「貧乏」はなくなった
令和の日本には貧乏がなくなった。
そのことについて書きたい。
……と、言ったところで「この時代、みんなが豊かだとでも言うのか?」、「困っているひとはたくさんいるぞ」、「そもそも、おまえに金があるのか?」などといろいろな声が飛んできそうだ。
なので、もう少し詳しく書く。「昭和のころにあった『貧乏』特有の概念は薄れてなくなり、令和の今にあるのはただ『貧困』や『困窮』である」と。
これならばどうだろうか。昭和の時代に、あるいはバブル崩壊前、失われた30年より前に物心あった人ならば、少しは共感してくれるかもしれない。
令和のいま、「貧しいけれど楽しい我が家」的な「貧乏」に含まれる、ある種のユーモアや前向きさはほとんど失われているように思える。かぎ括弧付きの「貧乏」。あるいは、カタカナで「ビンボー」と書いた方がいいかもしれない。
東海林さだおの時代
東海林さだおを知っているだろうか? 知らなかったら検索すればいい。
おれにとっては、おれは幼少期におれの日本語を形作ってくれた文筆家だ。おれは東海林さだおのコラムを読んで、「漫画でなく文章でも面白いものがあるんだ」と知った。おれの日本語の根幹には東海林さだおの影響が大きい。
して、おれが「令和に貧乏はないな」と思ったのは、貧乏についての本を読んだからだ。東海林さだおの『貧乏大好き~ビンボー恐るるに足らず』というアンソロジーである。令和に書かれた新作ではない。かなり昔、それこそ昭和ど真ん中くらいのコラムも収録されている。
冒頭に、こう書かれていた。
貧乏を恐れてはいけない。
かといって親しむものでもない。
むろん憧れるものでもない。
仲良くしようとして近寄っていくものでもない。
わざわざ近寄っていかなくても、ちゃんと向こうから近寄ってきてくれる。
貧乏神というものはいつのまにか家の中に居座っているものなのである。
戦争が廊下の奥に立っていた
という俳句があるが貧乏神もちゃんと廊下の奥に立っている。
もう、これだけで「貧乏」のニュアンスと、いま語られている「貧困」との差を感じないだろうか。「貧乏神」にはまだ余裕が感じられる。貧困に神がいるなどと言ったら、不謹慎と指弾されることだろう。
さらにこう続く。
貧乏はイメージが暗い。
貧という字を見ただけで暗い気持ちになる。
貧という字を見て急に希望が湧いてきたという人がいるだろうか。
赤貧洗うが如しを読んで、頭に虹が輝いたという人がいるだろうか。
東海林さだおは「貧乏」を分解してこう述べる。たしかに「貧」にいいイメージがないのは確かだ。ただ、おれのあたまには一つだけ「貧」がついてある種の人たちが喜ぶ単語が思いついたが、ここで書くのはやめよう。
「貧」だけですでにこのように荒んだ気持ちになっているところへ「乏」の字が追いかけてくる。
乏しい。
「少ない」「足りない」「不十分」。
お金に「乏しい」ことを「貧乏」という。
なにもそんなにしつこく追いかけてこなくてもいいじゃないか。
「乏しい」もたしかに歓迎したくない言葉だ。たしかに「貧乏」という言葉はしつこい。
貧乏は逃げきれるものでないことは誰もがわかっている。
だが向こうはどうしても仲良くしたいのだ。
だったら、その熱意にほだされてみるのもいいのではないか。
向こうはこっちに恋い焦がれているワケです。
応えてあげるのが人の道。
開き直って、
「大好き!」
と受けとめてあげるのが人の道というものではないでしょうか。
して、ショージ君(いきなり「東海林さだお」のことをショージ君と呼び始めるけどとくに意味はないです)はこのように締めくくる。
これを読んで「ケシカラン!」と思う人も少なくないのではないか。だが、それは時代のずれというものだ。「貧乏」は「貧乏」、ショージ君の貧乏は昭和の貧乏であって、令和の貧困ではないのだ。おれはこの記事で「違うんだな」ということを言いたい。
それにしても、「貧困大好き!」などと言おうものなら、だれにも共感されず、非難され……る、以前に言葉がおかしい。
そうだ、「貧乏」は貧しく乏しいだけであって、それ自体に感情は入っていない。しかし、「貧困」は「困っている」のだ。「困っているけど、大好き」などというのは、高度なラブコメで用いられる状態であって、普通はつながらない。
「困窮」にしたってそうだ。「窮している」のだ。「窮」の文字の力は貧や乏や困よりもあまりに強い。なにって、見た目が。
「貧乏」の実例
東海林さだおには庶民の目がある。コンビニができる前からその目で社会を見てきた。コンビニができても見ている。こんなエピソードがあった。コンビニでおでんの話だ。
オジサンはレジ係を見た。
女子高生のバイトのようだ。
それを見たオジサンはもう半杯、おツユを容器に入れた。
おとなしそうな人だったからだ。
