『ハッカー宣言』なる本の、たいへんにすばらしい解読と、非常にだらしない書評を読んで、やはり白田秀彰は本当にえらいなあとの印象を新たにしたのである。
白田は、このダメな本の問題点をきちんと見て取っているし、またこの本が持ち出す変な構図の中で自分をハッカーの一員として位置づけることのヤバさも十分に理解している。かれの読みは明快で、この一文を読めば実は「ハッカー宣言」なんて本は読む必要がない。
ところが一方のだらしない書評を書いた大学人は……室井尚か。やれやれ。この人は本書を読んで、自分がなにやら新世代の生産者であるとか思いこんで舞い上がってしまっている。実にプロパガンダに踊らされやすい人だ。そして情報がどうしたこうした言いつつ、実はその中身について実にお寒い理解しかないこともよくわかる。以下、褐色部分は引用。
「ハッカー階級とベクトル階級の対立とは、情報を生産する者と本来共有されるべき情報を不当に「私有」し、情報の生産構造を支配しようとする者との対立である。後者は情報を囲い込むことで不当な利益を得ているマイクロソフト社やホリエモンのような人たち」ですと。あのさあ、自分で作ったソフトを売ってもうけるのがなぜ不当なの? マイクロソフトが自分の作ったソフトをどうしようと、それは室井の知ったことじゃない。それが不当なら、世のソフトウェア企業はほとんどすべて不当利益集団だ。さらにマイクロソフトはソースコードを公開してないという点で「情報を囲い込む」といえるだろう。でもホリエモンがどんな情報を囲い込んだというの? さらに、情報を囲い込むことで利益を得ている人なんかたくさんいる。当の室井ですら、著作権により自分の著作の情報を囲い込んでる。知識(たいしたものではなさそうだが)やら技能(前に同じ)を脳内に囲い込んで切り売りすることで(つまり生産構造を支配することで)、大学の教員としてご託をたれてるわけだ。
要するに、ハッカー階級と称する連中だって、しょせんベクトル階級とやらと同じ穴のムジナでしかないのだ。はっきりした質の差があるわけじゃない。ただの程度問題。さらに社会に対する得体の知れない思いこみときたら頭痛がするほど。「金儲けは卑しいものであるという倫理観を取り戻すことは重要である」!! この低級な「倫理」とやらが、ヨーロッパにおけるユダヤ教徒迫害につながり、ポルポト政権下でも商人弾圧・虐殺につながり、最近ではインドネシアにおける華僑迫害をもたらしたという認識は、もちろん室井にあるわけはないが、情けなや。まったく、金儲けが卑しいというんなら、室井は給料や印税返上してごらんよ。「株式市場で利益を生み出している人たちは「何も生産しておらず」単に、「博打打ちの親玉」(by 西垣通)、「剽窃者」にすぎない」!! 株式市場の仕組みもろくにご存じないのだねえ。さらに自分が資本主義の余剰にたかって生かしてもらっている滑稽の一種でしかないという自覚もないのだねえ。たぶんこの「ハッカー宣言」は、何一つ生産せずにご託をたれているだけの学者に「あんたも生産者だ!」と言ってあげて、自分は社会的に無意味な存在じゃないかという口舌の徒にありがちなコンプレックスを慰撫して人気を得ようとしたんじゃないかと思う。そしてそれにまんまとはまった人もいるわけだ。
が、それはここでの本題じゃない。この室井尚は、なにやら大学におけるメディアリテラシーの欠如を嘆いていらっしゃる。それが以下のシロモノだ。
こいつがとんでもないシロモノなので、おもしろいからちょっとつついてみようではないの。まずはざっと読んでほしい。
追記(2007/3/15):その後、室井は本稿で叩かれて、2006 年初頭に上のリンク先の文章を書き換えてしまった。とはいってもその文章の駄目さ加減はいささかも衰えてはおらず、逃げをうとうとしてかえって何を言いたいのかわけわからない文章になっている。原文はこちらで読める(グーグルのキャッシュはこちら。文字化け回避にはエンコーディングをシフトJIS にすること)。
お読みいただけまして? よんでないだろう。まあいい。論旨としては、嫌煙キャンペーンで使われる各種の議論は無根拠でありウソだ、ナチスだ、ということ。大学は真理を探究するところなんだから、そういうのを鵜呑みにして垂れ流しにするようなことを看過してはならない、という。はあはあ、そうかもしれませんなあ。そして、かれが指摘しているねつ造写真の使用や、メークによるイメージ写真の無批判な使用は望ましくないことではある。それだけなら、お説ごもっともというところだ。しかしながら、それに対抗するためにかれのやっていることを見ると、一読してトンデモのオンパレードなのだ。
過去35年間で肺ガンの死亡者数が約10倍になったという数字やグラフは老人人口の増加と、CTなどの医療器具の発達によるガンの発見確率の増加を全く考慮にいれていません。厚生省自身が発表している「人口動態統計」における「年齢調整訂正死亡率」を見ても、肺ガンの増加はほんの僅かであり、ガン死亡率は少しも増えていないことがわかります(図1:省略)。
まずこの文。年齢調整済みだと肺ガンの増加がわずかだ、ガン死亡率は増えてない――それはそうかもしれない(データチェックしてませんが)。でも、それは別に喫煙と肺ガンとが関係ない話にはつながらない。なぜかというと、過去 35 年を見ると日本の喫煙率は下がってるんだもん。そして肺ガン死亡率は喫煙率より数十年遅れて効いてくる。だからいま肺ガン死亡率が変わらなくてもふしぎはないやね。まあ、肺ガンが増えてるといって喫煙者を脅すのは、あまり公正とは言えない。そういうプロパガンダは慎むべきだろう。その意味で、ここだけはとりあえず、室井の論点としてまともでなくもないかもしれないといえなくもない部分ではある。でも、全体の論点とはあまり関係ないのだ。
