(1896-1971)花田清輝、太宰治ら文学者に絶賛された伝説的作家。
1896年12月20日、鳥取県岩井郡生まれ。父は教員。1913年、鳥取高女本科4年を卒業。本科時代は理数科と国漢、英語にすぐれ、音楽の成績もよかった。性格的には男っぽいが、面倒見のよいところもあった。また『女子文壇』や『文章世界』といった文芸誌を購読し始めた。1914年、鳥取高女補習科卒業。7月から岩美郡大岩尋常小学校に代用教員として勤め始める。8月に『文章世界』に「青いくし」の一部が載り、作品が初めて活字となる。その後作品が同雑誌に次々と掲載されるようになり、1915年3月に『文章世界』に「朝」が第一席で入賞し、吉屋信子とともに投稿欄の才女として注目されはじめた。
1919年日本女子大学国文科に入学。1920年には『新潮』1月号に「無風帯から」が掲載されて大いに注目されるが、学校側がよしとしなかったため自主退学した。
その後も『婦人公論』や『女人藝術』などにコンスタントに作品を投稿、掲載されるが、1929年ごろから頭痛が持病となってくる。1930年には林芙美子が『放浪記』を出版して一躍人気作家になったことや平林たい子らとの交流を通して、大いに新たな文学方法の確立の感触を得、『第七官界彷徨』の執筆を始めた。
1931年『文学党員』に『第七官界彷徨』の7分の4を発表、大きな反響を呼ぶ。8月より体調思わしくなく、幻覚をみるようになる。
1932年には「地下室アントンの一夜」を発表するも幻覚症状激しく、鳥取に戻って神経科に入院、療養。
1933年7月、啓松堂より『第七官界彷徨』が出版された。1935年以降は文学上の友人との交信もとだえるほどひっそりとした生活に移行。1971年、鳥取の病院にて永眠。享年75歳。最後の言葉は「このまま死ぬのならむごいものだねえ」。大粒の涙を流しながら言ったという。