田島はいつも「女にモテたい」と言っていた。
放課後の教室、少し温度が落ちたその場所で机と椅子だけが静かに並んでいた。
いくつかの机の上には綺麗に畳まれた制服が置かれていて、ときおり吹き込む風にカーテンが揺れていた。
床に落とし込まれた太陽の光もそれに合わせるように揺れていて、少しだけオレンジがかった光が揺らめく様は、まるで炎のようでもあった。
窓の外からは野球部の声が聞こえていて、さらに遠くからはダンプカーのエンジン音がうっすらと聞こえていた。
それ以外は静かで、夕方の空気と放課後の静寂がそこにあった。
チャイムが鳴った。
それを合図にしたのか分からないが、鳴り終わるのを待って田島がポツリと言った。
「女にモテてえんだよ」
田島は野球部の練習を見下ろし、グラウンドの白い砂の反射が眩しいのか、少し眩しそうに眼を細めながら、これでもかというばかりに力強くそう言った。
それは切実な魂の叫びのようにも思えた。
「モテればいいじゃん」
身も蓋もない返答をした。すぐに田島が反論する。
「あのなあ、モテればいいって、そういうわけにはいかないだろ」
田島はこちらに向きなおり、まるで外国人のようなオーバージェスチャーを見せながらそう言った。
「山下みたいにはいかねえよ」
そう付け加えて、またグラウンドに視線を落とす。
同時にスパンというミットの音がここまで聞こえてきた。
山下は野球部のエースだ。
もちろん、四番だしキャプテンだし、イケメンで背も高い。
勉強はちょっと苦手みたいだったが、まあ、漫画に出てくるモテ役そのままみたいなやつだった。
現に、練習中の山下を見守る女子の集団がプールの法面に陣取っていて、キャーキャーと黄色い歓声をあげていた。
球が投げられるごとに歓声が上がり、静寂を塗り潰していく。
「どうすればモテるんだよ」
それは僕にも、田島にも分からなかった。
「わかんねえよ」
また大きな風が入ってきてカーテンを揺らした。
丸く膨らんだそのカーテンは何らかの物体を覆い隠しているように思えた。
僕も田島も、女性にモテたかった。中学生男子としては当たり前の感情だ。
おそらく、モテるためだったら相応の努力はしただろうと思う。いいや、おそらくなんでもしたのだろうと思う。いくらでも頑張ったと思う。
けれども、何を頑張っていいのか分からなかった。本当に分からなかった。
おそらく、いまならファッションを研究してとか、髪型を研究してとか、清潔感をもってとか、そもそも外見だけでなく内面を磨く必要があって、何かを一所懸命に成し遂げてみるべきとか様々な考えが浮かび、それっぽい努力項目が浮かぶのだけど、当時の僕らには無理だった。思いつきもしなかった。
頑張るつもりはあった。けれども何を頑張っていいのか分からなかった。
そして、この感覚は僕と田島には覚えがあった。
少なくとも僕らはそのもどかしい気持ちを以前にもどこかで味わっている。経験している。
おそらくではあるが、田島もそれに気が付いていて、なんだか言いたそうにしている。
たぶん、その記憶は僕と同じくらいの鮮度で、なんとなく出かかっているのに出てこない、そんな状態だ。
なんだかもどかしさを共有しているようで少し面白かった。
「ダウボーイだ!」
田島が言った。
「そうだ、ダウボーイだ!」
僕も同じように叫ぶ。記憶の箱がバコっと開くのを感じた。
そう、たぶんこの感情はダウボーイなのだ。
*
ダウボーイとは1985年にコトブキシステムという会社から発売されたファミコン用のゲームソフトだ。
その前年にアメリカで発売されたコモドール64用ゲームソフトの日本版という位置づけだ。
その分類を一言で言ってしまうと、潜入アクションゲームだ。
今でいうところのメタルギアソリッドに近いものがあると思ってくれればいい。
そう言ってしまうとめちゃくちゃ怒る人がいるかもしれないけど。
そして、このダウボーイ、伝説のクソゲーとしての誉れが高い作品なのだ。
識者によると、現在まで連綿と続くクソゲーの系譜、その始祖と言っても過言ではないらしい(※諸説あります)。
ではいったい、何がそこまでダウボーイをクソゲーたらしめているのか。
挙げればきりがないが、まず初めに、異常に操作性が悪い点だろう。
次に、何をやっているのかよく分からないという点がある。
