リアル・ペイン 心の旅のレビュー・感想・評価
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痛みは天秤にかけられない
原題「A Real Pain」は、「面倒なやつ、困ったやつ」といった意味だ。
オープニングで空港のベンチに座るベンジーの横にこのタイトルが浮かぶ場面は、彼がその面倒なやつであることを示唆しているようでもあり、実際ツアーの序盤ではその通りの印象を受ける。
それがラストシーンで再び彼の面差しと共にこのタイトルを見る時には、直訳の「本当の痛み」の方の意味合いが色濃く浮かぶ。最初のタイトルコールと対になった演出が効いている。
多分多数派だと思うが、私もまたデヴィッド寄りの人間なので、彼がベンジーの奔放さに困惑する気持ちは手に取るように分かった。
ワルシャワ蜂起記念碑の前で、おどけた写真を撮るベンジーを不謹慎に思って小声で注意したら、意外と他のツアーメンバーもベンジーのノリに付き合いだすのを見て気後れするところなんかはすっかりデヴィッド目線になり、疎外感に胸の奥がヒリヒリした。
ルワンダ虐殺サバイバーのエロージュやガイドのジェームズとの間には気を揉むようなやり取りがあったのに、最終的にベンジーは好かれてしまう。一見不躾なのに、その裏にある率直さという美徳がちゃんと伝わるのは羨ましい個性だ。
自由なベンジーの横にいると余計に自分の不器用さが際立って惨めな気分になる。一方で、彼がほんの数ヶ月前にオーバードーズ(OD)で生死の境を彷徨ったことも知っている。そんなデヴィッドは、好意や羨望に憎しみまでも入り混じった複雑な感情をベンジーに抱く。
だが、ベンジーの目にはデヴィッドの生き方の方が自分の人生よりよほど眩しかったのではないだろうか。行きの飛行機でデヴィッドの仕事をからかった時や、彼の家族の話を聞いている時、ベンジーはどこか寂しげだった。
対人関係は不器用であっても、デヴィッドには定職があり、家に帰れば愛しい妻とかわいい我が子がいる。
自分の家に会いに来るよう請うベンジーに、デヴィッドはベンジーの方がニューヨークに来ればいいのにと返す。でも多分、デヴィッドの幸せな家庭を見ることはベンジーにとって辛いことなのだ。
ラストシーンを見る頃、私はいつの間にかベンジーの目線になっていた。
こうした2人の男性それぞれの生きづらさが、ホロコースト史跡ツアーの道程と共に描かれる。
ツアーメンバーとの夕食の席で、デヴィッドはベンジーについて「祖母がホロコーストを生き延びた結果奇跡的に僕たちは生まれたのに、あんなこと(OD)をしていいのか」といった主旨のことを言った。確かにホロコーストは近代で他に類を見ないほどの圧倒的な「痛み」だ。その痛みを前にすれば現代人のパーソナルな苦悩は、一見ちっぽけなもののようでもある。
デヴィッドの言葉は、祖母のルーツを尊重する思いから出たものだろう。だが一方でこれは苦悩を抱える本人にとってはあまり役立たない論理だ。むしろ、ホロコーストの苦難に時間の隔たりを超えて全霊で感情移入する敏感さを持つからこそ、ベンジーは生きづらさに苦しんでいる。
「本当の痛み」は主観的なものであり、別の悲劇と比べたからといって卑小になったり偽物になるわけではない。
この物語がありがちな結末を迎えるとしたら、別れ際の2人の明るい表情で終わることだろう。だが実際は、あたたかい家庭に帰るデヴィッドと、そのまま空港に残るベンジーが対照的に描かれた。
旅の始まりでは待ち合わせ時間の何時間も前から空港に来ていて、旅の最後の別れ際にはしばらく空港に残ると言ったベンジー。元の日常で彼を待っている孤独との再会をしばし先送りにしているような、憂いを含んだ眼差しに胸が締め付けられる。
旅の経験は確かにこれからのベンジーにとって支えになるだろう。でも、彼の苦悩が即座に消えるわけではない。結局は旅の後の日常で、ひとりで地道に折り合いをつけてゆかなければならない。Real Painとはそういうものだ。
そんなことを思わせる、まさに現実的なラストシーンだった。
重いテーマの作品だが、全編を彩るショパンを聴きながらデヴィッドたちが訪れる史跡を順番に見ているうちに、ツアーに同行してポーランドを巡っているような気持ちになる。また、基本的にデヴィッドとベンジーのやり取りは軽やかで時にユーモアがあり、物語に親しみを感じさせてくれる。
人の心の痛みというものについてやわらかに問いかけ、安直ではないラストでその問いを問いのまま観客の心に残す。繊細で率直な誰かとしばらく過ごした後のような、不思議な余韻の残る映画だった。
ホロコーストの孫たち巡礼の旅
ユダヤ人としての自分、個としての自分、その二つのアイデンティのはざまで揺れ動く主人公。従兄弟のベンジーはもう一人の自分、ベンジーのように自由でいたいと思う反面、ユダヤ人として恥ずかしくない人生を送らねばならないと思う自分もいる。自由な人生、しかし堕落した人生、ユダヤ人として恥ずかしくない人生。どう生きるべきか主人公のその抱える心の葛藤そして心の変遷が描かれる。これは主人公がたどる心の旅。
作品冒頭、空港で待ち合わせをするベンジーに頻繫に留守電を入れまくるデヴィッドの姿は明らかに常軌を逸してる。彼は強迫性障害を患っている、でもなんとか病気と折り合いをつけながらちゃんと職を持ち家庭も築いている。
従兄弟同士のベンジーと祖母が亡くなったのを機に彼らのルーツの地であるポーランドへの慰霊の旅へ。しかしそこはホロコーストが行われた地でもあった。
ベンジーもデヴィッド同様やたら落ち着きがなく、空港で再開した二人は終始のべつまくなしにしゃべり続けていて見ている方が落ち着かなくなるほど。この冒頭で彼らがどういう人間かがよくわかる。まるで正反対の性格のようで似た者同士でもある二人。
