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アンパンマンができるまで その2

アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて、なんのために生きるのか」というのですが、実はぼくはずいぶん長い間、自分がなんのために生まれたのかよくわからなくて、闇夜の迷路をさまよっていました。
やなせたかし 「やなせたかしの世界」)


同僚の小松記者と思いが通じ合ったやなせ先生。
しかし小松記者は、元上司の社会党代議士の秘書になって欲しいと頼まれ、上京してしまいました。
そして先生自身も、南海大地震の際に地震に気づかず寝てたらスクープを逃した、という事件で、自分はジャーナリストの世界には向いてないと思い、東京に出て新宿三越の宣伝部に入社します。アパート大家の三歳の子供と相部屋ながら、奥様との同棲生活が始まりました。

思えばあの頃はまだ若かった。若さのほかにはなにもなかったけれど。
(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

そこで先生は、三越の包装紙のレタリングなどをしたり、三越劇場のポスターを作ったりしました。
とはいえどやなせ先生、そこで人生を終えるつもりはさらさらない。雑誌への漫画投稿を何度も行い、様々な漫画家と知り合って、独立漫画という団体に所属して、才能が花開いて行くのを間近に見ていきます。
しかして一方、三十路を過ぎても完全に無名のやなせ先生。どの業界でも、戦後派の新人の活躍が目立つようになってきてるのに、やなせ先生は、年齢的に戦前派に入っていました。
内心はあせりが出てきますが、未だに「これがやなせたかしの世界だ!」と言えるようなものが何もない。デザイナーにせよ漫画家にせよ、どの分野にも天才がいる。とても敵いそうにない。
そんな折、三越ストライキが起きました。会社側には右翼陣営から何人かが送り込まれました。その連中は時としてピケットを破り、わざと警官に殴りかかって取り締まりの口実を与えます。
一方組合には左翼陣営からオルグがやってきて、ピケットの張り方から何から細かく指導してきます。

…この労働運動のプロみたいな連中が、「デパートの組合じゃ生ぬるくてしょうがない。ストライキはこんな生やさしいものじゃない」とへんにいばりかえっているのにはムシズが走った。
結局このストライキは権力側の勝利だったが、傷はしばらく残った。正義はやはりアイマイで、どちらが正しいとはいいきれなかった。
ぼくは退社の決意を固めた。
(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)


そしてフリーになったやなせ先生。色々な仕事をこなしますが、代表作はありません。
雑誌記者まがいの仕事や、ラジオ番組の仕事などをしているうちに、女優・宮城まり子にたのまれ、リサイタルの構成台本を頼まれました。その縁から、次第に司会や構成などの舞台仕事が増えてきます。

宮城まり子の仕事を手伝っているうちに、エンターテイメントのショービジネスの基本は、まず眼の前の客をなんとしてでも喜ばせることだと悟りました。お客さんの喜びの拍手が、自分の喜びになる。
(やなせたかし 「人生なんて夢だけど」)

しまいには永六輔が舞台美術の仕事をたのみにやってきます。その縁から、作曲家のいずみ・たくと出会います。
作詞:やなせたかし、作曲:いずみたく、歌:宮城まり子…この三人によって、名曲「てのひらを太陽に」が生み出されました。「てのひらを太陽に」は、1962年、やなせ先生が10チャンネルのニュースショーの構成をしたときに、その中の今月の歌として作られました。

『手のひらを太陽に』を書いたのは、あまりマンガを描いてなかった頃。その頃マンガは劇画が主流で、僕は劇画はいっさい描かないから仕事が少なくなってた。そんなとき、ふと夜中に手を懐中電灯で透かしてみれば、まっ赤に流れる僕の血潮だった。自分は仕事がなくなってゲンキがなくても、僕の血だけは赤くてゲンキなんだなと。それが『みんなの歌』で流れてから全国的に広がっていった。小学校の教科書なんかに載ってね。これがきっかけで僕は童謡協会に入れられてしまう。童謡をつくる気なんかなかったのに、童謡もつくるようになってしまった。人生わかりません。<http://www.kepco.co.jp/kankyou/05kokoro/back/06_07.html>

俗説では「復員した特攻隊の歌」という話もあるようですが、やなせ先生の自伝などを見る限りでは「仕事場の懐中電灯を自分の手のひらにあてるレントゲンごっこしてたら思い浮かんだ」とのことです。まあ、やなせ先生のことですし、それ以外の意味も重ねているのかもしれませんね。
そして先生は向田邦子と知り合ったり、立川談志師匠といっしょに「まんが学校」というNHKの番組を司会したりします。しかし永六輔にしても向田邦子にしても談志にしても誰にしても、みんなあっという間に時代の寵児となっていきます。テレビやラジオの仕事に凝っていたら、いつの間にかぽつんと取り残されているやなせ先生。