さらに、ほとんどの人が2面で詰むという難易度。これくらいだろうか。
その全ての要素がクソゲーのクソゲーたる所以をギュッと濃縮したみたいな作りになっていた。
ファミマガというゲーム誌のゲーム通信簿では30点満点中12点という歴代最低得点の金字塔を打ち立てたほどだからそのクソっぷりが窺える。
何度も言って申し訳ないが、本当にクソだった。
「たしかにダウボーイだな」
僕たちとダウボーイとの間には並々ならぬ因縁があった。
いいや、それは運命だったのかもしれない。
それほどに深い、いいや、不快な何かがあったのだ。
いつの間にか野球部の練習が終わったらしく、静寂と夕日だけがグラウンドに残されていて、歓声も聞こえなくなっていた。
本当の静寂がそこにはあった。その傍らで僕らはダウボーイの思い出を語り始めた。
*
ダウボーイが発売された当時、世の中は空前のファミコンブームだったように思う。
世の子供たちはみんなファミコンに夢中だったし、次々と発売されるカセットに心を震わせていた。
Noファミコン,Noライフ、それが決して過度な物言いではなかった。
そんな、なんでもかんでも売れてしまう世論の中で、どさくさに紛れるかのように発売されたカセット、それがダウボーイだった。
もちろん、本当にどさくさに紛れて発売したわけではないだろうし、売れる算段とかあったのだろう。
けれども、少なくとも僕らには“どさくさ”としか思えなかった。
やったもん勝ちみたいな雰囲気すらあった、それがダウボーイだった。
「田島が買ってもらったカセットがやばいらしい」
当時、僕たちは小学生だった。
田島のカセットがやばい、そんな噂がクラス内を駆け巡った。
当時は、ほとんどの家庭がクリスマス、誕生日といった大きなイベントの時しかカセットを買ってもらえない風潮だった。
やはり5000円以上するものだけに、軽々に買ってもらえるものではなかった。
だからみんなかなり慎重にカセットを選んでおり、いまのアマゾンレビューなんて目じゃないくらいの口コミ判定能力があった。
このカセットはいい、これはダメ、そういった情報が瞬時に回っており、ずいぶんとシビアな情報戦術があった。
その貴重な貴重な片方のチャンスを使って田島が手に入れたのが「ダウボーイ」だった。
のちに伝説のクソゲーとして語り継がれるカセットだ。
プレイして田島は泣いたという。
「全く意味が分からないんだ。なんとか1面はクリアできるんだけど、2面が完全に無理だ」
田島はそう言っていた。
「大げさな」
そんな感想を抱いたように思う。
どんなに難しいゲームであっても、試行錯誤を繰り返し、練習を重ねればなんとかクリアできるようになる。
当時あったゲームはだいたいそうだった。
「難しいとかじゃないんだ。意味が分からないんだ」
その言葉の意味は分からなかったが、そこまでいうのならっていうことで田島の家に行き、そのダウボーイとやらをプレイしてみることにした。
結果を先に書いてしまうと、本当に意味不明だった。
まず画面が意味不明。何かフィールドにそれっぽいアイテムが落ちているのだけど、それすらも意味不明。
使い方も分からない。なんとなくだが、右下にある鍵を取ればクリアっぽいことだけは分かった。
ただ、操る主人公キャラは悪くなかった。
操作性は悪いものの銃も撃てるし、敵を体当たりで倒せるのでなかなか体幹が強い。
クソゲーにありがちな異常に虚弱体質というわけでもなかった。
これなら練習を重ねればクリアできるのでは、と思ったほどだ。
しかしそんな状況も2面になると一変する。
いきなり目の前に大きな大河が立ちはだかるのだ。
しかも、主人公は敵の兵士を体当たりで倒すくらいの屈強さを誇るのに、この川に入るとボチャンと瞬殺されてしまう。
どうやったらこの川を渡れるのかもわからないし、川のほとりに意味深な棒が立っているのだけど、それすらも意味不明だった。本当に意味不明だった。
僕らにとって驚愕だったのは、その「意味が分からない」という状況だった。
そこにはヒントもチュートリアルも、解決策もない。
ただ茫漠とした何かが行く手を遮るように横たわっていた。
ゲームにおいてそんな状況に陥ったことがほとんどなかった僕らは困惑した。