物語は祖母の慰霊の旅であるとともに先祖たちユダヤ民族がたどった受難の地の巡礼の旅でもあった。それはホロコーストの旅、と言ってもそんな仰々しいものではなくいわゆる歴史見学ツアーだ。その参加者たちはツアーガイドを除けばみながユダヤ人、ルワンダ難民の青年も虐殺を乗り越えて改宗したユダヤ人だった。
旅は最初でこそあくまでもゆかりの地を巡る気楽なツアーでみながモニュメントの前で各々ポーズをとって楽しんだり、地元の料理を楽しんだりと和気あいあいと進行する。参加者同士で次第に会話も弾み互いの関係を深めていく。
だがツアーが進みホロコーストの深奥に迫るにつれて空気は重たくなる。情緒不安定なベンジーへの影響は特に顕著だ。列車の特等席にいることに違和感を抱くベンジー。この列者が今向かうのは収容所への道だと考えると居ても立っても居られない、皆なぜ平然としていられるんだと。過去の我々の先祖が同じ道を貨物車にぎゅうぎゅう詰めにされた光景が彼には浮かんだという。彼の破天荒な行動に巻き込まれるデヴィッド。旅は何が起きるかわからない、そんな旅の醍醐味を味わいつつもベンジーの行動に振り回されてる自分がいた。
今回の旅はお互いのことに向き合う旅でもあった。睡眠薬を多量摂取したベンジーになぜだと問いかけるデヴィッド。幼いころから兄弟のように育った彼の現在の変わりように落胆を隠せない。定職にもつかず家族も持たない、これからの人生の展望もない。自分は強迫性障害を患いながらも人並みの生活を築いているというのに。
ベンジーが好き放題でやたらとツアーの雰囲気を台無しにする、そんな同じツアー客たちにデヴィッドは謝罪も込めてベンジーのことを語り始める。
とても自分本位で周りを乱す奴だが、同時に周りの雰囲気を和ませてくれる愛すべき存在でもあり彼のようになりたいと思う反面、時にはこの世から消し去りたい存在でもあるという。
憧れの存在でもあり時には殺したいと思う存在、自分にとってかけがえのない存在、それは彼の中に住むもう一人の自分なのではないか。このアンビバレントなベンジーの存在はデヴィッドの内面をそのまま反映しているのかもしれない。そしてそれはそのままユダヤ人としての彼のルーツと関係しているのかもしれない。ユダヤ人という悲しい歴史を持つ民族、その十字架を背負って生きていかねばならない宿命、その宿命を受け入れつつ逆にその宿命から解放されたい二つの相反する気持ちを具現化した存在がベンジーであり、彼との旅は自分自身を見つめなおす旅でもある。
自分の思うことを遠慮なく言いたい、自分の思うがまま自由に生きたい、でもユダヤ人として生まれてきた自分。自分は受難を乗り越えてかろうじて生き延びてきた先人たちの子孫としてふさわしい生き方をできているのだろうか、いつも自問自答する、常にその考えが頭から離れない。ユダヤ人として生まれてこなければこんな考えに支配されずに済んだはず。ありのままの自分でいたい、ユダヤ人とは関係なく生きていきたい。ユダヤ教にもあまり興味がない、ルワンダ難民の彼の熱い言葉も一歩引いて聞いていた。時にはユダヤ人としての自分を消し去りたいとも思う。
思えばベンジーが旅の中でとった行動はすべてデヴィッドの願望を代弁していたのかもしれない。モニュメントの前ではしゃぎたいと思いながら自分は平静を装う、ほんとは自分もポーズをとりたかった。でも先祖の過去の受難を思えばどこかで不謹慎だとの考えもあった。歴史ツアーだが現地ポーランドの人々との交流もないことに注文を無遠慮にぶつけたかった、特等席で自分も感じた違和感、そして収容所見学の後の精神的な落ち込み。これはすべてデヴィッド自身の感情をその分身のベンジーを通して描いてるのではないか。ベンジーの自殺未遂の話もデヴィッドの中にある自殺願望を表してるのかもしれない。
なぜにここまでデヴィッドがユダヤ人としての重荷を背負わされるのか。ホロコーストから辛うじて生き延びた人々が元の故郷に戻ってみれば自分たちの家にはすでに知らない誰かが住んでいる、知り合いに預けていた財産もすべて売りさばかれていた。身分証も何もかも奪われ職や住居を探すのも一筋縄ではいかない。生活を何とか取り戻してもつねにまた誰かが押し入ってきてすべてを奪われ自分たちはどこかへ収容されてしまうという不安にさいなまれ続ける。そんなホロコースト一世たちの記憶は子孫にも受け継がれる。自分たちは常に今いる社会から排斥される存在、だから誰よりも力を身につけねば、誰よりもお金を儲けて豊かにならなければ、そうした考えが自然とユダヤ人の間に芽吹く。
デヴィッドも普段は普通に生活するうえでは自分がユダヤ人であることを特段意識せず暮らしている、しかし時折そのような不安が頭をよぎるはず。だからこそ自分たちは常にそれに備えなければならない、生き延びた人達の子孫として常に恥ずかしくない人生を送らねばならない、そんな強迫観念のようなものが心の奥底に潜んでいるのかもしれない。だからこそベンジーのような体たらくに憎悪を感じもし、逆にそんな自分のように縛られないような彼の人生をうらやましくも思う。
監督のアイゼンバーグ自身が強迫性障害を患う。本作は彼が妻と行った歴史ツアーの体験から着想を得て脚本を書いたいわば自伝的物語。
ベンジーは架空の人物であり、アイゼンバーグが自分の内面と向き合うために自分を映す鏡として創り出したのではないだろうか。
これは彼の巡礼の旅であると同時に自分自身を見つめなおす旅でもある。ユダヤ民族の家系に生まれたために生まれながらにして持たされた宿命、歴史的なジェノサイドを経験した不幸な民族、彼の親世代すなわちホロコーストの子供たちはその親たち大半が絶滅収容所で亡くなるか、かろうじて生き延びた人々。
生き延びた人々も生還を果たしたもののそのトラウマから逃れられず苦悩の日々を送った。その苦悩する親の姿を間近に見て育った子供達にもその親の影響が少なからずあり、中には神経症を患う人も多いという。
彼らのつらく生々しい記憶を歴史として冷静に見つめるにはまだまだいくつもの世代を重ねる必要があり、そしてそれがようやく歴史になりつつある世代がアイゼンバーグたちの世代。しかし歴史になればなったでその歴史を背負わなければならないという宿命。
