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creconte’s blog

映画感想多め。本・マンガ・ドラマetc.扱う予定。歴史・政治・社会・サスペンス・アングラ・官能等

「泊まれる本屋」でなく「漫喫から家に」来て欲しいw

最近は、「書店絶滅」論争を時に見かけるようになったが、自分は全くと言って良いほど興味がない。

リアル書店」には、恐らくこの10年ほど、もう殆ど世話にならなくなったからだ。

尤も、自分がネットで注文する本は、実際には「リアル書店」から来ているとは承知しているのだが。

とは言え、「お世話になっている」「恩義がある」という感覚を持ちづらいのは、Amazonと同じくポチポチやっているだけだからに他ならぬ。

それは「搾取」と言われればその通りだろうが、こちらではどうにもならない。

システムか書店か、物流全体に廃業してもらうよりどうしようもないのだ。

 

自分が世話になってきたのは「図書館」の方だ。

まあ「詭弁」に過ぎないかもしれないが。でも「街の本屋」とは違う存在なのも、間違いない事実だ。

 

自分がむしろ求めるのは、「漫喫が家になる=漫喫から家に来て欲しい」ということ。

と言っても、漫喫自体も全然10年以上行ってないし、行きたいとすら思ったことはない。

マンガはすっかりkindle派になった。あとは、時に古本+レンコミで補っている。

 

マンガというのは難しくて、「ヒマな時にはバーっと読みたい気分になるが、ずっと部屋にあっても(在庫やスペースとして)邪魔」という性質が強い。

だから、あまり「紙マンガの新刊を買う」という選択に至らないのだ。

 

レンコミも、近所にない上に、たまに利用する店も、満足できるほどのタイトルが揃っているとは言いがたい。

「私設マンガ図書館」みたいのがあれば、そういうのが家に併設されているのが望ましいだろう。

「欲しい時に、ドサっと自分の欲しいタイトルだけを抜き出して、休日や空き時間に集中して読み干す」ことができれば、どれだけ幸福か。

 

「ブックホテル」というのは噂には聞いている。

しかし欲しいのは、「自分だけの漫喫」なのである。w

 ツタヤのサービスも近いと言えば近い…が、やっぱりそうではなく、「タイトルは初めから揃っていて、自分はそこに言って選ぶだけ」であって欲しい。

「自分だけがチョイスした(または自分向けにコンシェルジュが選んでくれた)、マンガ移動図書館」が最適なのかもしれない。

 

「意味ない妄想」だろうか?

結構実現できそうなサービスという気もするが。

既に「本のコンシェルジュ」というのはあるから、それを「個人にカスタマイズした移動図書館」になってくれれば良い、という話(自分の場合マンガだが)。

運営は難しく採算は取れないかもしれないが、「本屋のやる企画」としては面白いかもしれない。

業界関係者が見るとは思えないが、見ていたら是非ご一考を。

 

アシュラ(2013)

当ブログでは恐らく初?のアニメ映画。短編75分と見やすい。

ジョージ秋山原作の映画化、らしい。

ジョージ秋山は名前しか知らなかったのだが。

中世の乱世的な「羅生門」や「もののけ姫」的世界観を描いている。

現代社会の世相を反映しているようなリアリティと、ファンタジーが入り混じっていて妙な気分になった。

 

飢餓の極限状況で産み落とされ、生まれ落ちた時から「人肉食」を強いられたアシュラの荒涼たる「狼人間」的あり様と、坊さん、またワカサという心優しい娘との交流を描く。

詳しくは述べないが、貧困状況下で「望まない妊娠」を強いられて生まれたばかりの赤ちゃんを遺棄する現代日本では、「微妙なリアリティとファンタジー」を感じるシーンから始まった。

 

アシュラのような境遇で、「言葉を本当に覚えられるのか?」というのも素朴な疑問。

「狼人間」的境遇の生い立ちだと、言語発達に著しい遅れや障害を負ってしまうのが常であるため。

 

「捨身飼虎」を見せてくるのかな?と思ったら、そこまででもないが、なかなか衝撃的なシーンもあった。

興味深い実験作なのは間違いない。

 

草の乱(2003)

秩父事件を正面から取り扱った作品。

死刑判決を受けるも、逃亡先の北海道で、死に際に初めて秘し続けた来歴を家族に語り明かす、首謀者の1人井上伝蔵が主人公。

 

