- 坂口安吾『安吾探偵事件帖』
- 坂口安吾『不連続殺人事件 附・安吾探偵とそのライヴァルたち』
- 大田洋子『屍の街』
- 清水克行『室町は今日もハードボイルド』
- 仙田学「また次の夜に」(「文學界」2024.10月号)
- 川勝徳重『痩我慢の説』
- ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』
坂口安吾『安吾探偵事件帖』
帝銀事件、下山事件、金閣寺放火やチャタレイ裁判など現実の事件について書いたものと、探偵小説についてのものという独自の観点で集められた安吾のエッセイ集。編集方針が面白いし、事件評が文学、政治の問題へと発展していくところになるほど安吾だとなる。「帝銀事件を論ず」は、戦後すぐの十何人もを毒殺した陰惨な事件について、戦中に幾つもの死体を目の当たりにした現実の荒廃・戦争を犯人に見出し、事件の推理をするのかと思えば文学とは何か、政治とは何かを論じる文章で、のっけからこれはスケールが違うぞ、と感じさせられる。
下山事件の推理から、人間は孤独に陥った時が最も好色になるものだと書いたり、金閣寺放火犯の文章の観念性について、人間どうしても思うように考えを文章に出来るものではないと指摘し、単に金閣寺に住んでいたから金閣寺に放火したという即物性を見ようとする。その金閣寺放火についての文章が中国の洪水なんかの巨大さを例に出して金閣寺などたいしたものではないといい、珍しい生き物の保全よりもダム開発のほうが人間の文化に資するものだという実用的態度を明確にするところは安吾らしい。安吾は原子力発電も賛成しそう。
私は精神病者であったゲーテやニイチェやドストエフスキーの作品ばかり読んだり引用したりしているのが、おかしいと思うのである。一番平凡人を書いた人、健全な平凡人の平凡でまた異常な所業を書いた人、チエホフをなぜ精読しないのだろう。本当の人間を書いた人はチエホフであろう。人間の平凡さをこれぐらい平易に描破した人はないが、見方を変えれば、あらゆる平凡人がみんなキチガイで異常性格だと彼は語っているようなものだ。チエホフは古今最高の人間通であろう。環境をきりはなして人間はあり得ないものだ。150P
安吾の探偵小説観は基本、理知的なパズルとしての娯楽というもので、そのために人間性を歪めてはならないこと、超人的推理に偏りすぎて平凡な手がかりを黙殺していること、そして探偵が知っている犯人確定に至る手がかりはきちんと読者にも知らされていることを求めている。探偵小説という犯人当てパズルにおいて正しく読者が答えを導き出すためにも人間性を歪めてはならないというロジックが安吾の事件評のなかで「人間」を重視していることと通じるものがあるのは面白い。横溝正史を高く評価しつつ、小栗虫太郎を強く批判しているのが安吾のスタンスだ。
元来、推理小説は、高度のパズルの遊戯であるから、各方面の最高の知識人に理知的な高級娯楽として愛好されるのが自然であって、最も高級な読者のあるべき性質のものであるが、日本に於ては、推理小説でなく、怪奇小説であったために、探偵小説の読者は極めて幼稚低俗であったのである。258P
「娯楽奉仕の心構え」はこれもまた安吾らしいエッセイで面白い。
日本文学は自らの思想性が低いから、戯作性とか娯楽性を許容すると自ら尊厳が維持しきれない。日本文学者の多くの人々に戯作性が拒否せられるのはそのせいだと私は思う。思想が深く、苦悩が深ければそれに応じて物語も複雑となり、筋に起伏波瀾がなければ表現しきれなくなるから、益々高度の戯作性、話術の妙を必要とする。日本の文学者は多く思想が貧困であり、魂の苦悩が低いから、戯作性もいらない上に、戯作者を自覚する誇りも持つことができないのである。296P
人々が私を文学者でなく、単なる戯作者、娯楽文学作者だときめつけても、私は一向に腹をたてない。人々の休養娯楽に奉仕し、真実ある人々が私の奉仕を喜んでくれる限り、私はそれだけでも私の人生は意味があり人の役に立ってよかったと思う。もとより私は、さらに悩める魂の友となることを切に欲しているのだけれども、その悲しい希いが果されず、単なる娯楽奉仕者であったにしても、それだけでも私の生存に誇りをもって生きていられる。誇るべき男子一生の仕事じゃないか。303P