彼の強迫性障害が彼個人のものなのかユダヤ人として生まれ先祖の苦しみから受け継がれたものからくるものなのかはわからないが、しかし彼個人の悩みとは別にユダヤ民族としての歴史の重圧も彼の体には重くのしかかる。それだけホロコーストが与えた影響は根深いものがあった。原爆による放射線被害が孫子の代まで引き継がれるようにそのトラウマは数世代を経ても残留し続ける。彼らのその痛みの記憶が歴史となるにはまだまだ時間が必要かもしれない。
今年がちょうどアウシュヴィッツ解放から80年の年で六つの収容所が建てられたポーランドでは式典が行われた。ポーランドの大統領はスピーチで自分たちは記憶の守護者だと述べた。忌まわしい記憶が込められた収容所を人類が犯した過ちの象徴として守っていくのだと。当事者のユダヤ人たちにとっては痛みの記憶を和らげるためにもその記憶が歴史になることが望ましいが、我々は歴史ではなく記憶としてとどめるべきだという。犠牲者である人々の痛みを完全に理解することはできない、しかしそばで寄り添うことはできる、悲しみの記憶を後世に受け継いでいくことで。
本作はユダヤ人としてのアイデンティと個としてのアイデンティとの間で揺れ動くアイゼンバーグ自身の心の変遷をたどる物語。
ベンジーのお前のきれいな足先が好きだという言葉、自分の足先をじっと見つめるデヴィッド、これは僕の足先、それは唯一無二のもの。ユダヤ人でもなく誰のものでもない。
この旅を通して自分のこれからの人生をどう切り開いていくのか何かを確かに自分のものとしたデヴィッド。
アイゼンバーグがポーランドの市民権を取ったという記事を読んだ。ポーランドは絶滅収容所が建設されそこで少なからずホロコーストへの加担もなされた、また戦後の3月事件によるユダヤ人排斥運動などユダヤ人との確執がある。彼はそんな確執を埋めたいという。自分の親族はみなポーランドにゆかりがあるし、この地に愛着があるからだという。
過去のわだかまりを捨ててポーランド市民となったアイゼンバーグにはもはや迷いはなくなったのだろう。本作のデヴィッドのように。
彼はきっとデヴィッドたちがこの旅を通して自分を見つめなおすことでこの先の人生の道を切り開いたように心の旅を経て今に至りこの映画を撮影したんだろう。
題名のリアルペインが表すように主人公達の実にリアルな心情が伝わってくる人間ドラマだった。
映画はベンジーとの空港での待ち合わせに始まり空港での別れで終わる。あくまでもベンジーは旅の同伴者であり、彼のプライベートは一切描かれない。まるで今回の旅のためだけに存在した旅のお守りのような。それは監督の創作による人物だから旅の始まりで生まれ旅の終わりで姿を消すのは当然かもしれない。ベンジーは旅でデヴィッドを振り回したかのようで実は彼の中に住むもう一人の旅の道連れ、モーセがエジプトから逃れるときに海を切り開いてくれたアロンの杖のようにデヴィッドの旅を常に支えてくれた存在、そして彼のこの先の人生を切り開いてくれた存在でもあった。
誰でも、困った自分を抱えて生きてる
主人公2人の其々のキャラクターに少しづつ自分にもあんな面ある、デイヴィット8.5対1.5ベンジー。人生に馴染めてるようで馴染めない、困った自分がチョイチョイ顔を出す。2人のロードムービーの設定だけど、アイゼンバーグは人間の【心の穴】を表現したかったの?だとしたら表現うまいな、才能あるんだ、今後の作品に期待します。ベンジーが収容所の帰りのバスで泣いた場面、帰りの空港で2人キツく抱き合う場面、泣けてしまいました。
タイトルなし(ネタバレ)
デヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)とベンジー(キーラン・カルキン)はニューヨークに暮らすユダヤ人のいとこ同士。
ふたりは、先ごろ亡くなった祖母の遺言資金で、彼女の故郷・ポーランドの歴史ツアー旅行に参加することになった。
WEB広告制作で安定した家庭も持つデヴィッドに対して、他人を魅了するがエキセントリックで危うさを抱えたベンジー。
ツアーでの行動は、そんなふたりを物語っていた。
特に、ユダヤ人虐殺にからむ地への訪問では、ベンジーの行動は常軌を逸しているすれすれだった。
かれらはツアーを離れて祖母が暮らしていたポーランドの家を訪問する。
別の住人が住んでいるその部屋のドアの前に、訪れた印に石を置こうした・・・
といった物語。
ときおり常軌を逸するすれすれの行動をとるベンジーは少し前に自死をしようとしたことが中盤で明らかになる。
四十目前にして抱える生きづらさ。
センシティヴという言葉だけで片付けられないものがあるのかもしれないが、多くは描かれない。
映画全編を通じて、背景などそれほど多くは語られない。
が、多くは語られない中で、ちょっとしたこと(旅行で同じとか、飲み屋で隣り合わせとか)で知り合って事情を知ることは、日常の生活でも多い。
つまり、本作の観客は、そういう日常の隣人の立場でいることが求められている。
最終盤、自死を選ぼうとしたベンジーの左頬をデヴィッドは平手打ちで殴る。
ホロコーストの地の訪問や祖母の生家の訪問でベンジーは心に痛みを感じただろうが、お前が死のうとしたことで俺はもっと痛みを感じたのだというデヴィッドの主張。
頬の痛みのリアルな痛みは、俺の心の痛みだと伝えるデヴィッド。
ベンジー、お前を喪う方がどれだけ痛いか、わかってくれ。
そのリアルな痛みでベンジーは救われる。
演出的には、巻頭と巻末でタイトルが表示されるが、巻頭のそれはベンジーの右頬横(向かって左)に出るが、巻末では打たれた左頬横(向かって右)に出る。
簡潔な演出ですばらしい。
なお、のべつショパンのピアノ曲が劇伴以上に主張して鳴り響くのだが、ショパンがポーランド出身ということだけでなく、うるさいともいえる音楽はベンジーの心の不安定さを表しているのだろう。
