Mr.TOYODA AS A “GQ JAPAN” REPORTER

GQ記者・豊田章男、ものづくりを考える──第1回 山本耀司(ファッション・デザイナー)

レクサスCBOであり、トヨタ自動車CEOの豊田章男が『GQ JAPAN』の記者として各界のキーパーソンにインタビュー。モノづくりとはどうあるべきか、トップを走る男たちの本音を引き出す。不定期連載第1回はファッション界の“生きる伝説”、山本耀司が登場。
GQ記者・豊田章男、ものづくりを考える──第1回 山本耀司(ファッション・デザイナー)

Photos: Yoshiyuki Nagatomo @ aosora
Text: Kosuke Kawakami @ GQ

「叩かれれば叩かれるほど、嬉しかった。」

彼は、言う。「もっと自分を刺激したい」。日本最大の企業のトップは、自らのCBO(チーフ・ブランディング・オフィサー)の仕事を「レクサスをチェックする“最後のフィルター”」と考えている。そのフィルターとしての機能を磨くために、様々な人と出会い、話を聞きたいのだという。その最初のインタビュー相手に選ばれたのは、ファッション・デザイナーの山本耀司。ファッションの価値観を破壊、構築してきた日本を代表するクリエーターだ。東京・天王洲エリアにあるヨウジヤマモトのアトリエに足を運んだ豊田は、仕事場を見学し、山本の愛車、日産セドリックを運転。クルマ談義で意気投合してから、インタビューがスタートした。

豊田 私は男の服は、作業服とレーシングスーツだけでいいとうそぶいていた男で、ファッションについて真剣に考えたことがなかったんです。でも最近になって、周りから「社長がカッコよくなれば、会社もカッコよくなる」と言われ、もっと気をつかうべきだな、と思うようになりました。それで最初に行ったのが、ニューヨークのY-3の店だったんです。

山本 何をお買いになったんですか?

豊田 キャップとブルゾンでした。だから、こうしてお会いできるのに、何かとても縁を感じています。今日、山本さんに最初にお訊きしたかったのは、なぜパリ・コレクションにこだわり続けているのかということです。私の場合、世界でもっとも厳しく危険なコースであるドイツのニュルブルクリンクで毎年行われる24時間耐久レースに出続けています。商品の最終評価者たる自分に磨きをかけるためです。山本さんにとってのパリコレは、ひょっとしたら私にとってのニュルブルクリンクのようなものかな、と思ったりするのですが……。世界に挑み続ける姿勢というか。

山本 フランスには、絵画であれ、音楽であれ、芸術的な才能のある人間は人種を問わず応援するという伝統があります。ファッション、いわゆるモードにおいてもそうです。それに現代のファッションの歴史をつくってきたココ・シャネルもイブ・サン・ローランもクリスチャン・ディオールもみんなフランス人。彼らは、他の国の人間にはない何かを持っていると感じていました。

“ジャパニーズ”ではなく、名前で呼ばれるようになりたかった
雑然とした山本のアトリエでインタビューは行われた。初めて会ったとは思えないほど、話が噛み合い熱いトークを繰り広げた2人。世界の頂点を見てきた男たちだけの世界がそこにはある。

豊田 確かにファッションといえばフランスという印象は、私にもあります。

山本 パリコレに行くようになってから2年目くらいにはもう、日本人独特の美意識だと思っていた“もののあはれ”や“間の美学”といった感覚をフランス人が理解していると感じて驚きました。パリなら自分の感性を理解してくれそうだと思いましたね。

豊田 パリコレは、特別なんですね。

山本 世界中のファッションジャーナリストとバイヤーが集まる、いわばオリンピックみたいなものですね(笑)。そのなかで戦うのは心地いいし、そこで叩かれるのもまた気持ちいい。叩かれれば叩かれるほど嬉しくなってきます。2年目には、新聞にコム デ ギャルソンと一緒に写真を並べられて大きな×印をつけられたんです。しかもその上にアルファベットで「SAYONARA」と書かれていた。そこまでやられると本当に頑張れますよ(笑)。

豊田 そこまでやられたんですか。

山本 フランス人は、自分たちが一番だと思っていますからね。特に僕たちは2人で出て行ったから従来の価値観を壊す“軍隊”みたいに思われたのかもしれません。最初の頃は、7割叩かれて3割褒められる感じでした。

豊田 私も社長になった頃は、ボンボンだの3代目だのワガママだのと叩かれました。まあ、全部あたってはいるんですが(笑)、それでも落ち込みましたね。叩かれて気持ちいいなんて思ったことはありません。