秩父事件は、明治期最大の民権運動激化事件という基礎事実以外は何も知らなかった。

松方デフレ政策下で破産(「身代限り」という用語が出てくる)に追い込まれた生糸農家たちが、一部良心的商人や民権運動家などと語らい決起した。

当時の空気感がよく伝わってくる。

 

印象としては、主線は「農民一揆と打ちこわし」であるのだが、決起者たちの意図は「天朝様に敵対する」、即ち共和制を樹立しようという「革命」目的にあったらしい。

(片方で、「天照大神宮」の掛け軸がかけられた一室で、反乱の相談をしていたのがとても面白かった)

「国事犯でなかったのが無念でならん」という伝蔵の言葉が印象的だった。

確かに近世的「一揆・打ちこわし」である一方で、農民たちは鉄砲も手にしてかなり統率された動きをしていた。

片や、警察と没落士族の「抜刀戦」もまだ健在である。

(当時はありがちな)空頼みではあったものの「各地の連動蜂起」というのが本当に可能だったなら、確かにもっと明治政府を脅かすことは出来たかもしれない。

 

主人公緒方直人は非常にハマっている。

義・冷静さ・熱と、それらを兼ね合わせた「厚み」というものを端的に表していた。

エンド・オブ・ホワイトハウス(2013)

今回の映画も、感想パスしようかと思ってしまっていた。

この心境の変化のほうが、自分内部では重要かもしれないが、それはさておき…

時代が大きく変わり過ぎて、「2013当時の米国」というのは、既に想起しづらくなっている。

 

が、「トランプ支持者による米議会占拠」に先駆けていた本作の予言的意味合いの重要性は強調してもし過ぎることはないだろう。

尤も、「海外テロ勢力によるホワイトハウス占拠」とはやはり意義は異なるか。

しかし、本作では、ホワイトハウスに仕掛ける国際テロの(軍事・テロ作戦としての)リアリティに拘っているように感じられた。

自分は軍事マニアではないので、専門的批評はできないのだが。

 

しかし、「???」となったのは、「朝鮮出身の国際テロリストが、米第7艦隊の撤退を要求して、北による半島制圧を目指す」という設定。

発想は面白いと思うが、そうしたテロ勢力は聞いたことがない。

正直言って、複雑な気分になったことは否めない。

これは自分が「東アジア人」である「当事者性」からくる「違和感」(あるいは「不快感」)なのかもしれないが。

 

自分が気づいたのは、東アジアには各種国際紛争は数多くあるが、「国家によるテロリズム」はありこそすれ、(アルカイダに代表されるような)「国際テロリズム」に依拠するという方法論がないというのは特色的である、と考える。

(例外はバリ島のテロだが、あれもムスリムによるテロルだった)

(国家間による外交、または戦争という手段に依っている点では)「遅れている」というべきか、それとも「良識的」と見るべきだろうか。

あるいは単に、「冷戦思考」から抜け出し得ていない自分自身(または「東アジア」という枠組み自体?)が「保守的」なだけなのだろうか。

こうした視点(=ハリウッドのオリエンタリズム批判)は、自分の専門ゆえのコアな視座かもしれないが。

 

自分は吹替で見たのだが、その吹替がたまたまなのかしれないが、翻訳の言葉遣いの汚さが非常に気になった。

テロリストもプロフェッショナルだと、もう少し「プロっぽい」ふるまいを何故か期待している自分もいるのだ。

吹替の問題なのか、実際の「テロリストの下流化(?)」が反映されているのか、映画自体はテロリストの実態を捉えていないのか、はたまた単に自分の「テロリスト像」(?)が実態を捉えてないだけなのだろうか。

微かだが、妙なアヤの存在をそこに感じるのだ。

 

沈黙-サイレンス-(2017)

スコセッシ監督の有名作。

ずっと見たいと思っていたが、大部なのでしばらく見送っていた。

 

見たら見たで、名状しづらい感覚もあり、最初は感想を書くのを見送ろうかとすら思っていた。

が、エンディングに向かって、そのこと(感想の表しづらさ)自体を書き留めておくことが重要だと気づいた。

 