ま、それにしてもうるさいことには変わりはないのだけれども。
ジェシー・アイゼンバーグ、かなり計算した演出力ですね。
隔世の感
「ソーシャルネットワーク」でザッカーバーグを演じてから15年。当時はベンジー側だったアイゼンバーグのまとも人間ぶりに戸惑いつつ、ポーランドの旅を楽しみました。上手いなぁと思うのが、誰しもデーブに共感しているであろうシチュエーションでベンジーが全てを持っていくという残酷なまでの反復。「変人を観察する」と言って空港に残った彼の表情が印象的でした。
とても良い
劇場で予告を見て気になっていた作品。
デヴィッドがひたすら留守電に状況報告し続ける冒頭のシーンで、すでにこれは好きだと確信。
テーマはかなり重いものだと思いますが、ピアノ音楽が心地よく、全体的にゆっくりと穏やかに時が流れるようなロードムービーで、心癒される時間でした。所々で笑わせてくれるのも良かった。
社会人になりきれず引きこもり(に近い)生活を送っている私は、ベンジーの行動や気持ちに共感できる部分が多く、完全にベンジーの視点から観ていました。
ベンジーのように素直で純粋で人の痛みが分かり、どこか子供のように無邪気で誰よりも優しい心をもった人は、大半の大人たちのように社会で生き延びることが難しいのだと思います。
一方でデヴィッドのように仕事があり幸せな家庭も築いて、辛いこともあるけど表には出さずに社会で生き抜いていくには、人(や自身)の痛みに鈍感になる、または気付いてもスルーするスキルが多少必要なのではと思います。
これは、ツアー初めの方でマーシャが深い悲しみを秘めた目をしていることに気付き、話しかけに行くベンジーと、そんな風には見えなかった、1人になりたいのでは、と話すデヴィッドにも表れているかと思います。
この旅を通してベンジーに心境の変化があったのか、この後ポジティブに人生を歩んでいくのか、それともまた自殺しようとしてしまうのか、エンディングからは読み取れないところもリアル。
この映画を観て、人の痛みを本当に理解することは難しい、そして理解できたとしても、他人の力でその痛みから解放してあげることは不可能に近いのではとさえ思いました。
でもだからこそ、家族や友人など周りの人が何か痛みや悲しみを抱えていれば気付いて味方になってあげられるよう、普段からもっと気にかけたり会話をしたりしよう、とリマインドしてくれているような気がします。
キーラン・カルキンの演技、本当に素晴らしくて最初から最後まで引き込まれました。ジェシー・アイゼンバーグも。特にレストランでベンジーが席を立っている間に本音があふれて止まらないシーンが印象的でした。
観る人によって捉え方が大きく変わってくる映画だと思うので、他の方のレビューも読んでみたいと思います。
デイブのアンビバレントな感情
ツアーから一日早く離れるシーン ガイドがベンジーとはハグして「指摘ありがとう、君に会えて良かった」と心通わせてるのに、自分とは「じゃあ」とだけのあっさりした離別。
離婚直後のマーシャに、気遣って声掛けない方がいいと遠慮してたのに、ベンジーは「マーシャと朝まで騒いでた」とあっさり打ち解けてる。
「あれ、コイツ問題児なのに、なんでこんなに人気あんの!?、俺は。。」というデイブの何とも言えない表情が印象的。
不可解、抵抗感、羨望、卑下そして根っこにある友情などがないまぜとなった感情描写が実に素晴らしい。
アイゼンバーグの確かな才能を確信。次作に期待してやまない。
ショパンの曲が良かった
ジェシー・アイゼンバーグを見てソーシャルネットワークを思い出し、懐かしかった。主人公二人の祖母や歴史、仕事、境遇、家族への複雑な思いに共感するが、旅の仲間とのやりとりやポーランドの美しさも楽しい。ショパンの曲が聴きなれないものも多かったが新鮮で良かった。
観たらきっと誰かと話したくなる。
すべてのシーンに意味があり、その伏線は自然体を持ってやわらかく回収されてゆく。ジェシー・アイゼンバーグ。この人の前監督作は見れなかったのだが、一気に共感。上手だなぁ。音楽の世界でいうとシンガーソングライター的な表現者か。
思えば、赤と青で始まる衣装からして分かりやすく対照的だった二人のスタンス。
そしてタイトルの「痛み」は「孤独」と読み替えられるだろうか。
主人公のベンジーは、空港ロビーに行き交う変人を眺めるのが好きという、現在過去あらゆる人間、社会そのものが家族と言えそうな男。
もう一人の主人公、ザ・コミュ障のデヴィッドは、社会はあくまで「外の他人」。内なるファミリーこそがかけがえの無い家族だ。
その両極端を俯瞰する面白さ。
超コミュ力のベンジーに実は自◯未遂経験があることが知れた物語中盤から、それまでストレートだったロードムービーに「ゆらぎ」を掛けていく。
お墓に石ころを積むアレも、意味合いの持たせ方として最高だった。追って2回それを回収するが、いずれも、寡黙なデヴィッドの気持ちを饒舌に語らせることに成功していた。
元おばあちゃん家で石を置こうと言い出したのはデヴィッド。ベンジーにスタンスを寄せた努力を垣間見せた。
また、ラストシーンではその時の石を自宅玄関の外に置くのだ。これは石≒ベンジー。ここから中はデヴィッドの世界ということだね。これを理解していたベンジーは、旅の別れに感極まっても食事への誘いを断ったのだ。
孤独だから、ニンゲンみな家族。そう考えよう、いや考えるべきという自己脅迫的な思考によって、ベンジーは生きる意味を見つけたか。だから「もう大丈夫」なのか。
***
キーランの演出、パフォーマンスがキラキラと光る。最後のハッパ一本。「吸わないならくれよ」と大事がっていたはずなのに、デヴィッドから過去を責められ、吸うことも忘れてしまっている…これは絶品だった。
物語のラスト、空港で暫しの別れ。
「じゃあな」「またな」からのデヴィッド強烈ビンタ、パチーン!