「男子一生の仕事」、四迷の文学は男子一生の仕事にあらず、を踏まえているのだろうか。
探偵小説エッセイで笑ったのは以下。
「古墳殺人事件」
これは、ひどすぎるよ。私にこれを読めという、宝石の記者は、まさに、こんなものを人に読ませるなんて、罪悪、犯罪ですよ。罰金をよこしなさい。罰金をよこさないと訴えるよ。273P
「まさに」の差し込み方とかとてもいい。
「推理小説論」はこう始まる。「日本の探偵作家の間に、探偵小説芸術論という一風潮があって、ドストエフスキーは探偵小説だというような説があるが、こういうのを暴論と称する」、文学は人間を追究するから犯罪や戦争にも当然行き着くものであって、犯罪は探偵小説の専売ではなく、読者の興趣を惹くために小説家は探偵小説作家以上に探偵小説的技法を身につけているもので、ひるがえって「推理小説というものは推理をたのしむ小説で、芸術などと無縁である方がむしろ上質品だ」とパズル性を称揚する。
しかし、日本には、探偵小説はあったが、推理小説は殆どなかった。277P
小栗虫太郎などを挙げつつ「終戦前の探偵文壇は怪奇趣味で、この傾向は今日も残り、推理小説はすくないのである。」と整理しつつ探偵小説史をさらっている。「一頭地をぬく大天才」とクリスティーを評価し、クイーンも挙げつつ横溝正史を世界ベスト5くらいに評価していて興味深い。クリスティー『吹雪の山荘』として言及されているのは現在『シタフォードの秘密』という題らしく、ちょっと興味が出て来た。
坂口安吾『不連続殺人事件 附・安吾探偵とそのライヴァルたち』
純文学作家による本格推理小説として知られた作品に、その誕生のきっかけとなった平野謙、大井広介、荒正人らとの推理小説の犯人当てゲームをめぐる当事者の回想や座談などを組み込んで作品がいかに生まれたかを丸ごと収めた一冊。『不連続殺人事件』は幾度も再刊されてきた有名作で私は今回初めて読んで作品自体はなるほどこういうのかという感じだったんだけれど、付録と合わせて読むことで安吾をめぐる戦前戦後の文学者たちのありようが見てとれてかなり面白く、一作を通じて戦後文学の一断面を描いている。出てくる警部の名前が「平野雄高」や「荒広介」など、平野謙、埴谷雄高、荒正人、大井広介という戦前の「現代文学」同人やその他の人をもじっていてこれらはゲームの参加者だった。
そもそもそのメンツとの「犯人当てゲーム」で好成績を残せず忸怩たる思いをした安吾が見返すために書いたようなところがあることや、出てくる作家たちにも石川淳や宇野千代などモデルがいることもわかり、仲間との趣味が高じてその流れで身内をネタに推理小説を書くというアマチュアらしさがある。戦時下で雑誌が潰されたり酒の配給もなくなったり、窮乏するなかで文芸同人たちが暇つぶしに徹夜をしながら推理小説を推理パートだけちぎってまわし読みをして解答案を作成するというゲームを幾度となく開催して競い合いっていたという。
『不連続殺人事件』には皆が木を隠すには森の中というチェスタトンの一節を引いて褒める戦後風俗を背景にしたトリックがあるけれども、それに応えるように本書の編集によって『不連続殺人事件』が生まれた背景が当事者たちの証言によって浮かび上がっていてそれがとても面白い。ある作品と生まれた背景がこうもはっきりと跡づけられる文章が一つにまとまっているのは珍しい。当事者たちの証言、江戸川乱歩による賞賛、乱歩大井荒らによる座談会などのみならず、年譜にも細かな情報が多く詰め込まれていて多大な労力を費やした編集の見事さが一番の読みどころだろう。
若き「文学者たちの青春」という作品が生まれた熱気ごとパッケージングしえた貴重な一冊。前月に出た安吾の事件記や推理小説論のエッセイ集と併せて読むと面白い。一定の間隔で置かれた挑発的な「附記」が面白くて適当なことを言った作家をバシバシ斬っていて、手持ちの角川文庫版にはないのはやはりもったいない。
