最初の天気予報は外国人が作っていた
とにもかくにも、さっそく実物を見てほしい。日本で最初に作られた天気図がこちら。
国立国会図書館デジタルコレクションでは、気圧などが描かれた地図と、各地の気温や風力、天気などのデータがかかれたシートがセットになったPDFがダウンロードできるが、一番最初のものが上記の天気図だ。
増田:この「日本初の天気図」ですが、作成したのはお雇い外国人のクニッピングという人です。 この天気図がでたあと暴風警報が発表されるようになり、翌年6月1日からは天気予報が始まるんですね。
クニッピングはドイツ(当時はプロシア)出身の航海士で、明治時代に日本の気象観測の礎を築いた外国人だ。
増田:よく見ると京都時間6時って書いてありますよ。東京6時16分、長崎5時26分……。
――これってもしかして、明石の東経135度が日本標準時って決まる前ってことですか?
増田:みたいですね、へー。
日本の標準時が兵庫県の明石市を通る東経135度の時間に決まったのが1886(明治19)年。この天気図よりも3年後のことになる。
増田:二枚目の予報を見ると、左に左書きで日本語の予報。そして右側に英語の予報が書いてありますね。クニッピングさんが英語で「天気報告」を書いて、左側にその日本語の翻訳を書いたんでしょう、翻訳したのはおそらく下に名前がある荒井郁之助でしょうか。
荒井郁之助は元々幕臣として江戸幕府に仕えたが、榎本武揚とともに箱館戦争で新政府軍に最後まで抵抗し、降伏後は明治政府に出仕、初代の中央気象台長となった人物だ。
天気図の方を見てみると等圧線が2本。三陸沖に「高 HIGH」。東シナ海あたりに「低 LOW」とあるだけで、かなりシンプルな天気図となっている。西側に低気圧があり鹿児島で雨が降っているので、おそらく気象予報士の人はこの天気図だけをみると「西からお天気は下り坂です」という予報をするかもしれない。
東京気象台の「天気報告」をざっくり書き出してみる。(旧仮名づかいは適宜直してあります)
晴雨計低度の位置は九州沖に出現し、南西部は都て晴雨計沈下すること急なり、しかしてその最高は東海岸の沖にあり。風は静穏より軟に至る速度をもって吹けり。鹿児島は雨降り始め、その他は多く曇天なり、温度は南西及び南部において上昇せり
※(現代語訳)低気圧が九州沖に出現し、南西部の広い地域で気圧が急にさがります。そして高気圧の中心は東海岸の沖にあります。風は弱く、風速3〜5メートル程度でしょう。鹿児島では雨が降り始めますが、全国的に曇りが多いでしょう。南西及び南部では気温が上昇します。
とある。なお、晴雨計というのは気圧計のことで、いわゆる「バロメーター」だ。
――風を「軟に至る」というのはあまり使わない言い方ですね。
増田:軟風というのは、今の天気予報では使わないですけど、風力のランクですね、風速3メーター、4メーターぐらいかな。
風速の表現は普通、風力1とか2とか風速何メートルといった数字で表すことが多いけれど、風力階級では風の強さごとに軟風の他にも、和風や疾風、雄風、暴風、颶風(ぐふう)といった漢字の名称がついているらしい。
「天気晴朗ナレドモ波高シ」は本当に天気がよくて波が高かったのか
続いて見てもらったのは、1905(明治38)年5月27日の天気図。
この日はロシアのバルチック艦隊と日本海軍が対馬海峡で戦い、日本海軍が勝利した日本海海戦のあった日だ。
このとき戦艦三笠に参謀として乗り込んでいた秋山真之の「天気晴朗ナレドモ波高シ」という電文が有名だが、天気図を実際に見ると対馬海峡付近が晴れていて波が高かったのはわかるだろうか?
増田:(対馬海峡付近の天気は)晴れのマークついてますね。
――天気はもう、そのまま見たまんまですね。
対馬海峡付近や長崎、福岡あたりの天気記号はほぼ快晴ということになっており、天気快晴であったのは天気図からもすぐわかる。
――海上の波の高さというのはこの天気図から読み取れますか?
増田:日本海をみるとかなり大きな低気圧がありますね。これはこれだけ大きな輪っかなので、おそらく現代のようにもっと観測地点が細かくたくさんあれば、もっと発達している低気圧(等圧線の間隔が詰まっている低気圧)なはずです。
5月ということは、西からやってくる低気圧が日本海で発達して、だんだん東へ行ってますよ、となると、東北地方の低気圧が近づいているところは黒丸(雨)になっていて、おそらく等圧線が混んでいるところは風もけっこう強くなっています。
西日本の方をみると低気圧が去って晴れになっている、で、南からの風もけっこう吹いている。
低気圧は離れているので、すごく強いわけじゃないけれど南風である程度強まりやすい、ということは波も高かったのではないか……と。
――海上で波が高くなる要素というのはどういうことがあるんでしょう?
増田:まずは風の強さ、そしてあともうひとつは遠くから伝わってくるうねりがあるかどうか。ですけれども、(この天気図は)まぁーうねりはどうなんだろうなあ……。東シナ海や南の海上に波が高くなる原因があるかどうかで、そこはちょっと読めないんですけど、ただ、東北地方にかかりそうになってる発達した低気圧をみて、おそらく前日(26日)から強い風は吹いていて波は高かったんでしょうね。
――なるほど……今の天気図と比べるとかなり情報量は少ないわけですけど、ちゃんと晴れてて波は高かっただろうな。ということまではわかるのすごいですね。
増田:この「天気晴朗ナレドモ波高シ」というのは、当時の中央気象台(現在の気象庁)の岡田武松さんという方が出した天気予報なんですよね。それが元になっている。
――あ、そうなんですか。秋山真之が書いたのかと思ってました。
増田:岡田武松さんは後に中央気象台長(現在の気象庁長官)をやる人なんですけど、当時は予報課長をしていて、5月26日に天気予報をして大本営に伝えていたわけですね。その予報が当たった。
増田:これもし、最初の頃の等圧線が2本ぐらいしかない天気図で予報しろといわれていたらものすごく難しかったかもしれない。20年ぐらいで大陸の方(朝鮮半島、遼東半島、台湾)の気象情報も入ってくるようになっていたから、かなり正確な予報ができたんじゃないかなって思いますね。
――あー、日清戦争で日本が手に入れた領土か……なるほど。
増田:この岡田武松という人は強くなってくる軍の圧力になかなか屈しなかったんですが、太平洋戦争が開戦する1941(昭和16)年に中央気象台長を辞めてます。その後に中央気象台長に就任したのが藤原咲平という人で、その時代に軍と気象台の関わりが大きくなっていきました。
藤原咲平は風船爆弾の製造に関わったとして公職追放されたが、戦後は気象に関する様々な著作を行いお天気博士として親しまれた。作家で気象庁職員でもあった新田次郎は甥で、数学者の藤原正彦は大甥にあたる。