いやコレ僕、笑っちゃって周りの席の方ホントスミマセン😂ベンジー『…なんで?』ってこれ中川家のなんで?シリーズかよ。※ご存知ない方はYouTubeで中川家なんで?でご検索
ふざけたレビューで申し訳ないが、このビンタ一発は本当に最高のシーン。作品のユーモア向上もそうだが、何と言っても真逆な2人の精神の志向性・他者に求めたいものが、互いに満たされた瞬間と思った。互い存在の大切さを認め合うに至るのだ。
二人の小さな旅はここにシュリンクした。
お見事。まったくもってお見事なストーリーである。
キツーく抱擁を交わす二人。
私はその二人を抱きしめたいような気持ちになった。
誰にも言えない痛みを抱えながら、それでも人生は続いていく
旅好きの私にとって、ようやく「観たい!」と思える映画が公開された。
40代を迎えた従兄弟のデヴィッドとベンジー。幼い頃は兄弟のように育った二人も、大人になった今ではすっかり疎遠になっている。デヴィッドは、破天荒でトラブルメーカーなベンジーに振り回されながらも、どこか羨ましく思っている。一方のベンジーは、周囲には陽気にふるまうものの、実は誰よりも繊細で、人の痛みに敏感な一面を持っている。
そんな二人が、亡き祖母の遺言によってポーランドのホロコーストツアーへと旅立つことに。歴史の重みを感じながら過ごす時間の中で、彼らはそれぞれが抱える不安や葛藤と向き合っていく。デヴィッドは軽度の強迫性障害に悩み、ベンジーもまた心に傷を抱えている。年齢を重ねることへの漠然とした不安、誰にも言えない心の痛み—それはきっと、誰にでも共感できるものではないだろうか。
人はそれぞれ違った「生きづらさ」を抱えて生きている。
「もっと大変な人がいる」と言われたとしても、自分の苦しみを他人と比べることはできない。でも、違う痛みを想像し、寄り添うことはできるはず。ショパンの旋律が静かに心を癒してくれるように、この映画もまた、観る人にそっと寄り添い、優しく語りかけてくれる。
軽妙なユーモアと、胸を打つ切なさが見事に共存する脚本。くすっと笑ったかと思えば、ふと心を揺さぶられる瞬間が訪れ、気づけば深く考えさせられている。
旅の醍醐味とは、美しい景色や美味しい食事を楽しむことだけではない。そこで生まれる出会いや経験が、私たちの心に刻まれることこそが、旅の本当の意味なのだと思う。デヴィッドとベンジーにとっても、この旅は祖母との思い出を辿るだけのものではなく、自分自身を見つめ直す時間になったのだろう。
観終わったあと、そんな「心の旅」について考えずにはいられない作品だ。
バカリズムさんの脚本みたいな映画(笑)
【ポーランド3日間 ユダヤ人強制収容所見学、英語話者の歴史専門家によるガイド付き、ワルシャワ現地集合】
このツアーに参加したアメリカ人の中年男性2人(いとこ同士)が主人公。出発する空港での待ち合わせから、ふたりのキャラの違いが浮き彫りにされる。道路の渋滞で乗り遅れそう!と必死にベンジーのスマホにメッセージをひたすら送り続けるデヴィッドと、それに全く気づかないベンジー
飛行機で一睡も出来ず、ようやく到着したワルシャワのホテルでシャワーでも浴びようとするデヴィッドと、半ば横入り的にデヴィッドのスマホを奪い、彼のスマホで音楽を聴きながら先にシャワーを浴びるベンジー
(そしてスマホが水没…かなと思ったけど、そこはセーフ)
ホテルロビーでのツアー同行者との顔合わせ。強制収容所見学も組み込まれたツアーだけに、何故このツアーに参加したかをそれぞれが自己紹介とともに語る
外国の団体ツアーってそうなんだ!と発見。日本の団体ツアーは参加者同士の横の繋がりを促すイベントは無い。添乗員が旅行の注意点をそれぞれに集合した時点で説明するだけ
確かに横の繋がりって、日本人の気質から言って面倒に思うけど、最低限メンバーのプロフィールくらい知っておきたいとも思う(個人的見解)
ゲットー蜂起を称えた大きな像の前での記念写真、それを各々のスマホで撮影する羽目になったデヴィッド(笑)
昼食時、デヴィッド以外がひとつのテーブルに付いて、何となく仲間外れみたいになった時、サッとデヴィッドの真向かいに座って食事を始めるベンジー
「あっちに座るかと思った」
「…え?なんで(笑)」
こういうことって、結構ある
ひとつひとつは大したエピソードではないけど、そうだな〜、バカリズムさんの脚本(ホットスポット)みたいだな
凄い事件が起きるわけではないけど、ちょっとしたニュアンスの連続でふたりの交流が描かれる
ラスト、二人で訪ねたおばあちゃんが暮らした家も、感動のエピソードがある訳でなく。むしろちょっとした行き違いが生じるくらいで、泣けるようなシーンもなく、むしろ後半はちょっと眠くなったくらい
強制収容所に行く為の列車の一等車、動物が乗る貨車に押し込められて運ばれた先人達の労苦を思えば、乗りたくない!と拒否
ユダヤの偉大な故人の墓の訪問には、その歴史や背景を表す数字より、故人に思いを馳せることが必要なんだ!とブチ切れる
列車で眠りこけたデヴィッドが寝ぼけて間違えて、違う駅で下車しても止めなかったり
ベンジーの周りを困惑させるエピソードは数しれず
でも彼の、人の懐にするりと入り込むキャラクターゆえに、嫌われずに済むギリギリの人生だったんだろうなと推察、イヤ、日本だったら確実に迷惑な奴認定されるな
強制収容所見学シーンはそんなに時間をかけていない。感傷的になるような演出もなく、そういう背景の施設が今も遺されていること、遺された大量の靴がその主がいたことを教えてくれる
感動作ではない
わたしはちょっと眠くなったくらいだし
ツアー参加者とのふれあいで、何か特別なストーリー展開が生まれるわけでもなく
帰国して、デヴィッドは家族の待つ家へ