犯人当てゲームでは戦後に参加した埴谷雄高が相当好成績を残したらしく、平野謙に花田清輝と並ぶ戦後の「二大怪物だろう」なんて言われたりしている。大井広介は安吾の実名小説「真珠」の記述が事実と逆で、安吾が一番成績が悪かった、と書いていて、他でも安吾はあまり当ててないと散々な言われよう。大井は犯人当てについてある独自ルールを持っていたため、安吾が君にだけは絶対当てられない探偵小説を書いた、と言われたときから○○なのは見当がついた、と書かれてるのが本当に笑ってしまう。
安吾が探偵クラブ作家賞を取ったけど授賞式に来なかったのは嫌われてるのかなと乱歩が書いたら、大井から葉書があり、安吾は探偵小説で賞を取ったことを大井に自慢していて、賞をもらったこともなかったからとても喜んだ、でも照れ屋だから式には出なかったんだというのは人柄がよく出てて非常に良い。
大井広介の実名は麻生で、今も話題になるあの麻生鉱山の一族。荒正人らに麻生鉱山での仕事をまわしていたという話が出てくる。戦後文学のある面を支えたのが麻生鉱山だというのは植民地主義と文学の関係として面白い。戦時下平野謙が情報局にいたときに起草した原稿を東條英機が読んだという話も。
平野と植谷を合成したところの平野雄高警部なる人物をつくり、当時の荒、平野対中野重治の「政治と文学」論争において荒、平野の二人が「下司のカングリ」と中野重治から呼ばれたことを援用して、その警部の綽名を「カングリ警部」とする 414P
と埴谷が書いていて、由来はそこか、と。
坂口安吾が心の底から楽しんで毎号書きつづけ、親しい推理好きの仲間達に悪戯っぽく挑戦したあげくその大半に対し見事勝利をおさめたのは、千駄谷の大井広介邸にはじまり吉祥寺の私宅にまでひきつづいた犯人当てのゲームの頂点の最後を深夜の中空高い花火のごとく華麗に飾ったものとしてまことに記念すべき出来事であったといわねばならない。416-7P
角川文庫版の法月綸太郎の解説、本格推理の合理性とファルス論での不合理性がほぼ同じ使われ方をしている、という面白い指摘がある。
安吾の探偵小説論とファルス論は、ジャンル論としてそっくりな構造を備えており、執筆時期が隔たっているにもかかわらず、双方に共通の表現が頻出します。極論すれば「合理」と「不合理」という言葉を入れ替えるだけで、ほとんど同じ内容になってしまうようなものです。角川文庫版314P
大田洋子『屍の街』
今夏に読んだ原爆文学。1903年生まれの戦前既に映画化された作品もある作家が、広島の妹の家にいた時に原爆によって被災し、妹や母とともに数日間さまよい、玖島に落ち着きを得るまでを記したルポルタージュ。直後の静けさと、爆風を生き延びた後にも原爆症の不安が続く様子が描かれる。なんのために自分たちの身のまわりが一瞬の間にこんなに変ってしまったのか、少しもわからなかった。空襲ではないかも知れない。もっとちがうこと、戦争に関わりのない、たとえば世界の終るとき起るという、あの、子供のときに読んだ読物の、地球の崩壊なのかも知れない。
あたりは静かにしんとしていた。(新聞では、「一瞬の間に阿鼻叫喚の巷と化した」と書いていたけれども、それは書いた人の既成観念であって、じっさいは人も草木も一度に皆死んだのかと思うほど気味悪い静寂さがおそったのだった。)60-61P
このようであっても、阿鼻叫喚はどこからも起らなかった。酸鼻という言葉もあてはまらなかった。それは誰もがだまっているからでもあった。兵隊たちもだんまりで、痛いとも熱いとも云わないし、怖ろしかったとも云わないのだった。見る間に広い河原は負傷者で充満した。67P
家の二階で被災し何が起きたのかも分からず、その後の異様な静けさについて著者は注意を促している。前日にも電話を借りにいった佐伯綾子という友人は幾度も言及されるけれどもいっさい消息が分からず、その家はずっと静かだとあり、この消失・空虚・不在の怖ろしさが印象的だ。
広島の川は美しい。眠くなるような美しさである。高低のない広い土地に、眠ったように青く横たわっていて、はっきりした流れも見えないし、気持のいい意識の音もきこえず、やさしいせせらぎを眺めることもできなかった。雪がふって凍るような冬の日にも、その川を見ていると眠くなりそうだった。50P
