少子高齢化に伴う深刻な人手不足と、デジタル化の進展による急激な人余りが同時に起きつつある日本社会。なぜ、「人手不足」と「人余り」という一見矛盾した現象が両立するのか。そうした社会のなかで、価値ある人材としてあり続けるにはどうしたらいいのか。企業再生支援の第一人者で、近刊『ホワイトカラー消滅 私たちは働き方をどう変えるべきか』(NHK出版新書)が話題の冨山和彦氏と、多摩大学サステナビリティ経営研究所所長の堀内勉氏(『読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』著者)が、日本社会でビジネスパーソンがとるべき戦略と「新しい教養」について語る。最終回である3回目は、ホワイトカラーが身に付けるべき「新しい教養」について。

教養の「基礎編」と「応用編」

堀内勉氏(以下、堀内):今日、どうしても冨山さんとお話ししたいことがあるんです。それは、ビジネスパーソンにとっての「新しい教養」についてです。

 「教養」や「リベラルアーツ」という言葉は、かなり手垢(てあか)にまみれているじゃないですか。僕も『読書大全』なんていう、200冊もの本を紹介するガイドを書いているから誤解されてしまうんだけど、「本を読んでいれば、教養が身に付く」と思っている人があまりに多すぎる。だから、ホワイトカラーの人たちが身に付けるべき「新しい教養」について、少し整理したいと思っているんです。

冨山和彦氏(以下、冨山):「本を読んでいれば、教養が身に付く」というのは、確かに間違いですよね。僕は教養には、「基礎編」と「応用編」があると考えています。日本の社会で脆弱になっているのは、基礎編のなかでも「言語」です。簡単にいえば、「読む力・聞く力・話す力・書く力」です。人間は言葉でものを考えますから、思考するためには「文章を読んで書く」ことが本質です。

 でも、本を読む時間がないというのは本当によく聞く話ですよね。書くほうはもっとひどくて、ホワイトカラーの管理職でも、1000字以上の文章をスラスラ書ける人って、ほとんどいないんじゃないかと思うんです。若いときには、稟議(りんぎ)書などをある程度は書いているのですが、偉くなると文章はあまり書かないですから。

 さらに経営に関係するなら経済学と簿記・会計という「経営の言葉」が必要だし、エンジニアリングの世界では数学で表現し数学で思考しますから、数学も言語といえますよね。

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冨山和彦(とやま・かずひこ)氏
IGPIグループ会長、日本共創プラットフォーム(JPiX)代表取締役社長
1960年生まれ。東京大学法学部卒。在学中に司法試験合格。スタンフォード大学でMBA取得。2003年、産業再生機構設立時に参画しCOOに就任。解散後、2007年、経営共創基盤(IGPI)を設立し代表取締役CEO就任。2020年10月よりIGPIグループ会長。2020年、日本共創プラットフォーム(JPiX)を設立し代表取締役社長就任。パナソニックホールディングス社外取締役、メルカリ社外取締役。著書には、『ホワイトカラー消滅 私たちは働き方をどう変えるべきか』(NHK出版新書)ほか多数がある。

堀内:では、ビジネスパーソンにとっての教養の「応用編」はどのようなものになりますか?

冨山:ざっくり言えば「問いを立て」「答えを模索し」「決断する」力です。あくまで「基礎編」をマスターした上で、ケーススタディなどのシミュレーションと実践のなかで、その力は育まれると考えています。

堀内:知識を身体化することが必要だということですね。表層的な知識を得るだけなら、ChatGPTでいい。我々に問われているのは、知識を自分の行動様式や思考様式のレベルまで身体化できるかどうか、つまり「身体知」にできるかどうか。要するに、技能・技芸の問題ですね。

冨山:そもそも「リベラルアーツ」の「arts」は抽象名詞で、日本語に訳すと「技芸、技能、技法」です。教養というのはまさに、身体知ということなんですよね。

身体知となった生きた知識の形成には実践が不可欠

堀内:先ほど「本を読んでいれば、教養が身に付く」というのは間違いだと言いましたが、それでも僕は本を読むことは必要なことだと思っています。ですから『読書大全』では200冊の書評を載せましたし、ただそれぞれの書評を順番に読んでもなぜこのような並びで紹介されているのか分からないと考えて、序章で「学問の構造と本書の構成」を紹介し、「第Ⅰ部」で「宗教と神話」「哲学と思想」「経済と資本主義」に分けて、人類の知の進化の大きな流れをたどることにしました。