図 1:日本の喫煙率の推移
そして室井は、どんどん変なことを言い始める。というよりもはや変なことしか言わない。こんな具合。
そもそも、喫煙者人口が劇的に減少している英米などの外国でも、肺ガンの発生率は全く変化せずむしろ増加しています。(中略)恣意的に喫煙者人口の増大と単純な肺ガン死亡者総数のグラフが重ね合わせられているだけで、「タバコ=肺ガン」説は科学的には全く根拠がないのです。
えー、センセイ、ホントですかぁ。少なくともアメリカでは肺ガン(厳密には肺ガン+気管支ガンだが)の年齢調整死亡率はちゃんと減ってる。発生率は見てないけれど、死亡率とそんなに乖離した動きになるはずはない。さらに、喫煙人口と肺ガン死者数を単純に重ねあわせただけって、さすがにそんなバカなことはない。年齢調整済みで見ても、肺ガン、気管支ガンによる死亡率が(しかもこの二つだけが)喫煙と相関してものすごく増え、喫煙減少とともに明らかに減ったのはまったくの事実だ。
データはアメリカガン協会 (ACS) のもの。最新のものがここにある。パワーポイントで重いから pdf 化して関係あるページだけぬいといた。まず部位別のガンの件数(年齢調整済みです)は 6 枚目と7 枚目を見ておくれ。それと、喫煙との相関については 8 枚目(もとのやつだともっと先にある)。どうせものぐさな連中はちゃんとリンク先を開いて確認したりしないだろうから、だから類似のグラフをロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』(邦訳拙訳, 文藝春秋, 2003) p.356 から持ってこよう。というか、ロンボルグのやつはこの ACS/CDC のデータをそのまま使っているので、類似というより同じデータだな。
図 2:アメリカの男女・部位別年齢調整ガン死亡率の推移
出所:ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』p.356, データはACS/CDC
喫煙との相関については、ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』p.357 に出ているグラフのほうが、女性のデータも入っていてわかりやすい。
図 3:アメリカの成人男女別喫煙率と肺・気管支ガン死亡率の推移 (年齢調整済み)
出所:ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』p.357, データはACS/CDC
このくらい見事に相関していると、まあ因果関係を信じたくもなりますわな。喫煙率は、だいたい 30 年くらい遅れて肺ガンによる死亡を引き起こす。男でも、女でも、それは変わらない。日本の男の喫煙率は、30 年前は 7 割以上だったんですな。まあだいたい今くらいが年齢調整済みでピークなんじゃないの? さらに、肺ガンと喫煙との関係についてはいやってほど研究も調査もある。それらをまとめたものとしては、たとえばアメリカの Surgeon General が出してる報告書の 2 章をごらん (pp.42-61. なんか pdf へのリンクが失敗するそうなので、このページからファイルにセーブして読んでくださいな)。 室井は嫌煙派にとって都合の悪い「タバコが子宮体ガン、乳ガンの発生率を逆に低めるというデータ」が隠されてると言うけど、隠されずにちゃんとまとまってますねえ。きわめて小さいか、どっちとも言えないものだから他の害と比べれば特だしするほどのもんじゃないってだけだ (pp. 172-8, 303-23)。というわけでわかること:室井は、メディアリテラシーとか言うくせに、ちゃんとデータや情報源を確認しない。
さらに室井曰く;
たとえば、肺ガンによる死亡率は人口百万人あたり数千人です。ということは、百人あたりに換算すると僅か十分の何人という計算になります。
えーと……なんで百人あたりに換算するんですか? 日本の交通事故の死者数は、人口一億三千万人に対して年に 7,000 人ほど。百人あたりに換算すると、百分の一人以下とかいうオーダーだけれど、でもかなりの費用をかけて交通安全策をとるでしょう。それも解釈のちがいですか。肺ガンで百万あたり数千人も死んでるんなら、それはかなり大した数字でっせ。
つまり、百人中 0.1 人と 0.13 人の差を「多い」と思うか、「たいしたことない」と思うかという「解釈の違い」の中にしか、「タバコの害」の根拠は存在していないのです。
これ読んで、あたしゃ倒れそうになりました。日本の総人口で平均した数字であるなら、百人中 0.1 人と 0.13 人の差は、ものすごい差だ。それが「解釈のちがい」なんかだと思ってるなら、室井はこの手の数字の見方をそもそもご存じない。それは解釈の違いなんかじゃない。解釈の前提となる知識のちがいだ。ちなみに日本の年間総死者数って、100 万人弱。百人あたりわずか 0.8 人弱。自殺も交通事故も病死も他殺もすべてひっくるめてこの数字。これと並べてみたら、ある一つの疾患だけで百人あたりの死亡率が 0.1 人と 0.13 人の差ってのが、どんなに大きいかわかるでしょう。というわけでわかること;室井は、メディアリテラシーとか言うわりには、数字のちゃんとした見方がわかっているとは思えない。