また一瞬のことだったので自分がどれだけ傷が深いかを血で染まった服を見て気づいたり、後になって鏡を見たりしてようやく分かるように、混乱した状況では自分の傷もまた見えない。これは生き延びた後の放射能によるダメージがどう現われるか不明瞭な、見えない恐怖にも通じる。子供たちが「天に焼かれる」と表現しているのを書き手は聞き取る。誰もが見た「青い閃光」を、ある子供は活動写真が始まったのだと思ったという。誰もが上半身裸でうろついていて、河原に集まった人々も日が経つごとに次々と死んでいく陰惨な屍の積み上がる光景を体験者の目から描いていく。
話を交わしたものの名前を聞き忘れた少年が亡くなり、日ごとに遺体が痛んでいく様子を観察したり、病院に行く途中の道には病院に頭を向けて死屍累々の様だったりと、淡々とした地獄の様相が書き留められている。この非常な出来事は何なのかが語りを駆動してもいくことになる。
私どもはこの日の出来ごとを戦争と思うことは出来なかった。戦争の形態ではなく、一方的に、強烈な力で押しつぶされているのだった。そのうえ日本人同士はべつに互いを力づけ合うわけでもなぐさめ合うわけでもなく、なんにも云わないでおとなしくしているのだった。73P
昨日の朝、私たちは暫く墓地でぼうっとしていた時、なにかを待っていたような気がする。非常に秩序立った行動を期待してなにものかを待ちあぐねていたのである。私どもは長いあいだ自主性をうしなっていた。つまり空襲のあった際は自主は不道徳となり、思惟は邪魔なものであって、私どもはあやつり人形のように、指導者の指図を待ってうごきはじめる仕組になっていた。88P
静けさの印象はこうした戦時下日本人の主体性の問題へも繋がるものとしてある。
原子爆弾を征服するのも世界の誰かが考えるだろう。原子爆弾を負かすものが出来ても、戦争は出来るにちがいないけれども、それはもう戦争ではない。いっさいを無に還す破壊である。破壊されなくては進歩しない人類の悲劇のうえに、いまはすでに革命のときが来ている。破壊されなくても進歩するよりほか平和への道はないと思える。今度の敗北こそは、日本をほんとうの平和にするためのものであってほしい。
私がさまざまな苦痛のうちにこの一冊の書を書く意味はそれなのだ。179P
鋭い針は平和へ向って、急速につきさされているかに思える。しかし、日本の土と人間は、日本人のものであって、誰のものともなり得ない。悲劇とも思え、幸福とも思えるのはそのためであろうか。
日本人の多くは民主主義がなんであるかよく知らないと思われるけれど、日本の土と人間の復活、というよりも旧い皮膚の剥脱によって新しい人間像を創り出すためには、民主主義の土を切りひらくよりないと思うのである。207P
語り手の聞いたこととして、原爆症では火傷のものは死なず、無傷のものが死ぬという逆転現象がある。ある程度の火傷が「放射性物質を虚脱する」可能性が言及されており、皮膚が剥がれ落ちたり火傷での分泌物が排泄を促すという。怪しい説だけれど、上掲引用の「皮膚の剥脱」が指しているのはこれだろう。火傷で剥がれ落ちた皮膚の下から、死なない新しい民主主義の日本を、という希望が原爆症の話と絡んで語られているのは痛ましいけれどもそうでもなければ、という絶望とない交ぜになったものがある。
私が読んだのは本作単独で刊行されている平和文庫版でこれが一番安価で手に入るけれど解説などはなく簡単な年譜があるのみだ。文芸文庫は品切れ高価で、小鳥遊書房からは作品集も出ている。集英社文庫の「戦争×文学」の該当巻にも収録されているからこれが一番入手はしやすいかも知れない。
清水克行『室町は今日もハードボイルド』
中世史家による、室町の社会を時事問題と重ねつつ軽めの調子で語る「小説新潮」連載の歴史エッセイ。16の章で当時の実例を挙げつつ中世社会の特質を自力救済原則、呪術的な信仰の篤さ、社会における多層的多元的な実態の三要素において浮かび上がらせる。著者の本は『喧嘩両成敗の誕生』や『日本神判史』を読んだことがあり、それぞれ中世社会の諍いの収め方から法意識や神仏観念を取り出すような社会史になっていて、本書も歴史的に有名な人物などがほぼ出てこない、社会史入門と言って良い著作になっている。中世、特に戦国時代末期は幕府法、公家法、荘園の法、村の法など、さまざまな法律が上下関係を必ずしも明確でない状態で乱立しており、日本史上もっとも分権と分散が進行していた「アナーキーな時代」だったと著者は言う。そのため、暴力による自力救済も悪いことだとは思われていなかった、と。
