米国でもっとも人気のあるノンフィクション作家といっていいマイケル・ルイス。『マネー・ボール』や『マネー・ショート』は、常に人間の常識行動の裏をかく男たちの肖像を描いてきた。しかし、これらの作品群が、知らず知らずのうちに他人のマネになっていたとしたら──。実は、マイケル・ルイスの新作は、それ自体をテーマにしているのだ。
『マネー・ボール』の続編を断念
10年以上前、マイケル・ルイスはマイナーリーグの若い野球選手たちを取材していた。2003年のベストセラー『マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男』の続編に取り組んでいたのだ。
『マネー・ボール』は、メジャーリーグの貧乏球団、オークランド・アスレチックスのGMであるビリー・ビーンが、選手の評価のために統計学を駆使し、野球というスポーツに革命を起こした方法が描かれている。
「私は、この続編で、野球の革命がいまはどこで起こっているのかを明らかにするつもりだったんです」とルイスは語る。
ルイスは、マイナーリーグの選手たちを2年にわたって取材したが、けっきょく続編が刊行されることはなかった。それまでに、『マネー・ボール』は有名になりすぎていた。170万部以上を売り上げ、このテーマは新味がなくなってきていたのである。
ルイスは、革命がどこで起こっているのかを追跡するのを断念した。そのかわりに、革命がどのようにして始まるのかを探ることにしたのだ。
取材を進めていくうちに、ルイスはエイモス・トベルスキーとダニエル・カーネマンという2人のイスラエル人の心理学者による研究にたどり着いた。彼らの発見は、人間の性質と心の働き方について、長年の常識的見解に異議を唱えるものだった。
「私は、この続編で、野球の革命がいまはどこで起こっているのかを明らかにするつもりだったんです」とルイスは語る。
ルイスは、マイナーリーグの選手たちを2年にわたって取材したが、けっきょく続編が刊行されることはなかった。それまでに、『マネー・ボール』は有名になりすぎていた。170万部以上を売り上げ、このテーマは新味がなくなってきていたのである。
ルイスは、革命がどこで起こっているのかを追跡するのを断念した。そのかわりに、革命がどのようにして始まるのかを探ることにしたのだ。
取材を進めていくうちに、ルイスはエイモス・トベルスキーとダニエル・カーネマンという2人のイスラエル人の心理学者による研究にたどり着いた。彼らの発見は、人間の性質と心の働き方について、長年の常識的見解に異議を唱えるものだった。
ルイスは、新作『The Undoing Project』(未邦訳)で、この2人の風変わりなパートナーシップを、過去に遡って記すことにした。この本は、周りのすべての人間と異なる視点で世界を見ていた、型破りな思想家2人の物語である。
人間の意思決定とは、しばしば非合理的におこなわれるものだ。「人はいかにして決定するのか」についての彼らの一風変わった研究は、プロスポーツだけでなく、軍隊、医学、政治、金融、あるいは公衆衛生など多くの分野に深い示唆を与えてくれる。
行動経済学の覇者、カーネマンとトベルスキー
彼らの研究結果によって、以下のようなことが説明できる。
胃がんの診断に、熟練の医者よりも単純なアルゴリズムのほうがしばしば優れていることがあるのはなぜか?
人間の意思決定とは、しばしば非合理的におこなわれるものだ。「人はいかにして決定するのか」についての彼らの一風変わった研究は、プロスポーツだけでなく、軍隊、医学、政治、金融、あるいは公衆衛生など多くの分野に深い示唆を与えてくれる。
行動経済学の覇者、カーネマンとトベルスキー
彼らの研究結果によって、以下のようなことが説明できる。
胃がんの診断に、熟練の医者よりも単純なアルゴリズムのほうがしばしば優れていることがあるのはなぜか?
金融の専門家の多くが住宅市場崩壊を予測できなかったのはなぜなのか?
プロのバスケットボールチームが大枚をはたいて選手をスカウトしても、失敗するのはなぜなのか?