内容自体(言わずと知れた遠藤周作原作。島原の乱直後の、長崎の隠れキリシタンの徹底弾圧)は文句なく面白いし、非常に真剣に、カトリックイエズス会宣教師)と、日本人の宗教対話を扱っていると感じる。

では、何が表しづらいのか。

 

連想した作品がいくつかある。

自分は以前、ハリウッド作品が「アジア物」を描く際の「オリエンタリズム」の問題を別のところで感想としてまとめたことがある。

今回は日本が舞台だけに、ディテール(隠れキリシタンの斬首、火葬等シーン)が気になる部分もあった。

 

何より気になるというか鼻に付くのは、

・宣教師も、日本人も、英語で対話していること

しかも、

・互いの宗教(日本人→カトリック、宣教師→日本の宗教)への理解度が異常に深く、またその言語表現力が傑出していること

である。

 

しかし一方で、また、

・当時の状況(近世の歴史状況、および日本の宗教と宗教史)への、自分自身の無知

も自覚せざるを得ない。

 

自分は、遠藤周作の原作「沈黙」は読んでないが、山田長政を扱った「王国への道」は読んだことがあり、非常に面白かった覚えがある。

(切支丹への拷問シーンは同様に描かれている)

また、別の江戸時代を扱った時代小説の中で、長崎出島の外国人やその知識の流通状況について描かれるのも見た。

ただ、これらはフィクションであり、「歴史状況をどこまで反映しているのか?」を検証していない。

そうである限り、本映画作品に対しても、正確な批評を出せない。それ故の「表しづらさ」ということなのだ。

 

「英語で堪能にやり取りされている」というファンタジー(役人・民衆と、宣教師どうし)があり得ないとしても、特に、「当時、本当に互いの宗教的理解は出来てなかったのか?」は検証すべきだし、その価値がある。

日本史上で、最もキリスト教が盛り上がった時代状況(の一つ)なのは間違いないからだ。

そして、作中で、宣教師が、「日本人が理解しているキリスト教は、我々のそれではない」という鋭い指摘も受け止めざるを得ない。

弾圧された日本の信徒たちは、本当に「殉教者」だったのか。

「彼らは、『誰』のために死んだのか?」という、極めて重大な問いを提起している。

 

自分がもう一つ想起したことがある。

これは自分独自の史論なのだが、日本では、「法華信徒、切支丹、共産党」(いずれも初期段階)では共通性を有している。

いずれも「一神教」的性質を有するが故に、日本の政治権力・宗教的権威を脅かす存在として当局から睨まれ、弾圧される存在たるのである。

しかし、そのうち彼らも「学習」し、「日本社会適合的」な団体へと思想・組織を「改変」していく。

(そうなると、「元の教義はどこに消えたの?」という別の問題提起になるが、それは今は措こう)

 

文脈は違うが、別垢ブログで、共産党弾圧を扱った映画感想を書いたことがある。

「ホモソーシャル」な文脈における「転向」。 - セルフケアと「男性」性

自分は、真正面からではないが「転向」という現象や行為にはやはり興味があり、鶴見俊輔の「転向研究」は、何度も読み返している。

切支丹の場合は「転ぶ」「転ばせ」という言葉が使われる。

 

はっきり言って、自分は当局の側の、民衆心理の理解度や、転向や密告を促す高度かつ狡猾な技術に感服せざるを得ない。

これは、時代が下って、昭和期の共産党弾圧でも全く同じことが言えるのだ。

また、(「同じ権威主義国」の中国やロシアは国土広大で、局所や特定マイノリティの集中弾圧を除けば、広範な抵抗運動への全土の統制は不可能という点で)日本は、「コンパクトだからこその徹底弾圧」が可能な社会なのではないか、ということも思う。

 

一神教」への理解の重要性は、国際環境変化・日本社会のグローバル化に伴い、非常に高まったし、また、昔よりは対外理解度が高まった面もあるだろう。

しかし、今度は、「自己理解」という面ではどうか。

「自己忘却」というよりは、「自己の融解」が見られるのかもしれないが、それはまた(宗教的影響力の弱まる)ヨーロッパの場合も同様だろう。

 

「自分のものとしての宗教性」というのは、どの程度まで有効性の射程が認められるのかは、日本、とりわけ現代の日本社会・日本人には見極め難い。

重要性は「0」になった訳では無論ない。

日本社会・日本の共同体では、「一神教的信念」があったとして、「それはGodに捧げられているものなのか?そうではなく、その固有の共同体、ないしそれを支える権威のためではないのか?」という、極めて根源的な問いを、本作は投げかけてきているのだ。