海賊が勝手に関所を設けて暴力によって通行税を取ったりしているのはそれはそれで安定した社会ではあっても時折虐殺事件が起こったりもするというまさに無法な事例を紹介したり、悪口、職業意識、人身売買、改元、不倫相手を殺す習俗、切腹、落書き、呪い、荘園さまざまな切り口で書かれている。
「士農工商」は、中国の古典に由来する言葉で、本来の意味は「あらゆる職業の人」とか「全国民」といったものなのである。その順番には何の上下関係もない。江戸幕府の成立以前から存在する言葉であって、決して江戸幕府の政策スローガンではないのである。63P
と通説を批判したり、罵倒語「タワケ」が「田分け」から来たという説を否定し、古事記にもあるように元々みだらな交わりを示す言葉だったと指摘し、日本語には罵倒語が少ないと言われる通説をいくらか疑っている。個人的には「アヤカシ」が馬鹿者という意味だったのが面白かった。
なかでも一番面白かったのが「枡」の話だった。現代でもSサイズのコーヒーが店によって量が違うことから説き起こし、計量器具として当時の基本だった枡も室町時代にはさまざまな容量が乱立しており、まったく統一されていなかったことが述べられる。ある寺のなかでは17種類の枡が使われておりしかも容量にも三倍の差があったという。一揆の時にも枡が壊されたりと当時非常に象徴的なものでもあった。これは何故かというと、枡とは年貢を納める米を量るもので、領主と百姓との間での年貢量についての契約合意の証しだったからだという。
年貢を納めるときに使う枡は、たんなる「計量器具」という意味合いを超えて、一方では領主と百姓との合意の象徴でもあった。そのため相互の不信が極点に達したとき、百姓たちはまず枡を粉砕するという行為に出る。その瞬間に両者のあいだの貢納をめぐる合意と契約も砕け散ったことになるわけだから、枡の破壊は百姓から領主に突きつけられた強烈な絶縁通告であったともいえるだろう。99P
つまり、それぞれに違う枡が使われているのはそれが計量器具としての形の合意、契約書そのものだからだ。なので当然軽々に平準化できるわけがなかった。統一的基準があるわけでもないけれどもそこここに当事者なりの合意があるという中世社会の特質をよく示す事例だろう。
また「うわなり打ち」という習俗が紹介されている。「後妻打ち」と書くこれは、妻が夫を奪った女性を襲撃し時には殺しにまで至るもので、中世では許容されていたらしい。女性の勇ましさとして語られるけれども、実態は妻か妾かで雲泥の差がある状況でのポジションをめぐる競争なのだ、という。
うわなり打ちの習俗は、この時期に一夫一妻制(実態は一夫一妻多妾制)が成立したのと軌を一にした現象だったのである。だから、うわなり打ちは必ずしも当時の女性の「強さ」の表われではなく、むしろ大局的には「弱い立場」の表われと見るべきなのかも知れない。彼女たちの嫉妬や怒りの方向性は歴史的に形成されたものであって、同性に嫉妬するのが女性の脳の構造に由来するなどというエセ科学の説明は、まったくナンセンスな話なのである。169P
むろん中世のさまざまな暴力の横行は決して肯定できるものではないし、著者には『喧嘩両成敗の誕生』という自力救済の社会が変容していく過程を描いた本もあるけれど、それでも著者が中世の多層的多元的様相に注意を促すのは完全に統一されたシステムというのは危険だと考えるからだ。途中で井上達夫の『世界正義論』から「世界政府は人々を幸せにするか」という議論を参照し、カントの「世界政府は専制の極限形態である」という一節を引きつつ、こう述べている。
