この項目では、紀信と同一人物説のある紀成、司馬遼太郎の小説では紀信の親友とされていた周苛、紀信とともに鴻門の会で劉邦に同行した靳彊もあわせて紹介する。
概要
前漢の初代皇帝・劉邦の部下。項羽(正確にはその軍師の范増)が鴻門の会で劉邦を暗殺しようとした際、樊噲や夏侯嬰、靳彊(後述)と共に劉邦を護衛し、無事脱出させた。このことから、樊噲らと同じく、劉邦が旗揚げした頃から付き従った古参の部下と考えられる。
やがて劉邦と項羽の間で楚漢戦争が始まり、滎陽に立てこもった劉邦が項羽に追い詰められると、将軍となっていた紀信は、「事は急を要します。私が自ら影武者となり項羽に降伏したふりをして城を明け渡す間に、裏口から漢王(劉邦)は逃げてください」と進言する。劉邦は、2,000名の女性に鎧を着せて兵士に見せて、滎陽城の東から出撃させた。項羽の軍が彼女らを囲んで攻撃すると、紀信は劉邦の車に乗り、「兵糧が尽きたので、降伏しよう!」と叫ぶ。項羽の軍が歓喜につつまれる間に、劉邦は数十騎を連れ、西門より出て逃亡した。項羽は紀信を見て、劉邦でないことに気づいて、「劉邦はどこにいるのか?」と尋ねると、紀信は「漢王はすでに逃げ去ったのだ!」と答えた。騙されて激怒した項羽は紀信を火あぶりにして処刑し、戦後劉邦は廟を立てて身代わりの犠牲となった紀信を弔った。
なお、紀信には家族がいなかったのか、将軍という地位にあり、これほどの自己犠牲を伴う功績をあげながら、紀信の一族や子孫が「侯」に封じられた記録が『史記』や『漢書』には残されていない。
創作における紀信
以上が『史記』や『漢書』に記された彼の活躍だが、作家の司馬遼太郎は歴史小説「項羽と劉邦」で彼をクローズアップさせている。本作の紀信は、劉邦と同郷の生まれで、周りの人々がろくに働きもせず遊び回ってる劉邦の悪口を言うため、かえって劉邦のファンになってしまう。しかし当の劉邦本人が紀信のことを知らなかったことに腹を立て、今度は自分が劉邦の悪口を言いふらし始める。この評判が劉邦の耳に届くと、劉邦が自分のことを認識してくれたことを知り、喜びのあまり昏倒するという、ひねくれすぎていささか危ない感じもするキャラクターとなっている。その後は、友人の周苛の紹介で劉邦に仕え、たびたび憎まれ口を叩きつつも、最期はその劉邦のために命を投げ出すという史実通りの結末を歩むこととなる。なお、紀信の最期を聞いた周苛もまた、項羽に敗れると投降を拒否し釜ゆでの刑で殺されている。
一方、横山光輝の漫画「項羽と劉邦」では、張良と陳平が劉邦に容姿が似ている人物を吟味して、紀信に白羽の矢が立つという筋書きになっている。屈折した司馬遼太郎版と異なり、本作では自分が劉邦のために働いて死ぬことを誇りに思い、選ばれたことを喜ぶなど、忠実で実直な人物として描かれている(これを脇で見ていた、灌嬰や周勃は自分の方が主君に似ているはずだと、人選に漏れたことに不満げだった)。また、劉邦が彼の老母を自分の母として扱い、紀信の家族をわが一門同然に遇すると言うと、これ以上の感謝はないとさらに感激した。もっとも、劉邦は我が子を投げ捨てたり、父親を釜ゆでにされそうになってもそのスープを分けてくれと項羽に言うなど、身内には結構厳しいのだが・・・。項羽に捕らわれると、項羽を「冠をかぶった猿」と罵倒して、火刑に処せられた。
紀成 (きせい)
上述の通り、紀信の後を継いだ侯に封じられた人物がいないことや『漢書』では「鴻門の会」において、劉邦を護衛した人物が、紀信ではなく、紀成とされていることから、紀信とは同姓であり、子が侯に封じられた紀成と同一人物とする説がある。この場合は、「成」が名で、字が「信」となるものと考えられる。
紀成は、劉邦の沛での決起時点から従っていた。将軍に任じられていることから、かなり軍事では重要な地位にいる人物であったと考えられる。秦との戦いでは劉邦に従軍して、秦軍と戦い、漢王となった劉邦に従って、漢中に入り、三秦の攻略戦では功績をあげて襄平侯に封じられたが、その後の三秦との戦いで戦死した。子の紀通が後を継いだ。(与えられた戸数と功臣としての功績順は不明)