冨山:確かに堀内さんの『読書大全』は前半部分がユニークですよね。

堀内:本だって、読んでいるだけでは身に付かない。僕がなんでこれほど書くかといえば、インプットとアウトプットを高速で繰り返さなければ身体知にできないからです。

 さらに身に付けた知識は、ビジネスの現場で実践しなければ役に立ちません。僕が完全に学者の世界に入らず、半分の時間をビジネスに使っているのはそのためです。知識の習得と実践を両方高速で回さないといけない。いわば車の両輪みたいなものです。

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堀内勉(ほりうち・つとむ)氏
多摩大学大学院経営情報学研究科教授、多摩大学サステナビリティ経営研究所所長、一般社団法人100年企業戦略研究所所長
東京大学法学部卒業、ハーバード大学法律大学院修士課程修了、東京大学 Executive Management Program(東大EMP)修了。日本興業銀行(現みずほ銀行)、ゴールドマン・サックス、森ビル・インベストメントマネジメント社長、森ビル取締役専務執行役員兼最高財務責任者(CFO)、アクアイグニス取締役会長等を歴任。現在は、社会変革推進財団評議員、アジアソサエティ・ジャパンセンター理事兼アート委員会共同委員長、田村学園理事・評議員、麻布学園評議員、ボルテックス取締役会長、経済同友会幹事などを務めている。著書に『読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』(日経BP)ほか多数がある。

冨山:音楽やスポーツの修練と一緒ですよね。バンドだったら、学んで聴いて練習して本番に臨む。知識の習得と実践を繰り返すことで、どんどんレベルが上がるわけです。

堀内:学者の先生のなかには、実社会やビジネスのことを単純に批判する人がいます。でも、知の体系が頭に入っていることと、現実のビジネス現場で起こることにどう対処するかは全然違うんです。シャドーボクシングと実際のスパーリングくらい違う。実践で得た痛みとかが、また知識のレベルに還元されるんですよね。ですからその両方をやらないと。

冨山:具体と抽象を行き来することですよね。それが多分、身体化のプロセスだと思うんです。ホワイトカラーが日常で行っている「人をいかに説得するか」に関しても、個別の具体的事象から、人間の行動様式や思考様式を抽象化できるかが大事なんです。抽象化をしておかないと、状況が変わったときに再現できない。

 人はつい、あるところでうまくいったことは、他でもうまくいくと考えてしまうのですが、そうではないのです。そこにはいくつかの条件がある。一つひとつの個別ケースを、実践のなかで抽象化していくことが求められているのです。N(母集団のサイズ)が大きくなれば、どこでも通用する話と、条件が変わると通用しない話の差が見えてきます。

堀内:僕はエグゼクティブ教育やリベラルアーツ・プログラムに来られる皆さんに、こういうところに参加して、本を数冊読んだからといって、「自分は他の人よりちょっとは勉強している」なんて思うのは甘すぎると伝えています。人生の時間はとても限られています。ですから、本当にビジネスパーソンとして一人前になろうとするなら、2人分の人生を生きるくらいの勢いで高速で学習と実践を回さないといけない。そう考えれば、おのずと自分の時間をどう使うべきかが分かってくると思います。

新しい教養に入るのは「宗教観」

堀内:中世では、「リベラルアーツ」と「機械的技術(アルテス・メカニカエ)」の2つは明確に分かれていました。後者は、職人が手で覚える技術、「実学」のことです。知識階級が身に付けるリベラルアーツと職人が身に付けるアルテス・メカニカエでは、大学と職人学校というように、学ぶ場所も違っていました。

 ところが、その時代に比べて自然科学やテクノロジーが格段に進歩した現在、実学の重要性はすごく増していると感じます。テクノロジーが実際に世の中をけん引している。この意味でも、これからのビジネスパーソンが身に付けるべき新しい教養を整理し直したいんですよね。

冨山:ただ、いわゆる昔の実学も現在ではだいぶ言語化されていますから、リベラルアーツとアルテス・メカニカエの境目は、昔ほどの意味がなくなってきたのではないでしょうか。プログラムも言語で動いているし、AIも一種の言語になりました。大谷翔平選手の技術も、ボールの回転数やスピードなどの数値で言語化されています。技術と言語の境目が消え、広い意味ですべてが言語領域に入っていく可能性はあると思います。

 その上で整理すれば、「言語を使って判断する」というところが重要になってくるはずです。ですから、その人の主観が立ち上がる領域についての整理が必要だと感じます。客観的な領域は、どんどんAIに侵食されていきます。ただ、AIは情報を集めるだけですから、最後の判断は人間に残ります。まさに主観力の問題になるわけです。そうなるとやはり、古典とか宗教の世界観に入っていくのかなと。