確かに、タバコの成分中約1千万分の5グラム前後のいわゆる「発ガン物質」が含まれていることは知られています。しかし、焼肉や焼き魚の焦げが「発ガン物質」とされているように、ラットなどへの強制摂取実験によって発ガン性があるといわれている「発ガン物質」は他にも数多く知られており、お茶、コーヒー、みそ、醤油、ソース、ワインなど多くの食物にはタバコよりももっと多様で大量の「発ガン物質」が含まれているのです。(中略)つまり、タバコの発ガン性とは他の食品や日常摂取する水道水と比べても遥かに低く、全く問題にするほどのものではないのです。
あのさぁ、発ガン物質って、ミソもクソもいっしょくたにして意味があるのかいな。発ガン物質にも、発ガン性が強いの弱いのいろいろあんの。刺激物はおおむね発ガン物質だけど、その発ガン性のレベルがまったくちがうんだよ。各種食品摂取量とガンのリスクについては、やっぱりロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』p.380 のグラフを見てよ。通常の摂取量だと、レタスはニンジンの 6 倍、コーヒーはレタスの 2.5 倍、アルコールはコーヒーの 360 倍 (!!) くらいガン誘発があって、タバコはそれより遙かに上。というわけでわかること:室井は、発ガン物質といえばなんでもいっしょだと思ってるくらいこの話についてわかってない。ついでに言っておくと、コーヒーや醤油にすら発ガン物質が含まれてることを認めるなら、刺激性があることは否定しがたいタバコだけについて「『タバコ=肺ガン』説は科学的には全く根拠がない」なんてことが言えるわけないんだけどな。
だいたい、タバコのニコチンって、もともと植物が食われないようにするための毒として進化の中で編み出したものなんだよ。根本的に有害にできてんの! こうすりゃ動物どもはよってくるまいとタバコは(比喩的に)思ってたんだ。それをここ数千年ほど、なにやら毛のない変なサルがかえって喜んで自分たちを採取するようになって、タバコはたぶんとまどってるだろう。毒をわざわざ摂取したがるとは、なんと変ちくりんな生き物が出てきちまったもんだなあ、と思って。肺ガンになるかはさておき、有害なのはまちがいないのだ(その他あらゆる植物の辛い成分、苦い成分、みんな多かれ少なかれ毒だ。なぜそれを人間が嗜好するようになったか、というのについては各種の解説書があるから読んでほしいけれど(おもしろいよ)、その基本は科学的には疑う必要のないものだ。
また、ラットなどへの強制喫煙でガンが発生するだけのタバコの量は、人間の場合一日数万本に当たります。そんな量のタバコを吸う喫煙者や受動喫煙者は実際には存在し得ないのです。
ここでおもしろいところ。室井は、ラットに強制喫煙させるとガンが発生するという実験を知っているわけだ。にもかかわらず、前のほうで「タバコの煙だけでガンが発生するという実験結果は、実は世界で一例たりとも存在しません。」なんて書いてる。さらに、ラットを使った発ガン性の実験は、喫煙に限らずどんな物質でも、人間の日常摂取しないようなすさまじい量を摂らせてその影響を見る手法を使っている。でもそれは、少数のラットで短期間で見極めをしなきゃいけないからしょうがない。実際の摂取量を使って無数のラットで何年も実験できるほど、みんなお金も暇もないのだ。その結果を人間にそのまま適用していいのか、という議論はある。でも短時間でリスクを評価する手法としてはそれなりに有効だ。ラットにプルトニウムをいっぱいあびせたらガンになったり死んだりする。実際にそんな大量のプルトニウムに人間が曝される機会はないけれど、でもだからといってプルトニウムが安全ってことにはならんのだよ。高量で危険な物質は、少量でもそれなりの危険があると想定するのが普通でしょ。もしこれを否定するなら、食品の安全性の検査をほとんどすべてを否定することになるけど、いいの? 多くの安全基準は、実際にはありえない負荷をかけたりした結果に基づいて作られるんだけど、それを全部否定していいの? タバコかわいさのあまりあらゆる安全検査を否定するようなまねは、しないほうがいいと思うんだけどなあ。
確かに、副流煙は炎症をおこした喉や気管を刺激しますし、また煙の逃げ道がないところにずっと置かれている子供には悪い影響を与えるという可能性も否定できません。しかし、それ以外には「非喫煙者がタバコの被害を受けている」という証拠は全く無いのです。
……なんですの、「それ以外に」ってのは。それだけ害を認めてるんなら、「非喫煙者がタバコの害を受けている」と言って十分よいんじゃないの。特にオフィスや会議室や新幹線の喫煙者みたいな密室でいっせいに喫煙されると、煙の逃げ道がないところにみんなずっと置かれるんだし。子供だけには被害があるが、20 歳すぎたらすぱっと影響なくなるって、そんなことはあり得ないでしょう。さらに前のほうで室井は「タバコの煙は喉や気管を刺激し炎症を起こしますから」って書いてるんだよ。だったら周辺の人だって当然多少は被害を受けることになるでしょう。肺ガンになるかどうかはわからなくてもね。
さらに、批判というと平山雄氏の論文におけるデータがどうしたこうしたと言うんだけれど、別にたばこの害に関する研究って平山論文だけじゃないんですけど。たばこ白書がたまたまそれをたくさん援用してるのは不幸かもしれないけど、他にも研究があるだろうとは思わないの? 禁煙運動って日本だけのものじゃないんだよ。さっき紹介した Surgeon General の調査では、受動喫煙/環境喫煙がらみの調査も含め、すさまじい量の研究が参考文献としてあがってる。喫煙の話がしたいんなら、それを含め少なくともこの CDC の喫煙関係ページに挙がってる資料の代表的なものくらいは見とくべきじゃないの? それがメディアリテラシーってもんじゃありませんか? ところが室井はそんな手間は一切かけていない。どうもこの人の情報源ってのは、参考文献に挙げてある喫煙規制問題を考える会編、『なぜ、タバコは販売禁止にならないか』(五月書房)の一冊だけらしい。この本は見ていないけれど、これまでの話を見る限り、かなり怪しげなシロモノではないかと思えるんだけれど。というわけでわかること:室井は、メディアリテラシーとか言う割に、なにやら変な本を鵜呑みにして恥じるところがない。
