか、話し合える舞台のきっかけになるといいですね。
コメント (10)
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