著者の述べる「世界政府」の弊害は多岐にわたるが、そのうちの一つに「離脱不可能性」があげられている。邪悪な権力者や無能な為政者が出現したとき、それらが生み出す災厄から逃れるため、人には人間的自由獲得のための最後の方法として、その国家から逃走するという手段が残されている。152P
ここにオルタナティヴなものを考えることの意味もあるだろう。文庫版の追補で著者は中世史家ならば一度は無名な個人の人物史を書いてみたくなるものだということを述べ、アラン・コルバンの『記録を残さなかった男の歴史』を引きあいにしつつ、それを試みているのが面白い。
室町時代の無名の個人を焦点にすると知らない人たちの人間関係が面倒だけれどもちょっとした分量で描く分にはそこまで弊害がないのでなかなか面白く読める。紛争を起こしたり色々ともめ事もありつつ、地侍は荘園の基盤たる百姓たちの利害をもっとも重視しなければならないことを浮き彫りにする。そして彼らの名前に同じ字を持つ子孫と著者が会った経験を語り、史料に残る人々と現在の繋がりを示しているのは面白かった。
仙田学「また次の夜に」(「文學界」2024.10月号)
鬱病を患った果てに自殺した娘を持つシングルマザーが一人になりアルコール依存症となった時に、依存症の自助グループに参加しているナルさんという人と出会い、ともに生活するようになり、少しずつ回復していく様子を描く短篇。回復していく、とはいってもいつまた絶望がフラッシュバックするか、酒を飲んでしまうか、一日一日が綱渡りのようなサバイバルとしての日常のなかでまた一日を生き延びることができたというような日々を細かなディテールによって生々しく描き込んでいく。自助グループにいつしか来なくなってしまった人のことを気にする様子が見えないのはそういう人がしばしばそのまま亡くなってしまっていたりというのが日常だからでもあって、気にしてもどうしようもないことを気にすることもまた負荷になるわけで、死と隣り合わせの日常がそこにある。どうしようもないことが起ったあとの人生を、派手な事件があるわけでもなくただ人と生活を共にしながら生きていく方途を掴んでいく、しかし酒がどこにでもあるようにいつまた絶望と死の底に落ちていくかも分からない緊張感のなかで読むことになる短篇だった。
前作「その子はたち」(「文學界」2023.09)が、一見無神経に踏みこんでくる非定型家族との関係を描いていたのと、今作のルナとナルの関係は似ていて、娘によって裁かれる親というモチーフも似ているけれど、それをより人物を絞ってソリッドに切り詰めて描いたような印象がある。
川勝徳重『痩我慢の説』
石原慎太郎『太陽の季節』と芥川賞を競って破れたという藤枝静男の同名短篇を元に「劇画化」した一冊。戦後、藤枝自身を思わせる医者のもとに現われた若い姪との関係を描く物語。連載で読んだけれども藤枝静男の原作を読んだ上で再読。元が40ページないくらいの短篇を丁寧に肉付けしてて、原作者の別作品から場面を持ってきたり、犬のベティを中心に表現を凝った第三話なんかはほぼ原作にない要素でできていたりと物語性のうちに実験性もあって面白い。写実的な絵柄からシンプルで読みやすいもの、あるいは飼い犬ベティ(原作にはいない)の脱力的な絵など、絵柄の幅も自在で、さらに1950年代の日本の地方都市の風景も描き込まれている。表現ではやはり三話の密度が濃くて、ベティの夢や、ホナミが窓の外を見に行く流れの躍動感も印象的。映画や音楽の具体名を豊富に描き込んで時代感の肉付けをしてるのも面白いところで、鼻唄で歌われる曲や映画、俳優の名前なども全部原作にない。貸本屋で大城のぼるだったかっぽい絵柄の模写があるのも作者の遊びだろうか。五重塔の燃えたくだりも原作にはない。
個人的には今作は幾つかある夜に出歩くシーンが非常に印象的で、空は暗いのに道や人は真っ白く描かれたりするのは電灯の明かりもあって新しい時代の象徴かも知れない。またホナミの家出場面とか前後で夜だと分かるのにそこだけは真っ白に描かれてる箇所も鮮やかだ。