おでん四品はとっくにおツユの中に水没している。明らかに良識の域を超えている。
オジサンはおでん四品、おツユタプタプの容器をレジに差し出した。
レジ係は容器を受けとり、容器の中をしばらくの間じっと見つめていた。
オジサンはドキリとした。
「いよいよセコムか」
翌日の日刊ゲンダイに、
「中年男、コンビニでバイトの女子高生のバイトをおどし、おでんのツユを大量に持ち去る」
というような記事が出るのだろうか。
いろいろの事情でいまどきセルフでおでんを入れるコンビニもないような気がするが、それも時代か。それはそうと、まあこんな細かく、せこい話が「貧乏」の話だ。
せこいといえばこれはどうだろうか。
歯を磨こうとしていた。
歯磨きのチューブを何気なく押すと歯ブラシの上に4センチほどが出てしまった。
明らかに出し過ぎである。
2センチは余計に出ている。
何とかならないか。
このときの残念な思いは思いのほか強い。
一度チューブから出た歯磨きは絶対に元に戻すことはできないことは誰もが知っている。
それなのに「何とかならないか」と思ったところがせこい。
「何とかならないか」と2秒ほど迷ったのだが、その2秒がせこい。
2秒迷ったのち、どうにもならないことがわかり、
「ま、いいや、たまには贅沢に使ってみるか」
と、その4️⃣センチをそのまま使ったのだが、2センチだけ余分の歯磨きを「贅沢」ととらえたところがせこい。
せこい、と気がついたところがせこい。
このくらいになると、なんとなく令和にも通用しそうな話じゃないのか。そんなふうにも思う。
このくらいの小さな話になると、なにやら普遍性みたいなものがあるんじゃないのか。さすがに「本当に貧しくて困っている人は歯磨きなんか使えないのだ! ケシカラン!」という人は……いるかもしれない。「風呂キャンセル界隈」のように、「歯磨きキャンセル界隈」などと論じられるかもしれない。
不適切にもほどがある
そうだ、いまどきは、コンプライアンスというのか、マナーというのか、ネットを舞台にしたマナー戦争の時代でもある。この令和において、「牛丼屋の紅生姜はどのくらい食べていいのか」などは、無駄に炎上して止まらない話題かと思う。冷静な判断ができる人なら、「今日は紅生姜たくさん食べたくなったから、こんなに盛っちゃったんだよね」とかいって、SNSに画像をアップすることはないだろう。自ら燃えて注目を浴びたいというなら別だが。
「この世にタダのものなど一つもない」
と思っている人は多いかも知れない。ショージ君はこんなことを言い始めてしまう。炎上の予感だ。
こういう人はロマンのない人である。
この世にタダのものは存在するのである。
牛丼屋の紅生姜がタダである。
立ち食いそば屋の刻みネギがタダである。
さっぽろラーメン屋のおろし生にんにくがタダである。
紅生姜と刻みネギと、おろし生にんにくの存在をもって、この世にロマンはあるとする理論は多少の無理があるかもしれない。
もう、この時点でアウトの匂いが強い。牛丼屋の紅生姜はタダといってよいのか? という話になると、もう「ロマン」とか茶化しても受け入れられない。
ぼくはどういうわけか、こうしたタダのものを眼前にすると興奮するたちである。
冷静ではいられなくなる。
まず「より多く確保」という精神が芽生え、次に「この状況の中で損をしてはならない」という思いが胸中を駆けめぐる。
当然中腰になる。
もともとがタダのものであるから、損をするということは考えられないのだが、
「タダの限界ギリギリまで確保しなければ損をするぞ」
と思ってしまうのである。
「もし損をしたらどうしよう」
と思い、もしそうなったら、
「大変なことになる」
と思ってしまうのである。
して、ここまできたらもう炎上確実に違いない。みんな冷静ではいられなくなる。中腰でレスバの準備を始める。今はそういう時代だ。
べつにおれは「昔はよかった」と言いたいわけではない。ただ、「時代は変わった」というだけなのだ。ショージ君を読んで育ったおれも、今現在この文章を読むと、「大丈夫か?」と心配したくなってくる。
20年前はもう昭和じゃなかった
昭和と現在の間に「平成」もある。いまから20年以上前だろうか、学生かニートだったおれは、たまに2chを読むこともあった。あるとき、ふと漫画に関する板を見ていて、東海林さだおのスレを見つけた。
どんなことが書いてあるかといえば、「いまどきサラリーマン漫画で寿司屋が出てくること自体おかしい」、「東海林さだおは成功者だから庶民目線で何か描くのは無理がある」といった非難であった。
おれは東海林さだおの崇拝者なので、「なんだそれは」と思って、スレを閉じた。だが、一方でそれはとても気になる指摘でもあった。だからいまでも覚えていて、こう書いている。