何度も言うが、これが弾幕がすごいシューティングゲームとかの難易度なら、何度も何度も練習してパターンを覚えるなどの努力ができた。
理不尽な強さを誇るコンピューターキャラを倒すゲームなら、何度も挑戦したかもしれない。
けれども、このダウボーイは何を努力していいのかすら分からない凄みがあった。
はっきり言って圧倒的だった。別角度の難易度だった。
「もうどうしていいのかわからねえよ」
田島は泣いた。
そうなるとこんなもんクソゲーだ、とプレイをやめてしまえば良かったのだが、田島にも深い事情があった。
クリスマスか誕生日、その2つしかファミコンカセットを買ってもらえるチャンスはなかったが、田島の家にはもう一つ縛りがあった。
−前のゲームをクリアしてから次のゲームを買うこと−
これは鉄の掟だった。
当時は明確なクリアがないゲームも多かったが、その場合もクリア相当に極めることが条件だった。
ポイポイとカセットを乗り換えるのではなく、大切に大切に遊び、遊びつくして次のゲームに行く、そんな方針だったのだと思う。
全くもって素晴らしい方針なのだけど、ダウボーイにおいてはそうではなかった。
なにせ努力でどうこうなるレベルを超えている。これは悪魔だ。魔術だ。
このままでは田島は永遠に次のカセットを手に入れられない事態になってしまう。そんな絶望が渦巻きつつあった。
「一緒に攻略してくれ」
それから、僕と田島、二人でダウボーイを攻略する日々が始まった。
けれども、何度やっても2面の川で詰むのである。
本当に、何をどうしていいのか分からなくなるのだ。
決して怠けているわけではない。これがクリアできるならなんだってする。いっぱい頑張る。
けれども、何を頑張っていいのか分からないのだ。
「もうダメだ、俺は一生カセットを買ってもらえないんだ」
田島は泣いた。
一生涯にかけて親にファミコンカセットを買ってもらうつもりだったんだと驚いた。
けれども、彼の嘆きと慟哭は僕の心を動かすに十分だった。
「もうクリアしたことにしちまおう」
そう提案した。
クリアしたと言い張ればなんとかなる。
僕だって証人になって横でずっと見ていた、確かにクリアしたと証言する。
それでいいじゃないか、バレやしないよ。
田島もすぐにその解決策に飛びついた。
田島のお母さんが帰宅したのを待って報告する。
「ついにクリアしたよ」
「僕も横で見てました。華麗なプレイでした」
これで一件落着のはずだった。
田島もカセットを買ってもらえ、田島母もクリアを喜ぶ、ダウボーイの川なんてこの世になかったんや。そうなるはずだった。
けれども、田島母は厳しかった。
「へえ、最後はどんな画面だった?」
まるで僕らの心を見透かしたように、射貫くような視線でそう言った。完全に予想外の質問だ。
僕らはこのゲームのクリア方法も分からなかったが、それ以前にこれが何を現したゲームなのかすら分かっていなかった。
実はこれは第一世界大戦をモチーフにしたゲームで、米兵が敵軍の捕虜収容所に潜入し、要人を救出するというゲームだ。
まあ今でいうところのメタルギアソリッドみたいなゲームだ。そう言うとめちゃくちゃ怒る人がいるかもしれないけど。
とにかく、そういったゲームなので、おそらく要人を救出した感じでゲームが終わるはずだ。
けれども、僕らはそもそもこのゲームの趣旨を理解していなかった。
当時のゲームはドットが荒いので何が何やら分からない。
カセットのラベルにはそれっぽい絵もあったが、けっこうコミカルでそれが戦争とは結び付かなかった。
僕らにとってはなんか敵と戦って鍵を取って川に落ちるゲーム、それだけだ。
僕らは答えに詰まってしまった。
このゲームの最後も、目的も、趣旨も、川の渡り方も分からない。僕らは何をやっていたのだろうか。
「なんかダウとか言っていた」
田島は適当なことを言ってのけた。
ダウボーイというゲームタイトルから推測した格好だ。なかなか頭が切れるやつだ。それっぽい。
「へえ、ダウって言ってたんだ」
田島のお母さんは全てを見透かしたような表情でそう言った。
バレているのかもしれない。そう思った。
よくよく考えたらダウなんて言うわけないだろ。適当が過ぎる。
「そういえば何面まであったの? ずっと2面ばかりしてたけど」
田島母はさらに追い打ちをかけるように言った。
僕らは2面の川を越えられなかった。だから何面までなんか正直分からない。