山本 最初の頃は、名前で呼ばれなかった。ずっと「ジャパニーズ」でしたね。で、しばらくしたら「ザ・ジャパニーズ」。そのことへの怒りがモチベーションになりましたね。いつかちゃんと名前で呼ばれるようになろうと思っていました。

豊田 そんな時代もあったんですね。

山本 でもその頃のほうが良かった。戦う相手がいましたからね。パリコレに出るようになって10年も経つと、マイスターとかマエストロとか呼ばれるようになり、何をやっても褒められるわけです。何に反抗していいか分からなくなってしまった。それが40歳代のころですね。思うように服がつくれなくて、バンド活動ばかりしていました。私の場合、叩かれないと成長できないんですよ。

山本の案内でアトリエを見学する豊田CBO。多くのミシンやアイロンが並び、たくさんの生地やサンプルで埋め尽くされ、多くのスタッフが動き回るその場所を、豊田は「クルマの工場と同じようで親近感を感じる」と評した。

豊田 そのガッツの源は何なのでしょう?

山本 戦争未亡人の一人息子として貧しい環境で育ったことが原点ですね。ミシンの音とアイロンの匂いのなかで、一所懸命働いている母親を通して世間を見ていました。そこから反骨心が生まれたんだと思います。

豊田 私の曽祖父の豊田佐吉と一緒ですね。寝る間も惜しんで機織りをしている母親を楽にさせたいという佐吉の思いが、トヨタ自動車の原点です。だから豊田家では、「親孝行だけは忘れるな」というのが家訓のようになっているんです。

山本 そうは言っても私の場合、いい子にしていたのは高校生までで、大学に入って以降は、好きに生きてきました。大学は慶應義塾だったんですが、周りにいるのが2代目とか3代目ばかりで、みんな豪邸で暮らして将来も約束されている。あまりにもスタートラインが違うから、社会に出る気がまったくなくなったんです。しばらくはバックパッカーとして世界を放浪していました。

豊田 デザイナーになられたのは、どういうきっかけだったんですか。

山本 とにかく就職しないでモラトリアムを続けたくて、そのためにはどうしたらいいかを考えた。そこで思いついたのが、母親の洋裁店を手伝うことでした。母にそう言ったら「何のために大学まで出したと思ってるんだ」って怒られました。

豊田 お母様は、本当は嬉しかったんじゃないですか?

山本 いや、本気で怒っていました。2週間、口をきいてもらえませんでしたから(笑)。でもそのあと、「ちゃんとやる気があるのなら、お針子さんにバカにされないように最低限の技術は身につけてこい」っていわれて、文化服装学院に入るわけです。社会に出たくない僕にとって、また学校に入るっていうのは、願ってもないことでした(笑)。学校に入った頃は、ファッション・デザイナーという仕事があるということすら知りませんでしたけど。

YOHJI YAMAMOTO FALL/WINTER 2015-16
体の線や脚を出すことが女性のセクシーではない

豊田 そうだったんですね。では、最初はお母様の洋裁店で働いていたんですね。

山本 そうです。その頃、身につけた技術がいまも役立っています。だいたい洋裁店に来る女性というのは、腹が出ていたり、背中が丸まっていたりで、モデルみたいな体型の人はいない(笑)。そういう女性のための服を6年間つくったことは、すごく勉強になりました。

豊田 山本さんのデザインの原点もそこにあるわけですね。

山本 そうなりますね。西洋の伝統的な美意識だと、女性の服というのはコルセットで腰を締めて、胸をふわっとふくらませて、手足を小さく見せるべきなんです。僕はそんなのはイヤだと思って、なるべく男性っぽい服を女性に着せたいと思いました。たとえば、トレンチコートは、もともと軍服として作られた兵隊のための服ですが、その大きなトレンチコートに華奢な女性が入っているのが美しいしセクシーなんですね。最近は、ボディコンシャスだったり、脚を出したりすることがセクシーだと勘違いしている人が多過ぎます。

豊田 勉強になります。同じことがクルマのデザインにもいえるかもしれませんね。走りの機能性だけを追い求めたデザインがいいとはかぎらないし、反対に、無理にセクシーさを出そうとするデザインもダメなんでしょうね。考えさせられます。今日、山本さんの会社を見学させていただいて、ファッションとクルマには、意外と共通点があるなと思いました。たとえば、このアトリエには、いい意味で工場の匂いがある。もっとオシャレなところなのかなと思っていたんですが、モノづくりの基本である人間の手の感覚やワザを大事にしていて、自動車の工場と同じような硬派な印象を受けました。

山本 どんなに優秀な機械が導入されても、やっぱり最後は指先の感覚がものを言います。モノづくりって結局、人の指先から始まるんじゃないでしょうか。

豊田 クルマもそうなんです。自動車工場というと、オートメーションでどんどんつくるイメージがあるかと思いますが、ネジを締めるのも最後は人間の感覚です。私はいつも、クルマをつくると同時に人をつくる会社でなければならないと言っているんです。企業秘密かもしれませんが、山本さんの会社ではどのような人材育成を行っているんですか?

