座右の銘は常在ツイッター、@SHARP_JPです。常在ツイッターとは「常にツイッターにいる心構えで事をなせ」と、われわれを諭す格言ですが、私がいま考えたのでぜんぶ嘘です。そんなもんです。
座右の銘は嘘ですが、私はいつも(仕事で)ツイッターにいるわけで「常在ツイッター」というのも、あながち嘘とも言えない気もしてくる。そしていつもツイッターに身を置いていると、やがて見えてくるのは「生きるのがしんどい」という、世間の、みんなの、空気だ。
企業アカウントという性質上、さまざまな人をフォローすることになるから、私のTLは脈絡のない言葉が奔流のように流れる。そうするうちにいつしか私は、「死にたい」という文字列を含んだツイートがいかに多いか、認識するようになった。いまや私は、おどろくほど、ほんとうにおどろくほどたくさんの人が、それぞれの状況でなんらかの生きづらさを抱えているという、確信めいた感覚がある。
仕事がしんどいから死にたい、学校が居づらいから死にたい、家庭がうまくいかないから死にたい、人間関係が器用にこなせず死にたい。理由や場面はさまざまだけど、どれもが切実に生きづらさへ対峙している。
もちろん、死にたいというワードが文字どおり、自死を宣言するほどの重みを背負っているわけでなく、しんどい、つらい、逃げ出したいという気持ちを表現するのに、それがちょうどいいと選ばれている様子もわかる。現代は死にたいという言葉が軽くなった時代、と短絡的に解釈できるかもしれないけど、それでもやっぱり私は、スマホ越しに死にたいという語を目撃するたび、ぜったいに死ぬな、と祈らざるをえない。
まじでみんな、死ぬな。
いまここにある生きづらいという感覚を、死にたいという言葉に乗せて吐き出したい気持ちは、私にもある。具体的な事情であれ、漠然とした気分であれ、その感覚は生々しく想像できるし、だからいまこの瞬間もたくさんの生きづらさが、多くの人の前に立ちふさがっているのだろう。さすがに私も「どうしてこうなってしまったのか」と、つい暗澹たる気持ちになってしまう。
私のお気に入りマンガ(あまいろ 著)
だからこの作品のように、だれかが死にたいと口にする場面も、毎晩どこかで起こっているのでしょう。
現在がしんどくて、その先の未来もしんどいことが想像される日常。振り返ろうが、前を見据えようが、「生きてていいことなんにもないわ」という感慨しか湧き出ない日常。プロセスも、見通しも、絶望とまではいかなくとも、希望の手触りすら見当たらない人に、私は「そのうちいいことあるよ」と安易な言葉をかけることはできない。どうしたらいいか、私もわからない。
ある程度年を重ねると、昔の自分に教えてあげたくなるような、現在と過去の自分を同時にうれしくさせるような素敵なことが、人生の中には起こりえることを知るのだけれど、それはアドバイスというより、ほとんど祈りだ。目の前でしんどさを抱えた人には、ただちに効力をもたらすものではない。だがこの作品では、友人が、ずっと力強い、ロキソニンのような宣言をする。
「私はあなたと焼肉を食べているこの瞬間がとっても楽しい」
現在という時間をもっと微分して、瞬間を感じること。「しんどい現在」を「いまこの瞬間」にまで細かく刻めば、しんどい時間がすべてではないと思えるのではないか。そして友人は、それを相手にアドバイスするのではなく、自分の気持ちを宣言する。しんどさを抱えたあなたと共にする時間が、私には楽しい確かな時間であること。その宣言は、あなたがとらわれている時間から、ほんの少しの解放をもたらす。
過去も未来も見通せないほど現在がしんどいなら、試しに現在をもっと分解してみればいい。ごはんがおいしかったり、お風呂がきもちよかったり、見かけた猫がかわいかったり、目にしたツイートがおもしろかったりするかもしれない。目の前にいる友人は、あなたといることを楽しいと言ってくれるかもしれない。
私たちは他人の抱えたしんどさを解決できるほど万能ではないけど、刹那的に時間をとらえ、自分がいま楽しいと口にすることはできる。マンガの中でしんどい彼女がはたと涙を流したように、それはおどろくほど、生きづらさという病へ薬のように効くのではないか。
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