そして出てくるのは陰謀論。アメリカ政府が反喫煙運動をあおってるんだって。根拠は、養老孟司のただの思いつき発言。いやあ、たばこ業界ロビーが禁煙運動をじゃまするという批判はよくきくが、その逆の陰謀論ってのは初めてきいた。アメリカのたばこ産業ってでかいし金も持ってるんですけど。それをおさえてアメリカ政府が反喫煙に乗り出す理由って何? もしそんなことが万が一あったとしても、それはたぶん医療費高騰を抑えるための施策で、結局喫煙は健康に悪いからってことになると思うよ。というわけでわかること:室井は、安易な陰謀論にはしりつつ、その陰謀論のまともなつじつまあわせさえできない。
付記:タバコによって医療費その他の政府負担や社会コストが増えるという点については、すでに挙げたアメリカの Surgeon General が出してる報告書の Chapter 7 でいやというほど論証されている。喫煙が減って人が長生きするようになったら、高齢者の医療は増える。でも、若年層のタバコによる疾病からくる医療費が減るのでそれは相殺される。さらに長生きした人はそれだけ長く働き、社会に貢献し、税金を払う。社会的な医療コストも負担してくれる。その分で高齢者の追加医療費分くらいまかなってもすさまじくおつりがくる。だから喫煙により社会の医療費は明らかに純増となる。だから社会的にも、政府の財政的にも、タバコは大きな負担をもたらしている。ここで使われている便益モデルも、その原単位もきわめて常識的なものでまったく怪しげなところはない。さらにこれは一個の便益計算なんかではなく、多数の(1000 近い)研究論文を参照しつつまとめられている。このように、「煙草を減らすと医療費が削減される、というデータ」は大量にある。
個人的には、たばこの害は騒ぎすぎだと思う。変な禁煙ファシストはうっとうしいし、ほどほどに吸わせてあげることには何の異論もない。外で吸うくらいいいじゃん。その意味で室井に同情する部分もないわけじゃない。また、変な規制が先走ってわけのわからないことになる、ダイオキシンやら環境ホルモンやらの過剰騒動問題はあったし、そういうのはちゃんと指摘して、改善を求めるのは当然必要なことだろう。メディアリテラシーを高めろというのも、その通りではある。
しかし室井尚がこの文章でやってることを見ると……
さてこの人は、このざまで大学における真理探究がどうしたとか、メディアリテラシーの欠如が心配だとかのたまっているんだが……どの口で言うか、と思うのは、ぼくだけだろうかねえ。メディアリテラシーってのは、まさに室井がここでやらかしているようなことを避けるために必要なもんでしょうに。「せめて我々大学の研究者くらいは、世の中のメディアで流通するでたらめな情報に惑わされず、一次データや正確な科学的検証に基づく議論をしていかなくてはならないのではないでしょうか」って、その当の大学の研究者様がでたらめ流通に手を貸してりゃ世話ねーわな。
そしてタバコについて言えば、自分のやってることがバンジージャンプや飲酒と同じで、リスクを伴う活動なんだってことは認識したら? そしてそれが、身体的な依存症がついてやめたくてもやめられなくなる怖い物質なんだってのは、ちゃんと言って認めたら? 一般人が摂取するモノの中で、常識的な摂取量だけでこれほどすさまじく強い依存症を引き起こす物質・行為は他に一つもないよ。そういうリスクを背負ってもオレはたばこが吸いたいのだ、と言えなくてどうすんの? バンジージャンプをする人はちゃんと自分のリスクを知ってるし、それを明らかにしてる。それを、リスクがないかのごとくに言い立てるのは、自分をだます方便にしてもあまりに稚拙だし、それで喫煙に理解が増すと思ってるならそれは見当ちがいってもんだ。危険が過大に言い立てられてるのは事実かもしれない。でもそれに対してやるべきは、危険なんかまったくないと強弁することじゃない。危険はせいぜいこの水準ですよと示し、問題にならない水準を提示するとともに、少なくとも他人にはあまり累が及ばないようにするために十分気を遣いますよ、あるいはそれなりのコスト負担をしますよ、というアピールでしょ。それがこんな愚にもつかないトンデモ開き直りじゃねえ。
あと、喫煙は昔からの文化があるから、という理由で喫煙擁護をしたがる人もいる。当の室井もこっちのブログで、議論をあれこれ日和らせつつ文化的な擁護論もやろうとしている。
さて確かに喫煙には文化がある。でも、一日何十本も、寝ても覚めても歩いても便所でも紙巻きタバコを吸いまくるような習慣は、最近のものでしかない。昔の喫煙は、なんか儀式のときに吸ってみんなでヘロヘロするとか、あるいはちっこい煙管にチマチマたばこを詰めては、二、三服してカンカン灰を叩いて落としてるような、そんな話。葉巻だって一回四、五服程度ふかしたら、カッターで先を落としてあとは次回まわしだ。アラブ圏なんかのでっかい水パイプだって、そんなスパスパとチェーンスモーキングするようなものじゃないのは見りゃわかる(ちなみに、あれはなかなか楽しいよ)。特定の場所で、たまに少量ゆったり嗜むのが喫煙文化だった。その文化を根拠に、現在の覚醒剤代わりと強度ニコチン中毒維持のためのいつでもどこでもタバコ使用を擁護しようとするのは、なかなかつらい。喫煙文化を根拠にあれこれ言うんなら、かつての優雅な少量喫煙文化への回帰運動でもやったら?