 

映画「伊豆の踊子」考

こないだ、「伊豆の踊子」(1963)を、「老人の解説付き」で見る、という機会を得た。

この独特の「映画の見方」そのものも含め、非常に示唆の大きな展開だった。

 

そもそも、自分は映画は好きなほうだが、1950-60年代制作の映画は見るどころか、関心を持つこと自体殆どなかった。黒澤映画は例外的と言っていいだろう。

しかし、その「無関心」への「なぜ?」がほぼ明確に掴めた、と感じている。

 

結論から言うと、

・「高度成長」で、日本社会のあり様が一変したこと、自分はその「変化後」の社会しか当然知らず、「変化前」の社会に全く興味が持てなかったこと

・そうでありつつ、実は「高度成長」は、全く日本人の精神面で「近代化」をもたらさない面も大きかったが、それを見えなくしてしまったこと

と整理していいだろう。

その意味で、とても意義深い鑑賞となった。

 

はっきり言うなら、「映画単体」で見ても面白くもなんともなければ、内容もだが、「なぜこれらが映画化されていたのか?」すら理解できなかったはずだ。

「老人の解説」ありきで、初めて、時代背景のみでなく、世代間感覚の差というものが浮かび上がった面も多かった。

 

・主演する若き高橋英樹吉永小百合への「違和感」

 2人とも、面影こそあるものの、イメージ自体が少々異なる。

 ともにまだ経験不十分な若手時代だが、「高度成長前・後」という、両者の活動した社会背景の「推移」を押さえなくては、その「大物」たる意味合いが理解できない、と分かったのだ。

 特に自分は、「吉永小百合がなぜそこまで『大物』なのか?」ということがどうも掴めないままで来ていた。有名な「キューポラのある街」(1962)も「???」となって途中で見るのをやめてしまった記憶もあるくらいだ。

 それほどまでに「遠かった」のである。

 (例外的なのは高倉健だが、彼の出演映画でも、やはり昔になるほど理解できてなかったと言っていいだろう)

 

・文学作品が映画化されていた背景(自身の「映画史」的無知と無関心)

 この時代までは、「文学作品の映画化」は主流の一つだったと思う(が、だからこそ興味がなかったとも言えるのだが)一方、その「なぜ?」というところの問い返しも今までなかったのだ。

 その頃の「文学」のメディア的影響力・圧倒的存在感というものを考慮に入れていなかった。

 

・「旅芸人」に対する差別

 「伊豆の踊子」は、作品名こそ有名で知っていたが、筋書などはまるで知らなかった。

 大学生と、旅芸人の少女の、ひょんな一時旅の道連れ時の淡い恋模様が軸の物語なのだが、「差別される旅芸人」の実態への解説が無ければ、完全に「???」で例の如く途中で観るのをやめていた可能性も高い。「農耕民族の日本人で、定住地を持たない人々」への差別感情の由来というものを解説してもらった訳だ。この物語とは関係ないが、「サンカ」を「日本のジプシー」だと解説されたのもなるほどと思った。

 

・宴会・演芸文化、三味線とリズム感

 本作ではさりげなく描かれているが、日本の「宴会・演芸文化」というもののあり方や由来を考える契機にもなった。

 その音楽性というかリズム感的なものは、恐らく江戸時代に作られたものなのだと思う。

 だから何だ、と言われそうだし、自分でもそう思うのだが。

 知識が不十分な上、自分も「宴会文化」というものに冷淡かつ無関心で、言葉がまだ出てこないのだ。

 言えるのは、「芸能界」とか「芸能」というものへの、ごく近年までの差別的由来を知ることが出来た、ということだ。

 

「老人の解説」は、映画やその背景を理解する上で、誠に示唆に富むものだった。

上述の通り、「高度成長と、日本人・日本社会」の関係性やその有り様を、端的に飲み込める契機になった。

 常日頃、「何で日本人というのは、こうも甘え体質で、精神的に未成熟なんだ?」と感じることが多かった訳だが、それは「経済的豊かさ」「だけ」が、急速に「外付け」で与えられた、という側面が大きかったからだ。