この研究は、なぜ人間の直感というものが時として思いきり外れるのかを説明してくれるのだ。
2002年、カーネマンはノーベル経済学賞を受賞した。経済学は彼の正式な専攻ではないが、「リスクや不確実性に直面したときに人間がどのように意思決定をするのかを明らかにした」というのが受賞理由だ。
(共同研究者のトベルスキーは、その研究が人工知能にも応用できるかと尋ねられた。だが、自分たちは「自然の愚かさ」を探求することのほうに興味がある、と反論している。トベルスキーは1996年に亡くなった)
プロのバスケットボールチームが大枚をはたいて選手をスカウトしても、失敗するのはなぜなのか?
この研究は、なぜ人間の直感というものが時として思いきり外れるのかを説明してくれるのだ。
2002年、カーネマンはノーベル経済学賞を受賞した。経済学は彼の正式な専攻ではないが、「リスクや不確実性に直面したときに人間がどのように意思決定をするのかを明らかにした」というのが受賞理由だ。
(共同研究者のトベルスキーは、その研究が人工知能にも応用できるかと尋ねられた。だが、自分たちは「自然の愚かさ」を探求することのほうに興味がある、と反論している。トベルスキーは1996年に亡くなった)
カーネマンとトベルスキーの研究を調べはじめたルイスは、豊穣で知的な2人の共同研究について、説得力のある話を知ることになる。
カーネマンとトベルスキーは、自分たちの発見について、どちらがより功績があるかをめぐって言い争いをし、このパートナーシップは、あまりにも早く終わりを迎えてしまったのである──。
「これはラブ・ストーリーなんです」
ルイスは、この秋にマンハッタンで行ったインタビューで述べた。
「素晴らしく強い、豊穣な2人の関係です。2人の子供は『思想』となって生き続けるのです」
金融ジャーナリストがなぜ心理学を?
『The Undoing Project』は2016年12月に発売された。この作品はルイスにとって新たな試みになる。
マイケル・ルイスの人気作品はそのほとんどが、マーケットの動きについて予想外の事柄を暴いていく登場人物による物語である。他の人には見えないものを見ることのできる、風変わりで先見性のある登場人物たちだ。
アスレチックスのビーンだけでない。『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(邦題『世紀の空売り』)における厭世的なヘッジファンド・マネージャーであるマイケル・バーリは、住宅市場の動きに逆らって賭け、財産を築いた。
『The Undoing Project』は心理学を中心に据えている。かつてウォール街で債券セールスマンとして働いた経験のある金融ジャーナリストのルイスにとって、ほとんど何の知識もない分野である。「当然のことながら、おじけづいていましたよ」と彼は語る。
だが、詳しく調べていくうちに、ルイスがこれまで探求してきた多くのテーマは、驚くほどカーネマンとトベルスキーの研究に一致していることがわかったのだ。
マイケル・ルイスの人気作品はそのほとんどが、マーケットの動きについて予想外の事柄を暴いていく登場人物による物語である。他の人には見えないものを見ることのできる、風変わりで先見性のある登場人物たちだ。
アスレチックスのビーンだけでない。『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(邦題『世紀の空売り』)における厭世的なヘッジファンド・マネージャーであるマイケル・バーリは、住宅市場の動きに逆らって賭け、財産を築いた。
『The Undoing Project』は心理学を中心に据えている。かつてウォール街で債券セールスマンとして働いた経験のある金融ジャーナリストのルイスにとって、ほとんど何の知識もない分野である。「当然のことながら、おじけづいていましたよ」と彼は語る。
だが、詳しく調べていくうちに、ルイスがこれまで探求してきた多くのテーマは、驚くほどカーネマンとトベルスキーの研究に一致していることがわかったのだ。
「2人の研究が示すのはこういうことです。野球選手がなぜ誤って評価されてしまうのか? 私が書いた『ブラインド・サイド アメフトがもたらした奇蹟』のマイケル・オアーの価値が人々にわからないのはなぜか? 不動産担保証券が本当は何なのかを誰も知らないのはなぜか?」
遠回しにいえば、カーネマンとトベルスキーの研究はルイスのキャリアにも影響した。