ちなみに、英米では水パイプバーが増えてきているんだけれど、禁煙法のあおりで厳しい状況にたたされてるとか。それはかわいそうだ。そういう連中が、喫煙文化ーと言うなら納得もしましょうよ。でも駅の灰皿に群がる喫煙者さんたちを見ると、文化って胸はれるものには見えませんわな。文化とかいうくだらん正当化はやめればいいのに。あたしゃもうニコチン中毒でやめたくてもやめられないんです、病気なんです(実際そうなんでしょ)、哀れんで堪忍してください、と土下座でもすれば同情も集まろうよ。それを逆ギレして下手な強弁すると、かえって風当たりが強くなるだけじゃん。
で、室井はこれを、なにやら学内広報誌に載せたわけ? へーぇ。そしてこうやって得意げにサイトに出してるってことは、いまだに自分がまともなことを書いたつもりなのか。かわいそうに。だれも教えてやんなかったの? まあ室井のところにトラックバックやコメントつけてる連中を見ると、ほとんどが嫌煙派なんだけれど、一人残らずどうしようもないバカばかりだし(データを議論したいんじゃないとか、喫煙者はほかの人の気持ちを考えないのが悪いとか。そういう嫌煙派は、たまには喫煙者の気持ちも考えてあげたらいかが?いいかい、喫煙者はニコチンに中毒していて、タバコを吸わないと手が震えて目が血走り仕事も手が着かなくなる病人の一種なんだよ。かれらが喫煙できずに味わう苦痛と、嫌煙者がたばこで味わうちょっとした不愉快とで、どっちが優先されるべきか――つらさなんか定量的にはかれないけど、中毒した病人のほうがかわいそうだから優先されるべきだ、という議論は十分にできる)、室井がいるのはそういうレベルの低いコミュニティなのかもしれない。それはそれで、お幸せなのかかわいそうなのかはよくわからないけれど。
ついでにもう一つ、ちょっとここでの本題から離れるポイントを。この反嫌煙キャンペーン論の冒頭部に、こんなくだりがある:
「悪いもの」「汚いもの」「役に立たないもの」「不快なもの」はすべて排除してもいいという考え方には文明の病理が色濃く感じられます。「健康増進法」という、名前を口にするだけでも恥ずかしくなる悪法を作り出した日本は、歴史に汚点を残したと言えます。こうした法制化のルーツが、ナチスドイツにあり、その結果ユダヤ人や精神障害者虐殺を招いたということを思い返す必要があると思います。
ここで「文明の病理」ということばにご注目。室井はポストモダンちっくな意匠でつまらん情報論だの文明論だのをあれこれしてる人物だ。こういう人がこういう文脈で「文明の病理」というとき、それは往々にして、文明的な発想が一時的に病気になって、よろしくない考え方や行動を生み出してしまいましたよ、文明を健康にしてそういうのをなくしましょう、という意味……じゃないことが多い。
それはしばしば、文明が必然的に生み出す病理、もっといえば文明そのものが病理だ、という意味だ。かれらの考えているのは 文明=合理主義、合理主義の行き着く先=ナチズム=弱者虐殺、よって文明そのものが病気の一種、ということだ。
なぜそんな変な発想をするのかというと、よくわからない。ただ、かれらは文明が人間をゆがめたと思っている。文明は、正義という概念をでっちあげて、法律なんかでそれに反するものをどんどん取り締まり、汚いところをきれいにしたり、病気をなおす。ふつうは病気をなおそうとしたり、汚いものをきれいにするのは、どう考えてもよいことなんだけど、でもこの人たちにとってそれは、病人というものをよくない存在として排除しようとする発想だ。やりすぎは問題だから、適正なブレーキをかけなきゃいけませんね、ということじゃない。車はブレーキをかけ損ねると暴走することもあるけど、だれもそれを「自動車の病理が色濃く感じられる」なんて言わないでしょ。ウンコは汚いし飲料水に入ると病気のもとだから片付けましょう、というのが正常な発想だけれど、この人たちに言わせるとそれはウンコの尊厳を否定する許し難い弾圧なのね。何が悪いかは権力者が決めるのでそれは権力が自分の気にくわないものを恣意的につぶし、弾圧排斥する発想でしかない、とかれらは考える。だからこそ、不快なものを排除、という発想が文明の病理(つまり文明という病理)だ、なんていう得体の知れないことを言える。
この手の人たちが暗黙に抱いている変な世界観では、文明以前の人間は自然の中で仲良くなんでも分け合いつつ、セックスなんかも自由にやりつつ平和に暮らしていたのだ。ペンギン村のアラレちゃんみたいに、ウンコくんとも実は仲良く共存できたと思ってる。ところがどっかで、どっかのごうつくばりが私有制を通じた共有の拒否なんてことを思いつき、それによる男どもの女私有と嫉妬の誕生、軍事による他の人々の弾圧、トイレによる排泄物の排除、お金により必要以上のものをため込もうとする卑しい欲望の蔓延、それに伴う殺人、差別、奴隷制、収奪、その他ありとあらゆる悪しきものが生まれて、そのなれの果てがいまの文明だと考えている。だから文明こそが諸悪の根源だと、漠然と思っている。もちろん、こんな発想をそのままストレートに述べる人は少ない。でも各種発言の端々から、この発想がうかがえる。この稿の冒頭に挙げた「金儲けは卑しいものであるという倫理観を取り戻すことは重要である」といった発想は、まさにいまのような世界観の発露だ。そしてもちろんこの「文明の病理」発言も(おそらく)そうだ。
しかしながら、こーんな発想はもちろんでたらめで、ルソーなんかに代表される野蛮人や自然に対するロマンチックな妄想の産物でしかない。所有概念、縄張り概念は文明なんかの遙か以前にあり、女の所有も売春も殺しあいも、サルはおろかそれ以下の動物にも無数に見られる珍しくもない現象でしかない。