家に持ち帰った小石、彼はじきにその存在を忘れてしまうのだろうし
ベンジーは空港の待合室でもう少し人間観察する、と残って
淡々と終わる映画だけど
何かを心に遺してくれる映画
ふと気づくと、玄関の前に転がっている小石のように
しんどくても自分を抱えて生きる
個人的な思い出として、昔ワルシャワに数日間滞在したことがあり、自分の思い出を辿ることができたら、と思って映画を見ました。
ずいぶんと考えさせられる映画でした。
主人公のデヴィッドは映画冒頭で空港へ向かうタクシーの中から繰り返し繰り返し、旅の相棒である従兄弟のベンジーに電話をします。電話をするデヴィッドが神経質な危ない人に見えたのですが、話が進むにつれてデヴィッドは普通の人で、相手のベンジーの方が問題であることが判ります。
ポーランドでのナチスによるユダヤ人迫害を知るツアーで、デヴィッドはベンジーに振り回され続けます。ベンジーは自分の感情に正直な人で、ツアー参加者と衝突しそうになりながらも、正直であるがゆえに人を惹きつけ、愛される魅力を持ちます。
ツアー参加者と別れるシーンで、彼らはベンジーに感謝し別れを惜しみ、一方のデヴィッドにはベンジーのオマケのような対応をします。
その日の前の夕食のシーンで、デヴィッドはベンジーに対して持っている感情をツアー参加者に明かしますが、それは嫉妬と羨望が入り混じった複雑なもの。自分の感情を赤裸々に表現したのですが、ベンジーがピアノを弾き始め、注目を持っていってしまいます。
それでもデヴィッドはベンジーと葉っぱを吹かし、おばあさんの家でベンジーを真似て石を置き、旅の終わりではベンジーを自宅に招き、ベンジーの心に近づこうとします。
ベンジーとの旅で傷つくこともあったものの、思い出を作ったデヴィッドは家族の待つ家に戻り、旅を終えます。
一方のベンジーは、映画の終わりで一人空港に佇み笑顔を浮かべます。
ベンジーはまた、一人に戻ってしまったのです。
ツアー参加者を楽しませ感謝されたベンジーでしたが、旅を強く印象付ける存在としてありがたい、でも彼のような存在は日常生活で刺激が強すぎ、疲れてしまうのです。
ベンジーと辛抱強く付き合ってくれるのは、亡くなったおばあさんとデヴィッドだけ。
デヴィッドから家に誘われても、デヴィッドの家族を苛立たせて関係を壊してしまいそうだから訪問を断った、自ら孤独を選ばなければいけないのがベンジーの日常であり、彼が抱えている苦悩なのでしょう。
映画ラストのベンジーの笑顔は、自己憐憫の気持ちが表れていたように思います。
傷つけ合いながらも相手を思いやる、生きていくのは切ないものだ、そんな気持ちになりました。
「今ある痛み」には鈍感な主人公
・終わり方が雑
主人公が成長したわけでも変化したわけでもなく、空港でニヤニヤ「変人観察」をするというラスト。「痛み」は? 他者や過去、さまざまなルーツに対するリスペクトは? 主題を小馬鹿にするようなラストに疑問を感じる
・ストーリーの起伏がない。内容に比して長い
心の旅を描いていることは理解したが、ストーリーの起伏のなさや主人公の情緒不安定さについていけず。
・「今ある痛み」には鈍感
主人公は周囲に対して、過去の出来事や自分が感じたい痛みには敏感であるが、自分の目に映らない現実には鈍感である(感傷から玄関扉の前に石を置いたりはするが、そこで生活する人の日常の危険には鈍感)
総じて、脚本が失敗している。
もし真面目な作品にしたいのであれば、よりテーマを強調して扱うべきだし、コメディにしたいならより登場人物のからみや魅了を引き出すべき。
同じテーマを扱うなら、ドキュメンタリーで撮る方が有意義だと思う
コメディにちらっと覗く痛みの描写がうまい
ベンジー役のキーラン・カルキンは、マコーレー・カルキンの弟らしい。そういわれれば似てる。
ガイド役のウィル・シャープは、「エマニュエル(2024)」で欲望が枯れたというケイ・シノハラを演じた人なんだけど、映画監督でもあるんだね。
字幕翻訳は松浦美奈さん。『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』から二連続。
兄弟のように育ったいとこ同士のデイヴとベンジーだけど、近頃は疎遠だった。どうやら40過ぎらしい。わたしと同世代。亡くなったおばあちゃんの遺言で、彼女の故郷ポーランド行きのツアー旅行に参加する。英国人ガイド(非ユダヤ系)が主催?するツアーで、ソマリア虐殺をサバイブしてユダヤ教徒になった人や、最近離婚したアメリカ人女性や、テキサス?のアメリカ人夫婦と、強制収容所や墓地を巡る。
ベンジーは明るくて陽気なんだけど、躁鬱ぽいってゆうか、不安定な感じがする人。
デイヴは常識的なふるまいをする人だけど、こちらも何らかの薬を飲んでいるし(のちにOCDとわかる)人付き合いは苦手そう。
ベンジーは人好きするらしく、みんな振り回されるけど二人を比べると、ベンジーの方が好かれる。デイヴはそれをわかっているので、憧れつつも、自分にないものを持っているのに何であんなことした?という言うに言えない気持ちがある。
どうやら、ベンジーは数か月まえに睡眠薬の過剰摂取をしているらしい。
定職もないっぽく、母親の家の地下で暮らしている。
いとこに限らず、兄弟や友人でもありうる、愛憎入り混じるふたりの関係が、わざとらしくなくさりげなーく描かれていて、とてもいいと思った。
主軸は、”本当の痛み”を抱えながら生きているいとこ同士のロードムービーであり、ポーランドのユダヤ人の歴史をなぞるロードムービーでもある。金は金持ちのヘロインだからとか、数字や事実は控えめにして人と繋がるべき(どっちも言い回しはうろ覚え)とか、セリフも強くてよかった。