有効なデータよりも自らの直感に頼り、意思決定のときに根本的に非合理的な方法をとってしまう理由を示した彼らの研究は、行動経済学という分野を生み出した。
この学問はハーバード大学の学生だったポール・デポデスタを魅了し、彼は後にスポーツマネジメントの道に進み、ビリー・ビーンのもとで働いたときにプロ野球革命に立ちあった。
2人の研究がなければ『マネー・ボール』は……
遠回しにいえば、カーネマンとトベルスキーの研究はルイスのキャリアにも影響した。
有効なデータよりも自らの直感に頼り、意思決定のときに根本的に非合理的な方法をとってしまう理由を示した彼らの研究は、行動経済学という分野を生み出した。
この学問はハーバード大学の学生だったポール・デポデスタを魅了し、彼は後にスポーツマネジメントの道に進み、ビリー・ビーンのもとで働いたときにプロ野球革命に立ちあった。
2人の研究がなければ『マネー・ボール』は……
「彼らの基礎的な研究がなければ、マイケル・ルイスは『マネー・ボール』を書くことはなかったでしょう」
こう語るのは出版社W. W. Nortonでルイスの担当編集者を務めるスターリング・ローレンスだ。
ルイスが、自分の『マネー・ボール』が、カーネマンとトベルスキーの研究に深く影響されているとはじめて実感したのは、2人の研究と野球におけるデータ革命との関連に言及した2003年の米誌「ニュー・リパブリック」掲載の書評を読んだときのことだ。
ルイスは、2人の研究とそのユニークなパートナーシップに惹かれていった。4年後、彼は勇気を振り絞ってカーネマンに電話をし、会ってくれるよう頼んだ。
いま56歳になるルイスが、誰の前であろうと臆病になることは想像しがたい。ニューオーリンズ生まれのマイケル・ルイスは、プロの選手やコーチだろうが、口の悪いデリバティブ・トレーダーだろうが、はたまたIMFの大物を追いかけようが、どんな状況でも悠々としているタイプのジャーナリストに見える。
こう語るのは出版社W. W. Nortonでルイスの担当編集者を務めるスターリング・ローレンスだ。
ルイスが、自分の『マネー・ボール』が、カーネマンとトベルスキーの研究に深く影響されているとはじめて実感したのは、2人の研究と野球におけるデータ革命との関連に言及した2003年の米誌「ニュー・リパブリック」掲載の書評を読んだときのことだ。
ルイスは、2人の研究とそのユニークなパートナーシップに惹かれていった。4年後、彼は勇気を振り絞ってカーネマンに電話をし、会ってくれるよう頼んだ。
いま56歳になるルイスが、誰の前であろうと臆病になることは想像しがたい。ニューオーリンズ生まれのマイケル・ルイスは、プロの選手やコーチだろうが、口の悪いデリバティブ・トレーダーだろうが、はたまたIMFの大物を追いかけようが、どんな状況でも悠々としているタイプのジャーナリストに見える。
プリンストン大学で美術史を学び、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで修士号を取ったルイスは、ソロモン・ブラザーズで債権セールスマンとして活躍した。
彼は、自らのウォール街での経験を綴った1989年の回顧録『ライアーズ・ポーカー』を書くために退社し、W. W. Nortonの編集者・ローレンスに原稿を売り込んだ。ルイスとローレンスはそれ以降、10冊以上の本を出版している。
マルコム・グラッドウェルも崇拝
多くのノンフィクション作家と違い、ルイスは出版前のアドバンス(前払金)のことを「堕落」と呼んで受け取らない。100万ドル(約1億2000万円)単位のお金をたやすく手に入れることができるにもかかわらずだ。
それどころか、彼は広告費や制作費だけでなく、本の利益までもNortonと折半している。出版社というのは、本の出来さえよければ、もっと働いて金を稼げとけしかけてくるとルイスは言う。
彼は、自らのウォール街での経験を綴った1989年の回顧録『ライアーズ・ポーカー』を書くために退社し、W. W. Nortonの編集者・ローレンスに原稿を売り込んだ。ルイスとローレンスはそれ以降、10冊以上の本を出版している。
マルコム・グラッドウェルも崇拝
多くのノンフィクション作家と違い、ルイスは出版前のアドバンス(前払金)のことを「堕落」と呼んで受け取らない。100万ドル(約1億2000万円)単位のお金をたやすく手に入れることができるにもかかわらずだ。