まあ大負けに負けて、室井が「文明の病理」というときには必ずしもこんな反文明的な発想を抱いてるんじゃないことにしてあげてもいい。でも、いずれの意味にしても、「悪いもの」「汚いもの」「役に立たないもの」「不快なもの」はすべて排除してもいい、という考え方は、別に文明の病理じゃない。過去 2 万年かそこら、人類というものが発生して以来、不快なものや汚いもの役に立たないものをすべて排除しようとするのはあたりまえのことだった。そのために「不快」とか「汚い」という概念が作り上げられたんだから。気にくわなければぶち殺す、じゃまならぶち殺す――それは人間の基本的な行動様式だ。そしてだから、各種障害者は、ほんの数百年前までは平気でひどいめにあわされていた。
というと、そんなことはない、かつてキチガイは自由であり一般の人々と親しく共存していたのである、文明こそがそこに恣意的な正気/狂気の区分を持ち込み、キチガイは迫害弾圧されるようになったのである、これぞ近代の奸計なのだ! てなことを多くの人は言う。これはフーコーの名著『狂気の歴史』 (邦訳田村訳, 新潮社, 1975) の悪しき影響で、これにより中世 (というのは 15 世紀) 以前にはキチガイは自由に人々と共存して阿呆船で楽しく暮らしていたが、その後文明が進むとかれらは精神病院にぶちこまれ流刑地に監禁されて自由を奪われ、恣意的な分割が管理の口実として体制に利用されたのである、といった認識が広まった。
確かに狂気という概念が近代の管理ツールとして使われてきた、というのには一面の真実はあるだろうし、それを指摘したフーコーはえらい(必要以上に晦渋なのはなんとかしてほしいけど)。でもフーコーは、中世以前のキチガイたちが野放しだったと言ってるだけで、迫害されたり虐殺されなかったりしなかった、なんて不用意な妄想は口走ってない。フーコーは老獪で慎重だから、他人の誤解をわざわざなおしてあげたりはしなかったけど。集団的・制度的に対処されてなかっただけで、個別にはどんどん迫害虐殺されていただろう。そもそも殺人も頻繁で、寿命も短かったしみんな貧困だったから、だれもいちいちキチガイなんかの運命を気にしなかったというだけのこと。ちょっとでもリソースが不足すれば、年寄りは姥捨て山に放置され、変な連中はすぐに処分され、山の向こうのむかつく連中は隙あらば収奪された。かれのもう一つの研究分野である犯罪や監獄のことを考えてみてよ。近代的な監獄や犯罪概念ができるまで、犯罪者は大手をふって何も処罰されずに歩いてたわけ? まさか。泥棒や殺人者(らしき人物)がつかまったら、手続き無視でリンチにあったというだけの話だ。というのも、当時の狂人は別に人間として認められていたから野放しになってたんじゃない。人間とは思われず、家畜に毛が生えた程度のものと思われていたから、野良犬がほっとかれるのと同じ意味でほっとかれただけなのだ。人間扱いしようと思えばこそ(そして狂気を直すことができるという希望があればこそ)病院に入れて治療しようとしたりしたのだ。これはフーコーが完全にまちがっているところだ。
ごく最近になって、人類が文明を発達させ経済的に豊かになり、余剰が出てきて寛容さが生まれたとき初めて、不快だというだけで何かを排除するのはまずいかもしれない、短期的に役に立たないというだけで殺しちゃうのはアレだなあ、という歴史的に見ればカナーリ変な発想が出てきた。この発想は徹頭徹尾、豊かさと文明の所産だ、というのは認識しとかなきゃいけない。そしてそれがたまに本能的な排斥衝動に負けて機能しなくても(あるいは時にやりすぎが出てきても)、それは病理じゃない。文明の未だ至らない部分として、文明によって今後対処してかなきゃいけない部分だ。人も文明も、まだ完全じゃないんだから。
あと、なんでもナチスにつなげりゃけなせるという安易な発想もなんとかならんかね。ナチスは確かに健康増進法みたいなのを作った。でも、別にユダヤ人迫害は健康増進法なんかのおかげで起きたわけじゃない。それはむしろ、人間の文明化されない部分――特に商業的な存在をうさんくさく思う発想、まさに室井の発想――が文明の間隙をついて出てきたせいで起きている。ポグロムの嵐の吹き荒れたロシアでは、健康増進法がございましたか。Seabright The Company of Strangers: A Natural History of Economic Life (Princeton, 2004) は、商業というものを、見知らぬ他人と協力するために発達してきた手段としてとらえる。でも、人間のサル以来の本能は、見知らぬ他人は信用できないと訴える。反グローバリズムや反文明的な卑しい運動は、このサル的な本能に訴えかけるが故に、感情的な強みを持っているのだ、と。そしてそれは、ナチスをはじめヨーロッパ全土での長い歴史を持つユダヤ迫害につながった発想でもある、てな話は最初にもしたな。精神異常者の迫害だって、昔から人間が本能に任せて平然とやってたことを少々大がかりにやっただけのこと。