 自分がある史書を読んだ時、歴史学者が、「戦後日本の『経済大国』というのは、最大の『妄想』だったのではないか」と発言していたのには、強い反感を持った覚えがあるが、「このことか」と腹落ちしたのだ。

 

 「老人の解説付きで見る昔の映画」というのは、言わば歴史史料を解説付きで鑑賞するのに似ている部分があるし、そもそも、そうでないと理解できず、受容自体も難しいだろう。

 しかし、その解説がつくことで、初めて扉が開かれることもある。

 重層的な経験の積み重なる「伊豆の踊子」鑑賞であった。

 

春三月縊り残され花に舞う

表題の句は、大杉栄が、大逆事件での幸徳刑死を受けて遺した句という。

「エロス+虐殺」(1970)を観たのだが、エンディングで掲げられていたのがこの句で、この映画自体より、遥かに衝撃的だったので、タイトルに借りさせてもらった。

 

映画自体は、「前衛的」とでもいうのか、「日蔭茶屋事件」(大杉栄が、伊藤野枝・神近市子との三角関係を巡り、神近に刺されて重傷を負った事件)に対して、(「事実的」ではなく)いわば「芸術的」な解釈を行おうとしているのだと思う。

今(=当時、1970年)の若者の男女2人の時空間に野枝が行き交ってきてインタビューを行うなど、映像的には妙に「実験的」な匂いがしてくる。

映画というよりは、舞台向けの設定という印象もある。

 

監督の吉田喜重は「松竹ヌーヴェルバーグ」出身らしい。

ヌーヴェルヴァーグ - Wikipedia

本作で見られる表現手法は「ヌーヴェルバーグ」的なものかもしれない。

だとしたら、まるで興味が持てないが。笑

確かに「実存主義」的ニュアンスが漂ってくるのだが、今の視点からすると、「その頃の文学的厨二病」以外の何物でもなく安っぽい薄っぺらさしか感じない。

ただ、エロティックな美しさを表現したい、との意図は伝わってくるのだが、しかし、大杉虐殺事件をそこに塗り込めてしまっていいの?という率直な疑問も生じてくる。

一方、主演の細川俊之岡田茉莉子双方のビジュアルの美しさ自体が出色であり、それ自体で「持つ」映画である、という特性も忘れてはなるまい。

 

映画自体には辛辣な批評を行わざるを得ないが、素材である大杉たちに対しては、いくつか思うところもあったので、その部分を書き記しておこう。

自分は、さほど大杉は評価してない。

が、あの時代としては、大杉のような存在を生み出すのが関の山だったろう、との感慨もある。

また、幸徳を憎み殺したし、大杉も最期は虐殺したとはいえ、大杉を曲がりなりにもシャバで歩かせていた日本の天皇制政治社会の「限界ある度量」というものも。

 

自分が本作を観ようと思ったのは、どちらかというと、神近市子に対する興味がきっかけだった。

神近市子 - Wikipedia

神近は女性記者であり、大杉刺傷で服役するものの、戦後は政治家として活躍した「女傑」で、本作「エロス+虐殺」上映差し止めを提訴したものの棄却されたという。

 

権威主義社会では、「科学性」のはたらく余地が狭まり、自由の許されるのが「文学」とか「芸術」の世界に次第に絞られていく。

直接的な批判は政治的・社会的に許されず、アナロジーとか象徴性程度の表現しかできなくなるからだ。

大杉栄の「天才性」というのはそうした時代や社会の産物に過ぎないし、日本のアナーキズムというのも、所詮その限定条件を受けて存在したものでしかない。

 

ただ、事実関係そのものや、当時の人間関係などについては、知らないことが殆どというのも確かだ。

甘粕事件で虐殺された6才の子ども(橘宗一)は「大杉の甥」だったのに対し、大杉や、伊藤野枝の子は戦後まで生きていた(野枝と辻潤の子は詩人・画家だった)者がいた。また大杉は、妻堀保子との関係を通じて、堺利彦との姻戚関係(妻どうしが姉妹)にも当たる。

甘粕事件 - Wikipedia

辻まこと - Wikipedia

堀保子 - Wikipedia

この辺りは、左翼にとっては恐らく常識に属するのかもしれないが、どのような人間関係があったのかを知るだけでも堪らなく楽しいのも確かだ。