1980s 1984 Yohji Yamamoto Hommeファーストコレクション(秋冬1984-1985)を、パリのrue Saint Martinに構えるショールームで発表。世界のメンズファッション界に衝撃を与える
1990s 1991 1991年にはYohji Yamamoto POUR HOMMEとCOMME des GARÇONS HOMME PLUSのジョイント・ショー「6.1 THE MEN」を開催。奇跡のコラボレーションが業界関係者の度肝を抜いた
2000s 2001 Yohji Yamamoto Femme秋冬2001-2002 コレクションではadidasをテーマとして扱い、スニーカーをコラボレート。この協業から2年後の2002年、山本耀司はadidasのクリエイティブ・ディレクターに就任し、「Y-3」が誕生する
2000s~2010s 2010 2010年4月1日、国立代々木競技場第二体育館で「THE MEN 4.1 2010 TOKYO」を発表。東京でのメンズ・コレクションは「6.1 THE MEN」以来、19年ぶりのことだった
2010s 2013 パリのアトリエで80年代に誕生した幻のラインが、時代を超え、2013年に新たなコンセプトで蘇ったアクセサリーブランド「GOTHIC YOHJI YAMAMOTO」。ゴシックの典型的なモチーフをシルバーアクセサリーやTシャツといったベーシックアイテムのデザインに落とし込みつつ、“不変的であり続ける”ことを表現している注目の存在。WOLF DAGGER PENDANT ¥58,000(ヨウジヤマモト プレスルーム Tel.

山本 秘密なんて何もないですよ。服には、どういう人生を生きているか、その人間の生き様がすべて出る。つまらない女性と付き合っていると、それが服に出るし、家と会社の往復しかしていない人間からは、新しいものは生まれません。だから社員たちには、無理をしてでも旅行をして、いろんな経験をしてこいって言っています。

豊田 山本さん一人ですべてができるわけではないですからね。

山本 人に任せているからこその、面白さもあります。たまにパタンナーからこっちがのけぞるような素晴らしい服を見せられることがありますが、そういうときは本当に嬉しい。まさに神様から贈られるギフトのような服。当たり前のことなんですが、このギフトは頑張っている人間にしか降りてこない。僕はそれを待ち、逃さないように捕まえるんです。

豊田 クルマの場合、本当に評価されるのは20年後どうなのか、ということなんです。だから私の場合、製品として出す期限のギリギリ、最後の1秒まで、ベターなものを追い求めるようにしています。モノづくりにベスト、満点はない。それでもとにかくベターを重ねていこうと。だから出来上がったクルマを僕は褒めないんですね。褒めたらそこで止まりますから。常に、最後の最後まで魂を入れていく。そうすれば、20年後にも何かが残っているんじゃないか、と。

1年前につくった服がすごく売れることが怖い
1. 山本の愛車、80年代の日産セドリックを運転する豊田。このクルマを運転するのは、30年以上ぶりだとか。

山本 ギリギリまでこだわるのは、私もまったく同じですね。日本でどんなによく見えても、パリの光の下だとまったく違うように見えることもある。そうなると、ショーの直前まで手直しや変更を重ねます。クルマと大きく違うのは、ファッションブランドは、2シーズン連続して失敗すると潰れるということですね。でも僕の場合、あまりにも売れるのも怖いんです。うちのブランドの場合、今シーズンはすごい勢いで売れているんですが、それが怖い。というのも、その服をつくったのは1年前で、今の僕はそこにはもういないわけです。そこにズレがあるからちょっと気持ち悪いですね。これからどうすればいいかと、少し悩んでいます。

豊田 数字が評価になるのは怖いですよね。僕の場合、業績が上がるのは社員のおかげだと思っています。自分の仕事は、結果が出なかったときに、その責任を負うこと。トヨタは一時期、クルマではなく、お金をつくる会社になってしまって、おかしくなったことがあります。だから私は、必要以上に数字を追い求めず、きちんとクルマをつくり、人をつくることを考えるようにしています。

山本 私からひとつ質問してもいいですか?

豊田 もちろんです。

山本 年に5、6回中国に行くんですが、最近青空を見ることがほとんどありません。自動車には、排ガスがつきものです。そのことについて、どんなふうに考えていますか?