「痩我慢の説」とは、幕府側で戦った榎本武揚や勝海舟がちゃっかり新政府になって出世している様を批判した福澤諭吉の文章のことで、その明治の戦前戦後に対して、昭和の戦後の主人公の旧時代的発想とホナミらの新しい世代との葛藤を、頑固者の己に対する喜劇化を通して描いている。そしてそこに、痩我慢ぶりを描いたこの戦後の小説を70年後に劇画にする作者の姿勢もまた重なってくる。そして痩我慢といいながら作風は新しい世代、これからの時代への希望に満ちた風通しの良い爽やかさがより強調されているようにも思える。
かと思えば原作に比べて笹野の気持ち悪さ・不気味さもパワーアップしていて、酔った時に出てくる笹野の不気味な絵もそうだし、学校に成績を聞きに来た時にフィアンセだと嘘をついたという原作にない一節もあいまって、新時代の影、闇のような底知れなさがある。
一つ気づいたのが、原作の「封建制度は親の敵」が「制度は親の仇」になってて、これはミスだったらしい。
ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』
チェコの作家による長篇第一作の翻訳。古書店で見つけた謎の文字が記された本をきっかけに、古都プラハに存在するもうひとつの街と関わりを持ちはじめる幻想譚。ボルヘス、カルヴィーノを愛好する作者らしく本作もメタ書物的な幻想性がある。単行本版の表紙には街を泳ぐサメが描かれていて、『時間は誰も待ってくれない』で抄訳された二章はまさにその鐘楼でのサメとの格闘を描いた箇所だったりと本作の印象的なパートでもあるけれど、内陸のチェコでは魚介類のイメージは日本よりも幻想性の高いものだとの訳者の指摘が面白い。
他にも、夜の大学で行なわれている謎の講義、道にある円柱の蓋を取り外すと地下には儀式が行なわれている礼拝堂が見える場所や、緑の大理石で出来たどこへ行くとも知れない路面電車、人を乗せて空を飛べるエイ、ジャングルになった図書館などなど幻想的な世界を経巡る冒険譚でもある。カレル橋の彫像に扉が付いていて、内部が小さなヘラジカの飼育所やバーカウンターになっているなど、街のちょっとしたところが異界となっているコミカルな雰囲気もあり、こうした土地に古来から続く異界が共存しているような幻想はヨーロッパの古都ならではのものだろうとも思われる。
図書館で本の捜索依頼をすると探しに出かけた図書館員が失踪してしまい、年に何人もの数に及んでいくら補充しても足りなくなり、失踪した図書館員の追悼の碑が建てられ、そして消えた図書館員は野生化してタムタムを叩いている、とかいうバカ話もまことしやかに語られている。
このもうひとつの街という発想には境界、周縁と中心をめぐる思弁が絡んでいる。境界の向こうにこそ真実があるという話から始まり、もうひとつの街の司祭たちの千年にわたる伝説というのはニセの伝説でしかないという異界のロマンの否定が差し込まれ、そして中心、起源という発想が拒絶される。
どこかで読んだことがあるが、本は別の本のことを扱っているにすぎず、文字もまた別の文字のことを伝えており、本は現実とはまったく関係を持っておらず、むしろ、現実そのものが本である、という。というのも本も言語によって構築されているからだ。178P
奇妙な謎はどういうことかというと、最終的な中心など存在せず、マスクの背後にいかなる顔も隠れてはおらず、伝言ゲームの初めの言葉もなければ、翻訳されるテクストのオリジナルも存在しないということなのじゃ。そう、次々と変化を生み出す、回転し続ける変化というローブでしかない。先住民の街などなく、街という街が無限に連なる鎖でしかなく、 変わりつづける法の波が容赦なく流れていく、終わりも、始まりもない円のようなものだ。187P
探すのを止めた時にのみ見つかる失せ物のような「もうひとつの街」。もうひとつの街の人の言うことがワードサラダみたいに意味が分からない長台詞だったりするところは目が滑るんだけれども、書物の幻想めいてくる後半のところとか良かった。ただ、実地にプラハを歩いたことのある人のほうが楽しめる類の小説だとも思う。
デリダ論もある哲学者でもあり、ボルヘス論の著書もあるという作家で、あとがきに紹介されているなかではボルヘスとカルヴィーノ『見えない都市』オマージュの『五十五の街』が訳されて欲しいな。ササルマン『方形の円』もあるし、『見えない都市』オマージュはいくつあってもいいですからね。