いまこうして調べてみると、5面で終わりということはすぐにわかる。
そこでクリアとなり、その後に1面に戻り延々とループするらしい。
ただ当時の僕らはそれが分からなかった。
そんなもの田島のお母さんも知っているわけないので、適当にそれっぽいことを言っておけば良かったんだけど、僕らはもう半分くらい嘘を見抜かれたと思っていたので、何も言えなくなっていた。
「えっと、その……」
しどろもどろになる田島。
「なあに? クリアしたのに分からないの?」
田島のお母さんは手を抜かずに追撃をしかけてくる。厳しい女だ。
「何面までだったの?」
僕らは2面より先を知らない。それでもなんとか援護しなきゃならないと、僕が口を開いた。
「よ……4000面でした!」
頭おかしい。いくらなんでも多すぎる。
1面を1分でクリアしたと仮定(それでも尋常じゃない速さ)しても4000分必要だ、67時間だ。
セーブも何もないのに67時間もプレイできるわけがない。
「へえ」
こうして、僕らの嘘は完全にバレた。
残されたのは、カセットを買ってもらえないという事実とダウボーイ。
絶望という大河が僕と田島の前に横たわっていた。
*
すっかりと日が傾いており、早く下校するように校内放送が流れてきた。
「4000面はないだろ、4000面は。あれで嘘がバレた」
田島がそう言った。
教室は少しだけ太陽の光が入りにくくなっていて、ちょっと早く夕暮れが来ていた。
だから薄暗くて田島の表情を伺い知ることはできない。
「ごめんな」
そういえば、僕はあの後、ほとんどダウボーイと関わることはなかったのだけれども、田島はずっと攻略していたのだろうか。
延々と二面の川に挑んでいたのだろうか。
「俺が手に入れた最後のファミコンカセット、それがダウボーイ」
攻略していなかった。
彼はずっと苦しんでいた。
ダウボーイという十字架を背負い、戦い続けていた。
それでもクリアできず、ずっと彷徨いつつけていたのだ。なんだか胸が苦しくなった。
「まさに今の俺たちはあの日のダウボーイだよな」
僕らはダウボーイをクリアしたかった、そのためならどんな努力だってしたはずだ。なんだって頑張れるはずだった。
けれども、何をしていいのか分からなかった。
それと同じ気持ちを今も味わっている。
モテたい、でもモテるために何を頑張ったらいいのか分からない。
この逸る気持ちはなんなのだろうか。
実はこの気持ちは、モテるという事象に限った話ではなかった。
将来のこと、勉強のこと、受験のこと、僕たちは焦っていた。
何かをしなきゃいけない、何者かにならなければならない、そんな気持ちがあった。
けれども、何をしていいのかわからなかった。
努力をしなきゃいけない、勉強もしなくちゃいけない、けれども、具体的に何をすべきなのか、その指針はどこにもなかったのだ。
頑張らない人のいくらかは、別に頑張るつもりがないわけではない。
頑張りたいけど何を頑張っていいのか分からない。何かしなきゃならない。
けれども何をしていいのか分からない。気持ちだけが焦ってしまう、そんな人はたくさんいる。
今でも思う。あれほどの焦燥感、あれはいったいなんだったのだろうと。
そう、僕らはずっとずっとダウボーイだったのかもしれない。
*
スポーツで世界一に輝いたりだとか、何かの賞を貰ったりだとか、そういった偉業を成し遂げる人は数多くいる。
それらの偉業は称賛されるべきだし、そこまで血の滲むような努力を積み重ねてきたことも同じく称賛されるべきだと思う。
ただ、僕は、そういった人たちを見て、それらの偉業以上に“頑張ることがあった”という事実が羨ましくて仕方がない。
幼少期から打ち込むことができ、努力を重ねられる事象、それがあった人は幸せだ。
スポーツなり、絵なり、音楽なり、頑張ることがあった。
一心不乱に頑張ることがあった。それは素晴らしく恵まれたことのように思う。
多くの人はそれを見つけるまでに至らないからだ。
何かをすべきと分かっているのに、ただただ焦燥感に身を委ね、何も見当たらず気持ちだけが沈んでいく。
僕らはそんな世界に生きていた。
ただ、僕はあの焦燥感は決して無駄だったとは思わない。むしろ大切だったように思う。
ダウボーイの2面、なんとか川を渡ろうと試行錯誤し、ボチャンと失敗を繰り返した。