墓地に石を置くがなんなのかはじめはわからなかったけど、ユダヤの習慣で、墓地に来たよと死者に伝えるための風習との事。おばあちゃんのかつての家のまえで、2人が石を置いてたら、地元の人に、住んでる高齢女性がケガするからやめれって言われるところで判明した。
基本はコメディなんだけど、ほろっとしたり、ちくっとしたりする。
笑いのなかに、差し挟まれるささやかな痛みの描写が、うまいと思った。
劇伴はほぼショパンのピアノ。
ベンジーが弾いたのはショパンじゃなくて「TEA FOR TWO」。
空港でぼーっとするベンジーで始まり、再び空港でぼーっとするベンジーで終わる物語。
何がベンジーを悲しませるのかは描かれない。
たぶんそれは、人とわかちあっても癒えることのないなにか。
自分だけが感じて生きるなにか。
しんみりと
ジェシーアイゼンバーグが、監督、脚本、主演 カルキン君の弟のキーランカルキンと従兄弟を演じる。
彼らのルーツであるポーランドへのユダヤ収容所巡りツアーを参加 亡くなった祖母の家も見に行く。
対象的な2人の心の旅です。他の参加者の皆様も個性的でした。ラストはまたそれぞれの世界へ
ベンジーのパーカー
2人のいとこ同士のロードムービー。祖母の育った場所、ルーツに向かう。
冒頭から最後まで、ショパンの曲にも惹き込まれます。
なんとなく危なかしいベンジーの性格が、あの黒くて所々に脱色した変わったパーカーにとても表れていた気がしました。
空港で始まり、空港でおわる。
ラストシーン、2人が空港で別れた後のベンジーの時間の過ごし方が、とても良かったです◎
ユダヤ人の風習でお墓に敬意を払って石を積むのは、『シンドラーのリスト』でも観たことがあり、懐かしく思い出しました。
自分と出会う旅
ポーランドってなんて美しい国なんだろう、『リアル・ペイン心の旅』では、そう思ってしまう。旅を通じた大人になる旅なんでしょうか、子供のままで大人になってしまった40男のお話です。けっしてイスラエル人の過去の悲惨な歴史との関係を探ることのないように。
ニューヨークに住むイスラエル人
知的レベルが高くて。
しっかりした教育受けていて。
なんだけど、とっても落ち着きのない40歳を過ぎた、従兄弟どおし。
アメリカのイスラエル人というのが、よく伝わってくる。
心に、余裕がないのだ。
十分満たされているのに。
片方は、家庭を持っているが。
もう片方は、最愛の祖母の死を受け入れられず、自殺未遂。
その祖母の遺言で、祖母のかつて住んでいた、ポーランドを旅するふたり。
問題なのは、自殺未遂をしたほう。
マザコン、いやグランドマザコンとでもいいますか。
ポーランドを旅している気分にしてくれる。
この映画の素敵なところですが。
問題の自殺未遂をしたほう。
ツアーなのに、他の客を巻き込んで、迷惑を。
この御仁、感受性がとても強くて。
人の痛みも自分の痛みとして、強く感じるタイプ。
だから、ポーランドで旅行するときも、列車の一等車に乗っていることが、気に食わない。
ホロコーストに向かう、この路線で、過去の苦しみを感じると。
とても、一等車でのうのうとしてられないと。
それは、そう感じるのはその人の自由なんですが。
この方の問題は、一人黙って二等車に移ればいいものを。
他のツアー客を不愉快にさせながらという点。
つまり、周りを巻き込むタイプ。
どうも、祖母なき後は引きこもりのよう。
いい子をやっている人の典型。
大人になりきれない大人を見ている気分になる。
太宰治や尾崎豊のような人。
いや、この二人ならまだ、小説や歌に表現することで、承認欲求がみたされるからいいんだけど。
でも、最後は悲惨な結末ですね。
芸術家でもない普通の人は、生きづらいと。
だから、自殺未遂をするわけですが。
豊かさが、引き起こす副産物
ホロコーストに向かう人々は、彼のように悩んでられなかったでしょ。
生への渇望、僅かな希望と大きな絶望。
彼のように、感傷に揺さぶれる暇などない。
彼は、大人になりきれてない。
祖母の庇護の中で、世の中のストレスから逃げてきただけ。
その祖母が、なくなり自分を守ってくれるものがなくなった。
それが、自殺未遂の原因だろうなと。
ニューヨーク、アメリカという過酷な社会もそれを加速したのかも。
このような人を自己愛性パーソナリティ障害とか、境界型パーソナリティ障害と。
でも、世の中の矛盾とかストレートに表現するから。
人々に共感されたり、愛されたりするのも事実。
でも、尾崎豊が、「十五の夜」で歌っているように。
「自由になれた気がした十五の夜」
つまり、本当の自由を手に入れたわけではない。
それが、本人にわかるから、絶望的になるわけで。
ユダヤ人の悲しい歴史と彼の現在は、別物。
映画の主題は、自己アイデンティティーの確立かな。
確かに、ユダヤ人の悲しい歴史は、祖母を通じて聞かされていただろうし。
でも、その事と現在の彼のありようは、分けて考えるべきだと。
この彼の悩みは、かつては、十代や二十代前半の特有のものだし。
それが、やがて三十代へと。
それが、映画の彼は、四十代である。
社会性は備わっていそうだから、やっては行かれるだろうけど。
結構険しい道のりだろうなと。
その逃げ場が、薬や酒、ギャンブルにならなければいいけど。
そんな彼が、社会に戻ってゆくだろうと感じさせるラストで終わっているのが、幸いか。
でも、彼が、このツアーで、ある程度旅仲間から受け入れられたのは。
あくまでも、その人たちが深みのある、大人たちだったという点と。
旅という、非日常の空間だったということに過ぎないと。
となると、現実社会で彼を待ち受けているのは。
そう容易いことではないな。
なるべく若いうちに、家族以外の社会と関わろう。
ストレートに感動できる作品ではない