それどころか、彼は広告費や制作費だけでなく、本の利益までもNortonと折半している。出版社というのは、本の出来さえよければ、もっと働いて金を稼げとけしかけてくるとルイスは言う。
「リスクを取らなければいけないし、その見返りを楽しまなければなりません」とルイスは言った。
「リスクを取らないのは、著者にとって健全なことではないんです」
ルイスの本は累計900万部以上売れており、そのうちの3冊は長編映画となって成功している。今回の新刊『The Undoing Project』の初版部数は50万部近い。
他の作家たちのルイスに対する賞賛は、ほとんど崇拝に近いものだ。「ニューヨーカー」誌の寄稿家、マルコム・グラッドウェルは、こう語る。
「書籍で表現することが信じられないほど難しいテーマに、みずから飛び込んでいくルイスの意欲に、いつも畏敬の念を抱いています。私が、自分自身の殻を破るきっかけになったルイスの本は、1冊や2冊じゃありません」
「リスクを取らないのは、著者にとって健全なことではないんです」
ルイスの本は累計900万部以上売れており、そのうちの3冊は長編映画となって成功している。今回の新刊『The Undoing Project』の初版部数は50万部近い。
他の作家たちのルイスに対する賞賛は、ほとんど崇拝に近いものだ。「ニューヨーカー」誌の寄稿家、マルコム・グラッドウェルは、こう語る。
「書籍で表現することが信じられないほど難しいテーマに、みずから飛び込んでいくルイスの意欲に、いつも畏敬の念を抱いています。私が、自分自身の殻を破るきっかけになったルイスの本は、1冊や2冊じゃありません」
効用理論、プロスペクト理論、そしてヒューリスティックスのような抽象的概念に取り組んだ『The Undoing Project』は、ルイスのこれまでの仕事の中でおそらく最も難解で野心的なものであろう。編集者のローレンスは語る。
カーネマンとの初対面
「この2人の心理学者についての本をどう書けばいいのか私にはわかりませんよ。言えるのは、他の作家の手によるものなら期待できない、ということだけです」
2007年、カリフォルニア州バークレーのカーネマンの自宅で、ルイスとカーネマンはコーヒーを飲みながら会っていた。ルイスもバークレー在住だ。
だがこの時点で、ルイスはカーネマンについての本を書くつもりはなかった。代わりに彼は、カーネマンに本の執筆上のアドバイスをしていた。当時、カーネマンは人間の認識と意思決定に関する理論書を執筆中だったのだ。
ルイスが振り返る。
カーネマンとの初対面
「この2人の心理学者についての本をどう書けばいいのか私にはわかりませんよ。言えるのは、他の作家の手によるものなら期待できない、ということだけです」
2007年、カリフォルニア州バークレーのカーネマンの自宅で、ルイスとカーネマンはコーヒーを飲みながら会っていた。ルイスもバークレー在住だ。
だがこの時点で、ルイスはカーネマンについての本を書くつもりはなかった。代わりに彼は、カーネマンに本の執筆上のアドバイスをしていた。当時、カーネマンは人間の認識と意思決定に関する理論書を執筆中だったのだ。
ルイスが振り返る。
「カーネマンはこう言ったんですよ。『この本は私の名声を台無しにするものだ。なぜこんな本の執筆を引き受けてしまったのかわからないんだよ』。しばらくして、私はカーネマンに伝えたんです。『もしあなたがやらないのであれば、私が何か書きましょうか』と」
8年にわたる取材
だが、カーネマンの出版エージェントはそのアイデアに反対した。2011年、カーネマンはしぶしぶ『ファスト&スロー』という自著を刊行し、約150万部が売れた。
本はベストセラーになった。だがルイスは、物語が完結していないと感じていた。
8年にわたる取材
だが、カーネマンの出版エージェントはそのアイデアに反対した。2011年、カーネマンはしぶしぶ『ファスト&スロー』という自著を刊行し、約150万部が売れた。
本はベストセラーになった。だがルイスは、物語が完結していないと感じていた。
残り: 1655文字 / 全文 : 6650文字
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From New York Times(USA) ニューヨーク・タイムズ(米国)
Text by Alexandra Alter
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