豊田 トヨタ自動車が初めてハイブリッド車を発売してから15年が経ちました。日本ではだいぶ一般化してきましたが、世界の自動車に占める割合は、まだ2%にしか過ぎません。昨年末には、水素の燃料電池車「MIRAI」を発売しましたが、普及にはまだまだ時間がかかるでしょう。それでも環境を守るためのチャレンジは続けていかなければならないと思っています。MIRAIは、開発のスタートから発売まで22年かかりました。新しい技術の開発は一朝一夕にできるものではありませんが、未来のための準備は続けていきます。

山本 実は、ファッションも環境問題と無縁ではありません。私は黒を多く使いますが、この黒を染めるには毒性の物質を排出せざるをえない。そこに痛みを感じるんです。

豊田 すべてをいきなり変えるのは、無理でしょうが、いいことをマキシマイズして、よくないことをミニマイズしていく。そして現実から目を逸らさずに、声を上げ続けることが大事だと思いますね。

山本 そうですね。この痛みを忘れないようにしなければならないと思っています。いずれにしても、今日お会いして、章男さんが人気のある理由がわかったような気がしました。僕のまわりには、じつは章男さんのファンが多いんです。「あの人、かわいい」って(笑)。

豊田 かわいい!? でも、意外とオバサマたちには人気があると言われたりします(笑)。

山本 若いモデルの女の子からも聞きますよ。

豊田 ぜひ今度ご紹介ください(笑)。

山本 かしこまりました!

GQ第1回の取材を終えて

世界トップランナーの方へのインタビュー企画の話を『GQ JAPAN』よりいただいてから、取材当日が来るのをずっと心待ちにしておりました。私はTOYOTAやLEXUSの商品(クルマ)が世に出る前の最後の砦として、自分のセンサーを磨くことをいつも強く意識しています。このセンサーをこれからどのように発展させていくべきかを考えながら、自分を新しい刺激にさらす必要があると近頃思っていたところでした。今回はファッションデザイン界で戦っておられる山本耀司さんに直接お会いして、自分自身も新たなステージにチャレンジしていきたい、そのためのヒントを掴みたいという気持ちでインタビューに取り組ませていただきました。

私にとって最も大きかったのは、山本耀司さんのお人柄に本音で迫れたことです。耀司さんによるアトリエのご紹介、愛車のお披露目、そして本番のインタビュー、すべてを通して耀司さんには気さくに接していただき、前から知っているような親しみを感じながら心が通じる会話ができましたが、これこそ山本耀司さんのやさしさ溢れるお人柄だと感じ、たいへん感銘を受けました。

また、違う業界に属するものの、同じ戦う者として勇気づけられましたし、大先輩である耀司さんが今なおパリコレに挑み続けるモチベーションから多くの気づきと学びをいただきました。「大きなトレンチコートを小さな女性が着るのがセクシー」「その人の生き様がデザインに出てくる」といった耀司さんとの会話は奥が深く、モノづくりに携わる者としていま一度噛み締めたい言葉として私の胸に突き刺さりました。今回得られた刺激を私のデザインの考え方や商品に反映し、お客様によりよい体験をお届けできるよう、いいクルマづくりに今まで以上に磨きをかけてまいります。

仕事柄、新しいクルマや未発表のクルマを運転する機会が多いのですが、今回は燿司さんの愛車である80年代のセドリックを運転させていただきました。自分がむかし教習所で運転した思い出のクルマに再会するというめぐり合わせはたいへん感慨深く、新しいクルマにはない気づきがたくさんありました。耀司さんだからこそいただけたこの機会を大切にしながら、またいつの日か一緒にドライブして愛車談議を繰り広げられることを楽しみにしています。

2015年4月

『GQ』記者
レクサスインターナショナル
チーフブランディングオフィサー
マスタードライバー

山本耀司
ファッション・デザイナー
1943年生まれ。慶應義塾大学法学部、文化服装学院卒業後、72年にワイズ設立。81年にパリ・コレデビュー。フランス芸術文化勲章のオフィシエを受章したほか、2008年にはロンドン芸術大学より名誉博士号を、11年、フランス芸術文化勲章の最高位であるコマンドゥールを叙勲される。

豊田章男
レクサスインターナショナルCBO(チーフ ブランディング オフィサー)
1956年生まれ、愛知県出身。慶應義塾大学法学部卒業後、米バブソン大学大学院にてMBA取得。投資銀行勤務を経て、84年にトヨタ自動車に入社。2009年、代表取締役社長に就任。2013年より、レクサスインターナショナルのCBOおよびマスタードライバーを兼任する。