ま、もちろんナチスの健康と清潔大好き的な部分が、そうした本能的な衝動と結びついてああいうグロテスクな最終解決策につながってしまったのは事実だろう。そして健康増進法が頭痛もののアホな法律なのも事実だ。でもナチスと少しでも似たことやったら、すぐにガス室だ虐殺だと騒ぎ立てるのは短絡思考もいいところだ。室井の変な文の中では、嫌煙ファシズムと戦うことと、文明の病理(つまりナチスのガス室につながる排除構造)への異議と、そして大学人の社会的使命(真理の探究とか)への矜持らしきものが、なにやら珍妙な形でゴッタ煮になってる。でもこの文章で示した通り、室井の嫌煙ファシズムへの反撃は、ボロボロの陰謀論のできそこない。文明論はまるっきりお門違いの思いこみおとぎ話。残るは最後のやつだが……最初の二つがこんなざまの大学人サマに、真理の探究もなにも期待できると思う? 答えは明らかだと思うな。
室井がコメントを出してきた。そこでは、室井のもとの文章に見られた数々の誤りや論理的な不整合についての本論での指摘については一切反論が行われていない。ぼくを相手にしてこの手の議論では勝ち目がない、というのは判断として正しい。しかしながらそのかわりにかれが述べているのは、なにやらもとの文のそうした部分が実は本気ではなく、あれこれ書いたのはレトリックにすぎず、実は本気で信じていないのだ、というひどい弁明だ。そして、自分とロンボルグ(や山形)の立場とは、環境問題やら喫煙やらについてヒステリックに騒ぐなという話だから同じなのだ、というきわめて誠実さに欠く強弁を行っている。
さてロンボルグは単にヒステリックに騒ぐなといっているのではない。というのも、何がヒステリックか、というのは主観だからだ。ヒステリックかどうかはどうやって決まる? それは統計的なデータと科学的な研究の積み重ねに基づいて検証しているかどうかだ。これは室井のように、「データはない」とか「実験結果は一つもない」という誤りを述べておきながら、それを指摘されると「データとかメディアリテラシーとかナチスとか養老孟司とかいったキーワードはそのためのレトリックに過ぎない。要するにぼく自身本気で信じてないし、そのあたりはどうでもいい部分だ。」などと言い出す不誠実さとはまったくちがう。いっしょにするな。室井にとって「どうでもいい部分」こそロンボルグ(そして不詳このぼく)にとってもっとも重要な部分だ。
室井は ACS を反喫煙団体だから云々と論難する。しかしかれらはすでにある科学的な研究をまとめて整理しているにすぎない。またこの稿で何度も言及している Surgeon General の報告書は別にそうした偏向はことさらない。Surgeon General の報告書は、既存研究を大量に参照し、それらを最大限フェアにまとめることで編纂されている。かれらはロンボルグがきちんと認めるような手続きにしたがって、喫煙は有害である(受動喫煙も害をもたらす)と結論づけている。ロンボルグが反喫煙論について特に言及していないのは、こうしたデータがすでに適切な手続きでまとめられていて、本質的な部分で疑問の余地はないからにすぎない。
じっさい、ぼくは統計学は嫌いだしあまり「科学」だとは思っていない。フランス革命以降取り入れられたこの管理ツールが良い点と同じくらいかそれ以上に害悪を振りまいていると考えているし、とりわけ社会統計はおかしなものが多すぎると思っている。死亡率計算もかなり前提がいかがわしいし、絶対死亡者数は変わらないのだから、たとえガンを撲滅したところで人類の平均寿命が120歳にはならないだろう。
見てごらん、この醜悪な反文明的な言辞を。社会統計や統計が信用できない? へえそう。で、「良い点と同じくらいかそれ以上に害悪を振りまいている」というのは統計に頼らずに何を根拠に言えるわけ? 社会統計の整備とそれを利用した各種の施策なくして、医学の進歩もありえなかった。統計とそれに伴う管理手法なしに、いまの食料や工業生産力はあり得ない。室井のような人物が呑気に喫煙していられるのは、すべて大なり小なり統計のおかげだ。それを否定するのは、文明を否定しているのと同じことだ。また、データの見方も統計のイロハも知らないことはもう暴露されてるんだから、きいたふうなことを言うのはやめりゃいいのに。各種社会統計の数字の中ではいちばん明確な死亡率計算の前提の何があやしいと? 厳密に最後の桁まで正確かどうかはわからない。誤差や数え間違いは当然ある。でも騒ぐほどじゃない。さらにガンを撲滅したら絶対死亡者数はもちろん変わります。毎年ガンで死んでいる人が死ななくなるんだもん。もちろんその人たちもいつかは死ぬ。でも全員が同じ年のうちに死ぬわけがない。長い時期にわたってならされるから、毎年の絶対死亡者数は減る。そしてガンを撲滅しても人類の平均寿命が 120 歳にならない、というのは各種統計をもとにしないでどうやって言える? ちなみに 120 歳にはならないかもしれない。でもいまの平均寿命が世界全部で65歳くらいだけれど、それが 75 歳や 80 歳くらいにはのびるだろう。それがすばらしくないなんてだれにも言わせない。
室井が統計なんか信じてない、あてにならないと言うのであれば、それはそれでもかまわない。だがそれなら、いったいかれの言う「証明」とか「根拠」っていったい何? さらにそれを信じているようなふりをして、「もともと余り知的レベルが高くない同僚の大学教員たち」(だが室井に同僚たちのことをとやかく言う資格があるだろうか?) や学生にでたらめをまきちらすという行為は悪質。さらに統計的なプロセスはあらゆる科学的な検討の中に不可欠に取り入れられており、それを否定することは室井が今回の文でも繰り返す「科学的な根拠」という概念そのものを否定するに等しい。「要するに「嘘」なのに、タバコや受動喫煙の害が「科学的に証明されている」と言うのはいいかげんにやめて下さいというだけのことである。何か、そこに問題ありますか?」と室井は言う。問題大あり。たばこや受動喫煙の害は科学的に証明されていると十分に言える。それは「嘘」ではない。統計を科学とは認めないなどという勝手な思いこみでそれを否定することはできない。このような強弁をする人物は、科学やそれ以前の論証手続きというものをそもそも理解していないというだけの話。そういう人物は「科学的」云々などとそもそも口走るべきではないし、データが云々といった議論をそもそもする資格がないだけ。