この頃、漫画界も大きく変わっていました。「宝島」で手塚治虫が一世を風靡し、漫画のスタンダードが長編漫画へとシフトしていきました。手塚以前・手塚以後でハッキリと区分けされ、漫画の制作方法も、個人作業からアシスタントを使うプロダクション・システムが主流になっていきます。61年には虫プロが発足し、63年には鉄腕アトムが放映開始。順風満帆に見える手塚治虫も、劇画の台頭に頭を悩ませ、白土三平など新時代の劇画作家たちに激しいジェラシーを燃やしてきます。このあたりは「漫画道」とか「愛・しりそめし頃に…」の世界ですね。
そんな状況の中で、やなせ先生は、山梨シルクセンター(現サンリオ)の社長に「詩集を出そうよ」と誘われます。ラジオで使ってた歌詞を載せた、やなせたかし初の詩集「愛する歌」を出版したところ、これが売れて十万部以上の大増刷。その後は陶器屋さんと一緒に絵皿や詩の描かれた湯飲みなどを売り出し、これもヒット。女性のファンが増えました。
様々な仕事をマルチにこなし、そのどれもでまずまずの成功を収めるやなせ先生。一見順調な人生にも見えますが、本人の意識はまた別でした。

漫画家の中では相変わらずランクは眼にも見えない下の方で、相撲の番付で言えば序二段ぐらいのところだ。
そして、漫画集団世界旅行というのにもさそいの声さえかからなかった。自分が完全に無視されている、存在していないのとおなじ、ということが身にしみた。
ぼくより十年も二十年も年齢の下の連中が、花形としてもてはやされているのに、湯飲み茶碗の絵を描いたりしてごまかしながら生きているのはみじめだった。

(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

その口惜しさから、やなせ先生は意を決して「週刊朝日」の懸賞漫画に応募しました。プロのくせに落ちる恥を想像すると心がひるみましたが、挑んでみることに決めました。

ぼくは、漫画の原則はパントマイムだと思っている。エキゾチシズムでうけるのではなく、全世界どこへいっても理解できる無国籍のものがいい
さて、キャラクターはどうする。
一番強いのはゼロではないか。主人公の顔がまったくわからないのがいい。読者の想像にまかせる。

(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

こうして、帽子をかぶり逆光に立つ、顔の見えないミスター・ボオ――つまり、某氏――が生まれました。
ミスター・ボオは見事入選。しかし特に変化もなく、日々は過ぎていきます。
しかしある日のこと、手塚治虫からやなせ先生に電話がかかってきます。その内容が、「長編アニメのキャラクターデザインをたのむ」というもの。冗談だと思って適当に返事してたやなせ先生は、気づかぬうちに虫プロで描くことになりました。この頃のことを「WEBアニメスタイル」から引用してみましょう。

── キャラクターデザインとして、やなせたかしさんを起用していますよね。このアイデアは、手塚さんの方から出てきたんですか。
山本 いや、「アニメーションのデザイナーを誰にしようか」というのを、手塚さんが僕と杉井ギサブローに聞いたんですよ。で、その時に杉井ギサブローがすぐに「やなせさんがいい」って。
── そうなんですか! なぜそう思ったんですかね。
山本 分かんない。とにかくすぐにそう言っていた。それで、考えてみると、やなせさんはなかなかいいから、それで彼に頼んだと。
── 当時、やなせさんは、皆さんにとってどういうイメージの方だったんでしょうか。
山本 難しいマンガを描く、あんまり有名じゃない作家かなあ。
── まだ「アンパンマン」も描いていなければ、「詩とメルヘン」も始まってない頃ですものね。
山本 (やなせさんが)映画の批評をやってたのね。だから、映画を見る目はあると思いましたよ。
── 漫画家としては、ちょっと通好みな感じですか。
山本 うん、そうそう。
(WEBアニメスタイル 「山本暎一インタビュー」)<http://www.style.fm/as/13_special/mini_060116.shtml>

この千夜一夜がヒットしたので、手塚治虫が「短編アニメを一つ、好きなように作ってくれてかまいませんよ。制作費はぼくのポケットマネーから出します」と言い、やなせ先生はラジオドラマでやっていた「やさしいライオン」の話をアニメ化しました。
これが毎日映画コンクールのアニメ部門で色々な賞を受賞し、その少し前に出ていた絵本も売れて、フレーベル館とやなせ先生の縁が深まりました。
そんな嵐も過ぎた頃、やなせ先生はもう40後半。漫画家としては年貢の納め時なのに、ほめられもせずけなされもせずというところ。
未だに自分の仕事も定まらぬ中、やなせ先生に大きな転機が訪れます。


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