大切なものの喪失と残されたものの再生を描く
——「ある朝、くまは ないていました。なかよしのことりが、しんでしまったのです。」親友のことりをなくした深い悲しみから、家にとじこもるようになったくまだったが……。大切な存在の喪失を受け入れ、少しずつ前を向くようになっていく「くま」のすがたを丁寧に綴った絵本『くまとやまねこ』(河出書房新社)。湯本香樹実さんの静かでやさしい文と酒井駒子さんのやわらかなモノトーンの絵が胸を打つ本書は、2008年の刊行から16年が経った今も、幅広い世代の読者から共感を得ている。
『くまとやまねこ』を書き出した日のことは、今もよく覚えています。夜中にいつも仕事しているデスクに座ってパソコンを立ち上げ、すぐに「ある朝、くまは ないていました。なかよしのことりが、しんでしまったのです。」という最初の一節を書いていました。そこでしばらくぼんやり考えていたんですが、あとは一気に、その晩のうちに最後まで書きました。最初の1行が、物語を連れてきてくれたのだと思います。ちょっと肌寒く感じる部屋に手もとを照らしていたスタンドの灯り……今でもそのときの空気の感じまで思い出すことができるんですよ。
——「ことりの死」に打ちのめされるくまに、森のどうぶつたちは「つらいんだろうけど、わすれなくちゃ」と善意から声をかける。「くらくしめきった部屋」にひたすら閉じこもるくまの姿は、失った存在の大きさと残されたものの痛みを読者に追体験させてくれるようだ。
「悲しみ」は、その人だけの個人的なもの。「悲しみのかたち」も「心のなかで流れる時間」も人によって違うから、無理に忘れようとしたり周囲に合わせたりしなくてもいいんです。とはいえ、自分でも自分の気持ちが分からなくなってしまうこともある。大切な存在を失ったとき、茫然自失して自分の深い悲しみに気づかず、感情に蓋をしてしまうのはよくあることです。その人自身が、「自分はこんなに悲しいんだ、今悲しんでいるのは当然のことなのだ」と気づいたときに、再生への一歩が始まるのではないかと思うのです。
自分自身が深い悲しみの状態にあるときには、自分の内面と外にある世界があたかも切り離されてしまったようになる。五感が鈍ったり、動けなくなったり。
私はそんなとき、何か一日一つでいいから、「外側」にあるものの世話をするようにしているんです。植木に水をあげるとか、少しだけ片づけるとか、お風呂に入って自分の「外側」の手入れをするとか。渦中にいるときはなかなか難しいけど、自分の「内」と「外」を意識しはじめると、必ずいつか両者がつながるようになる——その日を信じて待っていればいいと思うのです。
くまのなかでゆっくりと流れる時の経過は、酒井駒子さんの素晴らしい絵によっても表現されています。白黒の世界だからこそ、読者が自由に心のなかで色を付けることができて、想像を膨らませてくれる。制作中は、酒井さんの絵を見ながら、余分なことばを削っては別のことばをさがし、修正を重ねていきました。
眠れなくなった時期、河川敷の風景に癒やされた
——ある日、ふと窓を開けてみて、太陽の光や草のにおいをはこぶ風を感じたくまは、外に出て「世界の美しさ」を再発見する。湯本さんも絵本のくまと同じような経験をしたことがあるという。
90年代半ばから2000年代はじめにかけて、すごく気持ちが落ち込んでいた時期がありました。最初のきっかけは阪神・淡路大震災でしたが、その後も地下鉄サリン事件をはじめ陰惨な事件が続いて、身の回りでも悲しい出来事や知らせが多かった。信じていた世界が壊れていくという危機感がある一方で、「やっぱり思ったとおりこんなことになってしまった。でも自分は何もできなかった」という無力感があり、これがとても大きかったです。
私の親は高度経済成長期の恩恵を享受した世代でしたが、思春期の頃からそういう親とのあいだに軋轢があったこともあり、いよいよバブルが弾けて「これからはもっと社会全体が一人ひとりの内面世界を大切にしていく方向になるはずだ」と信じていました。そんなとき、「人の心」に対するアプローチの危うさ、社会が荒んでいく光景を目の当たりにして、自分は全く甘かったのだと思ったし、「行き着くところは、結局こうだったのか」という失望がとりわけ深かったのです。