堀内:世界観を持たずに行動することはできませんからね。僕も、最初はビジネスパーソンにとっての教養という意味では、神や宗教という観念はあまり関係ないと思っていました。でも最近は、こうした社会や個人のベースにある宗教観のようなものがとても重要になってくるのではないかと考えています。もちろんこれは、特定の宗教を信じなさいということを意味するわけではありません。その人を動かす社会学的な意味でのOSに宗教観が深く関わっているということです。

冨山:AIが発達するということは、結局、人間はメタのほうにいかなきゃいけない。つまり、自分の行動をより高い視点から見なくてはいけないということです。低い次元は、どんどんAIに置き換わりますから。となると、神の視点に近づかざるを得ない。

 だから堀内さんの言う通り、宗教観を抜きにはリベラルアーツを語れなくなるかもしれないですね。

堀内:日本人の場合は、自分たちのベースになっている仏教と神道をちゃんと勉強した上で、キリスト教的な世界に臨まないと、自分が何者なのかが分からなくなってしまうかもしれません。西洋哲学の本はだいたいキリスト教的な一神教の世界観で書かれていますが、多くの日本人はそこには立脚していないですから。そういう意味で、現代的なリベラルアーツには「宗教観」も入ってくると思いますし、仏教を勉強しないで教養を語るのは無理だと思っているので、僕自身も今、仏教の勉強をしています。特に、多くの日本人もある程度理解している大乗仏教よりも前の、初期仏教を学ぶ必要性を感じています。

これからの教養がもたらす「愉快な生き方」とは

堀内:「自灯明(じとうみょう)」という言葉があるじゃないですか。お釈迦様が死ぬときに、弟子から「あなたに死なれたら困ります、我々はこれからどう生きていったらいいんですか?」と問われて、「もうあなたたちは十分に学んだのだから、これからは自分を灯(ともしび)として生きていきなさい」と返した、という。僕は結局、こういうことなんだと思っています。

 この教えを簡単にいうと、「自分の基軸に従って、自分でちゃんと考えて、自分が正しいと思う道を生きなさい」ということですよね。偉くなったとか、金持ちだとか、いい大学に入ったとか、いい会社に入ったとか、関係ないわけですよ。「自灯明」に加えてもう一つ、「法灯明」という言葉もあるのですが、ここでいう「法」というのは「真理」のことです。

 このように、世の中には普遍的な道理があり、そして自分の中に自分の基軸がある。だから、それに従って生きなさい。言われてみれば当たり前のようなことで、本来は誰でも知っているような話なんだけど、周りに翻弄されているうちにそれが見えなくなって右顧左眄(うこさべん)し始めるんですよね。

「自分自身を、自分の人生の灯として生きることが重要」と語る堀内氏
「自分自身を、自分の人生の灯として生きることが重要」と語る堀内氏
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堀内:ただ、自灯明といっても、自分の中に何も灯となるものがなかったら困ることになります。ですから教養が必要だと言っているのです。

冨山:教養がないと、「俺のルールだからなんでもいい」ってなっちゃう。そうなるとますます、選択肢を創造し、決断する力が求められることになり、「相手に気に入られるにはどうするか」は意味がなくなってくるんですよね。

堀内:「自灯明」や「法灯明」だけでなく、キリスト教のような強い律法宗教に比べて、仏教には「自分で納得して決めていける範囲」というのが広いんだと思います。特に初期仏教においては。そして、その自分なりのルールを構築するための一つのツールとして、本がありますよという話ですよね。繰り返しになりますが、ただ本さえ読んでいれば教養が身に付く、なんでも解決できるということではない。

冨山:そのレベルの本物かどうかっていうのは、実践に移してみないと分からないですよね。本物であれば実践したときに結構気分がいい。なんかいい感じだし、愉快だと思います。

堀内:スポーツもそうじゃないですか。野球の理論書を一生懸命読んで、ボールが時速何キロだとか何回転しているとかの分析をいくらしてみたところで、結局は自分で何度も実践してみてうまくいったと思えるかどうか。

冨山:だから実践とセットなんです、必ず。仕事も同じで、自分とは本当はフィットしていない世界観で仕事をしているときは大体不愉快ですよ。いつもshall(すべき)とcan(できる)だけに縛られてしまう。will(したい)の議論の心地よさはないですよね。

堀内:本当にそう思います。心の状態はすぐに体にあらわれるし、自分が思っていることと違うことを言っている人は表情がゆがみますよね。人間の体は非常に精密にできているんで、ちょっと心の迷いとかがあると表情とかに出ちゃう。

冨山:たった1度の人生ですから、やっぱり愉快に生きていたいですよね。

(構成/黒坂真由子、撮影/尾関祐治)