真面目で余裕がなさそうに生きている主人公と空気など読まずに好き勝手に生きる従兄弟が、彼らのルーツであるポーランドのツアーに参加する様子を描いた映画。
タイトルが「リアル・ペイン」であることから、これこそが制作陣の狙いかもしれないが、主人公と従兄弟に対する共感性羞恥に似た苦い感情を強く覚え、観ていてやや苦痛を感じる作品だった。
そこで何が行われたのかを知ることも大事だが、その空気から何を感じるのかも大事なのことだと思う
2025.2.5 字幕 TOHOシネマズくずはモール
2024年のアメリカ映画(90分、G)
祖母の生家に向かうユダヤ人のいとこ二人を描いたロードムービー
監督&脚本はジェシー・アイゼンバーグ
原題は『A Real Pain』で、直訳は「本当の痛み」、スラングは「困った奴、面倒くさい奴」という意味
物語は、NYからポーランドに向かうユダヤ人のベンジー(キーラン・カルキン)と、そのいとこ・デヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)が描かれて始まる
出発の2時間前にチェックインをしたベンジーは、ずっと変人観察を続けていて、デヴィッドの電話には一切出なかった
その後、なんとかワルシャワに着いた二人は、そこでツアーガイドのジェームズ(ウィル・シャープ)たちと合流することになった
二人が参加するのは「ホロコースト歴史訪問ツアー」で、参加者はユダヤ人老夫婦のマーク(ダニエル・オレスケス)とダイアン(ライザ・ザトビ)、離婚直後のルーツ探しをするマーシャ(ジェニファー・グレイ)、ボスニアの大虐殺を生き抜いてユダヤ教に改宗したエロージュ(カート・エジアイアワン)たちだった
ジェームズもホロコーストの経験者でもユダヤ人でもなかったが、彼らの生き方に興味を持っている存在だった
彼らは、ワルシャワを皮切りに、最終的にはマイダネク強制収容所に向かうことになっていた
そんな道中にて、いろんな歴史の爪痕を見学していくことになるのだが、ベンジーだけは「ツアー」に違和感を感じていた
それは、歴史と統計を強調し過ぎているというもので、現在のポーランドとの関わりがほとんどないというものだった
ジェームズにもツアーを初めて5年のキャリアがあり反論するものの、とりあえずはベンジーのアドバイスに従って、説明を少なくすることに努めていった
物語は、レンジーの自殺未遂半年後という時期で、ツアーに申し込んだのはデヴィッドの方だった
彼は、レンジーを元気づけるためにツアーへの参加を促し、祖母の生家と対面することで何かが変わるのではと思っていた
実際に何が変わったのかはわからないものの、レンジーの存在は参加者のマインドを少しずつ変えていた
別れる前夜のレストランでの出来事はそれぞれの心に深く刻まれていて、ベンジーとデヴィッドの本当の痛みとは何なのかを追体験するようでもあった
ベンジーはかなり多感な人間で、収容所に立ち寄った後のバンの中では、他の人が普通に談笑しているのにも関わらず、一人で何かに祈りを捧げていた
デヴィッドはここまで命に寄り添えるのに、どうして自殺騒動を起こしたかが不思議に思えていた
だが、ベンジーとデヴィッドが感じる「痛み」には違いがあって、種類も違えば、受け止め方も違っていたのである
ユダヤ人の慣習として、お墓参りに行った際に石を置くというのがあって、ラストでは祖母の生家の玄関先に石を置くことになった
近隣住民からの苦言でそれをどけることになったのだが、デヴィッドはそれを持ち帰って家の中に置いていた
それは「来ましたよ」という合図から、「行ってきたよ」という合図に変わっていて、その石には祖母の記憶とベンジーとの思い出も刻まれているのではないだろうか
いずれにせよ、自分のルーツを探る時、多くの人が「自分の命が繋がっているという奇跡」を目の当たりにすると思う
もし、ホロコーストがなければ、ベンジーもデヴィッドもポーランドにいたかもしれないが、同時にこの世に存在していなかったかもしれない
自分の人生を生きているようでも、実際には長く受け継がれてきたものを次世代にバトンタッチをする役割を担っている
それでも、戦争などがなくても途絶えるものは途絶え、続くものは続いていく
そう言った生命の因果を鮮明に映し出しているのが、あのガス室の空気で、あの場所の生命を敏感に感じ取れるのがベンジーという人間なのかな、と感じた
二人の掛け合いが最高
観てよかった、じつに染みる佳作。
ナチスドイツによって親や祖父母が強制収容所へ送られ、戦後アメリカに移民したユダヤ人の子孫たちが、ポーランドのユダヤ人ゆかりの地を巡る「ホロコースト・ツアー」に参加し、参加者視点でそれぞれの胸の内を語っていく。
かつてのユダヤ人街(ゲットー)、墓地、反ナチスのレジスタンス運動を行った人々の銅像、そして強制収容所跡……
観光地となった土地を巡る中で、W主人公である従兄弟二人によって、現代40代アメリカ移民の生きづらさや、直面する悩みが露になっていく。
監督・脚本のアイゼンバーグが論理的で真面目だけど人見知りのデヴィッド、兄のマコーレー・カルキン主演『ホーム・アローン』で主人公のいとこ役を演じたキーラン・カルキンが奔放で自由な従兄弟ベンジーをそれぞれ熱演。
実際に真横にいたら迷惑極まりないベンジーですが、創作物の中なら面白いキャラ(そして実際にあちこちにいそうな人でもある)。
二人の掛け合いが最高で、これだけもう少し長く観ていたかった。
(ハッパ=マ〇ファナだけはいただけないけど)
万人向けではないけれども、40代以上、で肉親を亡くした経験のある人には薦めたくなった。
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