なんだかどんどん眠れなくなっていったとき、ふと、河川敷に行ってみようかな、と思いつきました。子ども時代はよく遊んでいたものの、そこに向かうのは数十年ぶりでした。夕方に歩いていったら、空が大きく広がっていて、草のみどりが目に染みるようだった。久々に深呼吸することができました。それから毎日夕方に1時間、河川敷を歩くようになったんです。絵本のくまが、窓の外に広がる自然に新鮮な驚きを覚え、何かに誘われるように歩いていったのとまったく同じ、不思議な体験でしたね。
私が心身の不調から抜け出すきっかけは「子ども時代に遊んだ河川敷を歩くこと」でしたが、やはり鍵となるのは「その人自身の記憶と深く結びつくもの」ではないでしょうか。人を支えてくれるのは、心に残るさまざまな記憶なのではないかと思っています。
記憶を呼び起こすやまねこのバイオリン
——くまが立ち直るもう一つのきっかけとなったのが「やまねこ」の存在だ。喪失感に苦しむくまにそっと寄り添い、くまとことりのためにバイオリンを奏でるやまねこ。やさしいバイオリンの音色を聴いて、くまはことりとの楽しい記憶の数々を思い出していく。
私にとって、記憶と結びつく大きな要素の一つが「音楽」です。立ち上がろうとするとき、力になるその人自身の記憶を呼び起こすのが、風景やにおい、音、味覚……外からの働きかけなんです。「内」と「外」、両方の力が必要なのだと感じています。
やまねこは、野性的で何にも属さない、独立した存在の象徴です。私は、どんな人の心のなかにも、「やまねこ」的な領域があるんじゃないかと思います。誰かと誰かが出会うときは、そのやまねこ同士で「どんなやつかな」と判断して、気に入らないと避けたり、面白いと感じて仲良くなったりしているのではないかなと。心のなかのやまねこ同士が響き合った出会いは、実際、長く続いていますね。
読書が自分の内面と向き合うための道しるべに
——ロングセラー絵本として長く愛されてきた本書だが、2024年はドラマ「海のはじまり」(フジテレビ系)に重要なキーアイテムとして登場。NHKの情報番組でも『くまとやまねこ』をテーマに「死」について語り合う読書会の様子が取り上げられ、大きな話題に。多くの新しい読者に親しまれることとなった。
『くまとやまねこ』を出版してから、さまざまな読者の方から感想をいただきました。あらためて感じたのは、誰もがみな自分の大切なものを失いながら生きているのだということ。そうした感想を読ませていただくと、まるで絵本のなかでやまねこが大事にしている「ふるいタンバリンの手のあと」を見るような気持ちになります。
「大切なものの死」を描いた絵本ということもあり、大人の読者のほうが多いかもしれないと思っていましたが、小さな子も含めてさまざまな年齢の方に読んでいただいているようです。『くまとやまねこ』の読書をきっかけに「死について語り合う読書会」が開かれるようになったり、「くまとやまねこ音楽団」のその後を想像して、彼らが各地を巡業する絵を描いてくれた小学生の読者もいると聞いたりして、作者としてはうれしい気持ちでいっぱいです。
実際に、子どもにとっても「死」は意外に身近なところにあるものかもしれません。私が6歳ぐらいとのき、保護したばかりの犬が病気にかかって死んでしまったことがありました。仲良くなる間もない、数カ月ほどの短いつきあいでしたが、朝起きて冷たくなってしまった犬を見ると、喪失感とも悲しみともいえない、訳の分からない感情がどっと湧いてきたのを覚えています。やるせない気持ちを整理するためだったのか、犬に宛てて夢中で手紙を書きました。
自分自身を振り返っても、当時はまだ遠かった「死」について思いを馳せることで、目の前にある世界だけではないことに気づけるようになったという実感があります。子どもは心が破れるような悲しい経験をしても、自分が感じている感情の高ぶりが一体何なのか、分からないことがあると思うんですよね。そうしたときに絵本や本は、「この感情は、きっと悲しいっていうことなんだ」「悲しいときは悲しんでもいいんだ」と、自分の内面と向き合うための道しるべのようなものになる。そんな本を作りたいと思っています。
【好書好日の記事より】
湯本香樹実さん「橋の上で」インタビュー 「その夜」を越すために