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Photo: Brian Rea/The New York Times

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ニューヨーク・タイムズ(米国)

ニューヨーク・タイムズ(米国)

Text by Jay Shetty

欲や打算から解放されて、本当の意味で「他者とつながる」恋愛をするにはどうすればいいのだろう──元僧侶の筆者が、自分の経験を振り返りながら綴る。

この記事は、愛をテーマにした米紙「ニューヨーク・タイムズ」の人気コラム「モダン・ラブ」の全訳です。読者が寄稿した物語を、毎週日曜日に独占翻訳でお届けしています。

修行してから社会に帰ると…


10年前のことだ。当時の私は25歳で、もう3年も彼女がいなかったし、そもそも恋愛しようなんて考えもしなかった。その頃の私はヒンドゥー教の僧侶として仕え、瞑想をしたり、経典を勉強したり、インドやヨーロッパ各地を巡り、仲間の僧侶たちと一緒に奉仕していたのだ。

僧侶が禁欲することはよく知られているが、それはただセックスをしないということではない。それは、人と恋愛関係をもってはいけないということを意味する。

僧侶を指すサンスクリット語の「brahmacharyi」の本来の意味は「エネルギーを正しく使うこと」だ。

恋愛や性的なエネルギーが間違っているというわけではない。だが修行を通じて学んだのは、私たちのエネルギーは限られていて、それの向かう先は複数だったり、一つだったりするということ。そしてエネルギーがあちこちに分散すると、勢いや衝撃を作りだすことは難しい。

僧侶として私たちは自分の心を理解し、世界の見方や世界との関わり方を理解することにエネルギーを向けるよう訓練された。自分にとって動機や障害となるものを深く理解することができなければ、忍耐や慈悲の心をもって人生を歩むことは難しいのだ。

こうした自己実現をするうえで注意を逸らすものを、私たちは避けるよう努めた。それはゲームだったり、友達とのパーティーだったり、恋愛だったりする。僧侶になってから一度ロンドンへ帰ったとき、古い友人が言ったものだ。

「前は女を落とすのを手伝ってくれたのに、お前はもう飲みにも行かないし、ナンパもしない。俺たちこれからどうやっていけばいいんだよ」

僧侶になったことで私の生活の中心は大きく変わった。ロンドンで大学生をしていたときは、遠距離恋愛の彼女に時間をかけすぎて授業をほとんど欠席した。禁欲を貫くことで、私はそうした時間を、自分を理解し、心を鎮める能力を身につけるのに使うことができるようになったのだ。

もう一生僧侶でいい。そうも思ったが、やっぱり自分の歩むべき道ではないと判断した。僧院を後にしたとき、私はもう3年もテレビや映画を見ていなかったし、音楽も聞いていなかった。ワールドカップでどの国が優勝したかも知らなかったし、英国の首相が誰かも知らなかった。そしてどうやら、女性の気を惹く方法も忘れていたらしい。

そもそも女性の「気を惹こう」などすべきではない、ということも忘れていた。

僧院を出て数ヵ月、私はすでに恋愛という社会規範を取り戻しつつあり、そして最高の第一印象を与えようと努力しては失敗していた。


心のなかでお辞儀をすること

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