たしかに、おれが子供のころに読んだ東海林さだおのコラムや、サラリーマン4コマは、古い昭和のものだった。まあ、そのころも昭和だったが、おれが読んでいたのはさらにさかのぼって昭和40年代、50年代のものが多かったかと思う。
そのころの昭和サラリーマンと平成のサラリーマンには価値観の断絶がある。あったのかもしれない。そのことについて、おれははっきりわかっていなかったのだ。昭和の時代の牛丼屋と、デフレ時代の牛丼屋。そしていま、インフレ傾向にありつつ収入が増えていないなかでの牛丼屋。シンプルなオリジナルの牛丼自体は変化していないのに、それを見る目は変化している。
さきほど、読んでいて心配になってくると感じたおれもまた、変化してしまった。立ち返ってみてわかることもある。
ただ、金持ちの世界はわからんよな
ただ、あれだ、「貧乏」と「貧困」の違い、変化はわかっても、おれは金持ちになったことはないから、金持ちの世界はわからない。回らない寿司屋、といった陳腐化した言い回しをするが、そんなところに入ったことは45年生きてきて一度もない。
寿司屋のオヤジというものは、もともと客を馬鹿にしようと待ち構えているものなのである。
特に高級な店のオヤジがそうだ。
〝客を馬鹿にして何十年〟というオヤジが、何とかして客を馬鹿にしようと、手ぐすね引いて待ち構えているのだ。
客のほうは、(寿司屋で何とか馬鹿にされまい。何とか恥をかかずにすましたい)と思って、いろいろ勉強して出かけて行くのだが、それはムダなことだ。
何しろテキは、〝この道ひとすじ。客を馬鹿にして何十年〟というその道のプロなのだ。
こんなのを読むと、「そうなのだろうな」と思ってしまう。寿司屋のカウンターでどう注文すればいいのか。もっとも、おれは回る寿司にもいかないので、いまどきのタッチパネル注文の仕方も自信ないが。
なぜ人は、寿司屋でおびえ、緊張し、店主を敬い奉ったりするのであろうか。
その理由はただ一つ、寿司の値段が高いからである。
あさましい話ではないか。
あさましい世相ではないか。
金権主義、金至上主義が、寿司屋にまで及んでいるだけの話なのだ。
これは令和でも通用するんじゃないのかな。してもよくないか。いや、おれが貧乏、いや、貧困なだけだろうか。そこのところはよくわからない。妬み、僻みだろうと言われると、たんにそうなのかもしれない。
とはいえ、寿司の正しい食べ方なんてない。高級店によっても食べる順番や箸で食べるか手で食べるか、言っていることが違うという。
要するにです、寿司はどう食ったっていいのです。
客はヘコヘコする必要は少しもないし、店のオヤジが威張るいわれもないのだ。
ホテルの中の超高級店に行っても、堂々としていればいいのだ。
ヘコヘコじゃなく、ズカズカと入っていって、ドッカリとすわり、
「おう、オヤジ、きょうは何がうまいんだい。一番うまいやつを握ってくれィ」
と言ってやるべきなのだ。
そのあと、どうなるかは責任持たないけどね。
まあ、そうなるだろうな。……とかいう話も、「そもそも街のお寿司屋さんに対する偏見だ」とか、「寿司が高いとかバブル時代の意識を引きずっている」とか言われてしまうのだろうな。
時代が変わっていくことをみんなで書き留めよう
というわけで、久々にショージ君の「貧乏」話を読んでみて、「あ、時代が変わっている」ということを実感した次第。この実感というのは、「あ、炎上するんじゃないのか」みたいなセンサーが働いた実感だ。
とはいえ、時代が変わったことについて言及できるのは、余程の研究家か、さもなければ実際にその時代を生きて、変化を感じた当事者だろう。おれも少し長く生きた。昭和、平成、令和。1970年代から2020年代。おれより若いひとは、東海林さだおが書いたことに面白みを感じないかもしれない。そもそもなにを語っているのか理解不能かもしれない。
でも、おれには面白かったこともわかるし、令和には通用しないかもしれないこともわかる。だから、そのことをちょっと書き留めたくなった。令和には「貧乏」がなくなっていた。
若い人に昔のことをわかってくれとか、そういう時代に育ったのだから、中高年の不適切さを許してくれとも言わない。
ただ、こんなふうに気づいたことがあったら、ちょっとどこかネットに放流してほしい。平成に育った人間から見た令和も、またおれとは違う光景なのだろう。おれはそれを知りたい。もちろん、昔の話も知りたい。江戸から明治になったりしたら、その変化はすごいものだったりする。
というわけで、研究者は文書から、われわれは生活のなかから「逝きし世の面影」を書き留めよう。そしてネットに流そう。ひょっとしたら、百年残るかもしれない。もっとも、それが炎上しても、どうなるかは責任持たないけどね。
【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :Towfiqu barbhuiya