紀通は後に陳平や周勃を助けて、「呂氏の乱」鎮圧において、功績をあげている。
周苛 (しゅうか)
上述する司馬遼太郎『項羽と劉邦』において、紀信の親友であると小説上で創作されたのが周苛である。なお、『史記』や『漢書』には紀信との関係は示すものはなく、近い時期に同じ滎陽で戦死したため、そのような創作をされたと考えられる。
『史記』における周苛は、元々、劉邦の決起した沛県の上位官庁にあたる泗水郡の役人であった。劉邦が沛県で決起すると、泗水郡の長官である郡守の壮(姓は不明)は劉邦の討伐に赴いたが、討ち取られてしまう。そこで、周苛は、同じく泗水郡の役人であった従弟の周昌とともに、劉邦に投降する。周苛は重んじられ、賓客とされ、内史に任じられた。秦との戦いに従軍して、劉邦が漢王に封じられた時、御史大夫を任命される。これはかなりの高官であり、周苛は漢の幹部といってもいい地位に就いていた。
項羽と劉邦の戦いである楚漢戦争がはじまってからも、劉邦に従軍して、ともに滎陽を守った。劉邦の脱出後に紀信が項羽に殺された後も、周苛は魏王であった魏豹と、韓王信(漢の三傑の韓信とは別人)、樅公らとともに、滎陽に残って守り続けた。魏豹は一度は劉邦に降ったにも関わらず、劉邦が彭城の戦いで項羽に敗れた時に劉邦をだまして魏国を率いて離反し、その後、韓信に捕らえられた人物であり、捕らえられた後は劉邦に仕えていた。周苛は、「離反した国王とは、一緒に城を守ることはできない」と樅公と話し、一緒になって魏豹を殺害してしまう。周苛は韓王信・樅公とともに、8か月の間、項羽軍の猛攻をしのいで滎陽を守った(ただし、途中で南陽方面に劉邦が出撃し、項羽が滎陽の包囲を解いて劉邦攻撃に向かった事や彭越が項羽の背後を襲い、項羽が引き返して彭越を攻撃するような事もはさむ)。
やがて、項羽の軍は滎陽城を破り、周苛と樅公は捕らえられた。項羽は周苛を惜しんで、「私の将軍となるがいい。私はあなたを上将軍に任じ、三万戸を与えるだろう」と言って、降伏をうながしたが、周苛は項羽をののしって言った。「お前はすぐに漢王に降伏しろ。降伏しなければ、捕虜になるだけだ! お前は漢軍の敵ではない!」。項羽はいつも通り、怒り、周苛を煮殺した。また、樅公も処刑された。韓王信は項羽に降伏したが、後に逃げ帰って劉邦のもとに戻った。
劉邦は代わって、周昌を御史大夫に任じた。楚漢戦争の後、周苛の子である周成は、父が漢のために死んだことにより、高景侯に封じられた。功臣としての功績は第60位とされた(与えられた戸数は不明)。
靳彊(きんきょう)
靳彊は、劉邦は秦の本拠地である関中に向かっている時に、陳郡の陽夏県において、劉邦の軍に加わり、郎中騎に任じられ、千人を率いることとなった。鴻門の会においては、樊噲や夏侯嬰、紀信(紀成?)とともに、劉邦に従った。
項羽との戦いで功績をあげ、中尉に昇進し、鍾離眛を破った戦いで功績をあげた。論功行賞の時に、汾陽侯に封じられた。
なぜか、功臣としての順位は96位と鴻門の会に従った割には順位が低い。また、与えられた戸数は不明である。
楚漢戦争における劉邦配下の戦死者について
実は、史書における楚漢戦争において、劉邦に仕えた人物で確実な戦死が確認できるのは、上記の紀信、紀成、周苛、樅公の四名だけである。他には、曹無傷は劉邦による処刑であり、酈食其は田広や田横によって処刑され、奚涓(劉邦の功臣の中で功績第七位とされた人物)が楚漢戦争のどこかで戦死したらしい記録が残るだけである。
彭城の戦いでは、劉邦の父・劉太公や妻である呂雉が捕らえられ、河南王・申陽、殷王・司馬卬(司馬懿の先祖)が戦死しており、死者が数十万にも及ぶ敗戦であったのに、劉邦直属の部下で史書に名を残した人物の戦死者の姓名が確認できない。
戦死者は逃亡者との違いが分からないため、恩賞にあずかることはなく、記録に残らなかったとも考えられるが、その場合、滎陽を守り続け、降伏しなかった周苛はともかく、紀信や樅公すら、彼らに子がいなかったにせよ、親族に侯が与えられなかったにも関わらず、紀成のみが漢軍が一方的に攻勢であった関中の戦役による戦死により子の紀通が後を継ぐことができたのは不思議である。