けれどもその過程で僕と田島はずっと笑い合っていた。
田島母に嘘をついたときだって、そこはかとない後味の悪さを感じさせてくれた。
その全ては意味があったのだと思う。
同様に、将来のことや勉強のこと考えた行き場のない焦燥感もまた、意味があったのだろうと思う。
あれがあったからこそ、その後の“努力が必要な試練”たちを理不尽に感じず、前向きに頑張ることができた気がする。
目の前に努力すべきことがあるのは、幸せなことなのだ。
*
この現代社会は、やるべきことを見失わないようにできている。
ダウボーイの攻略だって、検索すれば「2面の川は謎の棒を爆弾で壊して渡る」とすぐに出てくる。
「爆弾などのアイテムは1面でしか手に入らないので全部入手しておかないと詰む」そこまでの情報が簡単に手に入る。
あれだけ苦労したのがバカらしくなるような情報が簡単に手に入る。
これはどのゲームも同じで、基本的に「何をしていいのか分からない」という状態には陥らないようになっている。
詰まったら検索すればいい。
むしろ最初から攻略サイトを見ながら効率よく、取りこぼしなく、進めていく人だっている。
やるべきことはしっかりと用意されているのだ。
そしてこれはゲームに限った話ではない。特にこのインターネットには沢山の筋道が用意されているのだ。
何かをやりたいと思えば、そのやり方を詳細に解説したサイトがいくらでもある。
いくらでも先に進んでいる人や識者とSNSで交流でき、そこで詳細に教えを受けることができるかもしれない。
それはずいぶんと効率が良く、便利なことなのだ。
こういった世界において、何をするべきか分からず、あっちにいって失敗し、こっちにいって失敗する、という行為は古臭く効率の悪いものとされがちだ。
けれども、そうやってもがき苦しむことこそ大切なのだと思う。
その失敗はきっとただの失敗ではない。たぶん僕らは迷走の末の失敗をするべきだったのだ。
少なくとも、僕においてはその目的を失った迷走が自分を形作っているように感じる。
そう、僕らはダウボーイであるべきなのだ。
*
一つだけ、ダウボーイたちの失敗について話をしよう。
あの日、放課後の教室でモテたいと話していた僕たちは、何をするべきか、その答えのようなものを見つけつつあった。
「ダウボーイは意味不明だけどさ、いまなら指針があるんじゃないか」
そう言って、練習を終え、グラウンドを歩く山下を指差す。
「そうか、山下は指針か」
田島は理解した。
そう、あの日のダウボーイのように何の指針もないわけではない。山下という指針があったのだ。
「山下って野球部なのに色が白いよな」
たしかに、山下の色の白さは彼のイケメンをさらに際立たせていた。
「山下か……」
田島はそう呟いて目を閉じた。なんだか嫌な予感がした。
*
次の日、登校してきた田島は真っ白な顔をしていた。
色白の美少年山下を目指して、田島母のファンデーションを塗りたくってきたらしい。
即座に、田島のニックネームは「ぬりかべ」になった。
僕らはこうして焦燥感に駆られ、迷走し、失敗をしてきた。
何かをするべきなのはわかっている。
けれども何をしていいのか分からない、そういったダウボーイ的な心情だってもっと尊重されてもいいのではないだろうか。
ちなみに、ダウボーイとは第一次世界大戦くらいのころまで米軍の歩兵に対して使われていた俗称だ。
乾燥地帯を進んでいた歩兵が白い粉塵にまみれてパン生地(ダウ)みたいになっていたことに由来する。
そう言った意味では、ファンデーションで真っ白になった田島は本当にダウボーイだったのだと思う。
あの日の僕らに、答えはなかった。
道筋もなかった。けれどもきっと何かがあったはずだ。僕はそう思いたい。
正解だらけのこの世界で、僕らはもっと間違うべきだし、迷走すべきだ。
単なるクソゲーとして語られることの多いダウボーイ。
けれども僕らにとってはそれこそが人生を教えてくれた大切なゲームだったのかもしれない。
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著者名:pato
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