またいくつか室井が反論のつもりで述べているとおぼしきデータについての疑問について応えておく。p. 352 の図 117「アメリカのがんの死亡率」について、喫煙は 1960 年代にピークだったはずなのに年齢喫煙補正済みデータが 1950 年代からずっと下がっているのは変だ、と室井は言う。それは室井が「喫煙補正済み」という意味を理解できていないにすぎない。喫煙のピークは 1960 年頃だが、喫煙補正済みというのはそうした喫煙の影響を取り除いた、という意味。もし仮にタバコを吸う人がまったくいないとしたら、ガンによる死亡者数はどう変わっただろうか、という数字。喫煙による影響の大きい肺ガン・気管支ガン以外のガンによる死亡は 1950 年以来一貫して減っている。したがって喫煙補正したガン死亡データが 1950 年以来ずっと下がっているのもまったく整合している。喫煙分を取り除いてみたらガン死亡率は下がり、それを含めるとガン死亡率は上がる。だから喫煙はガンに貢献している。それだけの話だ。
また死亡率が 1970 年の人口構成にあわせて調整されている点について。別に 1970 年であることに何も問題はない。同じ基準で比較されているということが重要。ただし、もし 1970 年がいやというのであれば、すでにこの文章で最新データに基づくグラフを示してある。これは 2000 年の人口構成にあわせて調整されているが、結果はほぼまったく変わらない (アメリカの人口ピラミッドは日本ほど急激に高齢化していないので当然である)。また、女性の肺ガン・気管支ガンが頭打ちになるだろうというのを憶測だと室井は書いているが、この最新データ(ロンボルグのものが 1999 年までのデータなのに対し 2001 年まで) を見ると実際 1999 年から 2000 年あたりがピークだったようで、下がり始めているようだ。もう数年すればさらに傾向は明確になるはず。
p. 358の図 120 について。この左軸の意味については本文を参照すること (pp.356-7)。これはアメリカの総たばこ消費量と、成人男女人口をもとにした、男女それぞれの(喫煙者・非喫煙者も含めた)成人人口一人あたりの平均たばこ消費量であることが明記されている。また、右軸は発生率ではなく死亡率。これは翻訳時のミス。このご指摘は感謝するとともに、正誤表に記載しておく。
p. 380 の表。「これはこれらの食物自体の発ガンのリスク率ではなく、これらから摂取される合成農薬の残存性から算出した発ガンリスクの表である」と室井は書いているが、これは室井の誤り。各種の食料に含まれる天然農薬などすべての(リスクがわかっている)含有物質からくる発ガンリスク。合成農薬のリスクは、それぞれの食品には含まれていない。日常的に食べる量の各種食品に含まれる残留合成農薬を総計した量についてのリスクが、ETU, DDT, UDMH など別立てで並べてあるわけだ。このグラフは、発ガン物質がいろいろ含まれているというだけではその相対的な意味はわからないことを示すために引用したものだが、この表のキャプションに明記されているアルコールと、たばこのガン誘発性についての比較なら p. 370 図 125 などを参照のこと。タバコのガンの誘発はアルコールのおおむね 10 倍程度と見積もられることがわかる。
ロンボルグのデータの使い方が恣意的だという批判はないわけではないけれど、大きくロンボルグの論点を崩すような形でそれが具体的に指摘されたことはほとんどない。さらに室井はそもそも、恣意的かどうかを判断できるほどデータ処理や統計処理に関する知識を持っていないことは、本稿でも指摘した通り。死亡率が信用できない云々という今回の「反論」におけるヨタみたいなグチも、結局のところ室井は年齢調整がどうしたこうした言いつつ、それが具体的にどういう意味なのか見当すらついてないことを如実に示すものでしかない。というわけでわかること:室井はデータの扱いについて何一つご存じないばかりか、自分の発言について最低限の責任を取ろうとするだけの知的な誠実さすらなく、さらに自分の無知をたなにあげて「もともと余り知的レベルが高くない同僚の大学教員たち」などと同僚を罵倒するような低劣な人物である。さて、だれか横浜国大の人がこれを見ていたら、この文と室井のコメントを室井の「知的レベルが高くない同僚」の方々と、「ヘルシーキャンパス 21」なる刊行物の編集部に送ってあげてほしいな。かれらは室井のあの文が、まるっきりでまかせのレトリックにすぎないものだとは夢にも思っていなかったはずだから。かわいそうに。
付記(2007/3/15) ついでながら、室井は 2006 年になって、本稿で指摘された部分をあれこれ修正した改訂版をネットにあげている。結論を替えずに言い回しだけ替えようとしたせいで、論旨が不明確で主張がかえってわかりにくくなっている。それと今回気がついたことだが、室井はマイクロソフトが情報の囲い込みをやってけしからん等々と言いつつ、問題のページをつくるときには MSワードを使っている。
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