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頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

【固定記事】いとをかしき言葉のお話

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

 

 

 

言葉はその人自身

皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。

 

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。

発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。

 

 

という意味合いらしいです。

 

いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。

友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。

 

またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。

 

 

言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。

戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。

下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。

 

憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。

しかし今では当たり前となっています。

成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。

 

 

言霊

言霊の話に戻ります。

すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。

 

日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。

カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。

 

またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。

「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。

その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。

 

漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。

氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。

理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。

youtu.be

 

 

この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」

意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的です。

これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。

 

f:id:maro19930624:20201129152556p:plain

https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

 

中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。

ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。

ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。

 

 

同じ意味の漢字でも効果が違う?

なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。

GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でも國史と描写されています)。これは「自國の歴史ではないように刷り込ませる為」であったりするらしいです。

 

 

わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。

「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。

また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。

つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。

それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。

 

なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。

漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。

現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。

言語の統制話は華氏451度にも通じますね。

f:id:maro19930624:20201129160738p:plain

https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11955.html

 

このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

文字通り流れて行く言葉と、昔からある言葉

あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう。

でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉

 

またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。

最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。

12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。

ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。

 

わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。

高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねるのが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。

これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。

 

他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。

端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。

一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?

 

 

ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。

「精神的に向上心のない奴はばかだ」

 

もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。

その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」という言葉は根本から破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も國語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝

 

 

「無い物ねだり」という言葉があります。

『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。

不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。

不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。

フレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚

 

 

『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

真冬のゾッとするあくまでも憶測

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

この間わたしは森永卓郎さんの『書いてはいけない』という本を読みました。

書いてはいけない

書いてはいけない

Amazon

 

 

この書籍は故ジャニー喜多川氏の性加害問題と財務省の問題、日本航空123便の墜落事故(事故?)の三本柱+日航機の出来事があったことで日本経済がどうなったか、が書かれています。

 

誰が知っても怒り心頭だと思いますが、財務省では『増税を成功させると昇進される』そうです。

わたしは愕然としましたが、わたし自身が目の前で見聞きした話でもないですし、今回の話には関係がありませんので詳しくはご自身でお読みください。

 

 

書籍内でわたしがゾッとしたところは『ジャニーズ事務所の税金関係について他所で取材をしていた方が、直接ジャニーズ事務所から電話がかかってきた』というお話です。

あまりに恐ろしすぎて「こっわ!」と口走っていました。

 

 

そ、し、て。

ついこの間、思ったんですが、なんで税金の取材をしてた人に直接電話が行くんですかね?

これって税務署からジャニーズ事務所に連絡が行ったってことですよね。

じゃないと有り得ないですしね。

 

税務署は財務省が元締めなのだそうです。

 

 

それって、財務省とジャニーズはズブズブ…ってコト!?

 

 

あくまでも憶測です。

 

 

記事にはいつも関連タグを付けるわたくしですが、これについては付けません。

端的にビビってるのもあるし、こんなへんぴで酔狂なブログにも検閲が入るのかも氣になりますし。

 

でもあれですよね。

電話とかメールなどで連絡があればここに書きようがありますが、直接対面して "注意" を受けたらどうしようもないですよね。

あとシャドウバンです。

 

この記事だけ非公開にされてる。とか。

わたしには公開中と表示されるけど、実のところそうではない。

 

ひぇ〜。

 

冷〜。

 

 

皆様めっきり冬なので心身ともにお元氣でお過ごしください‪( ¨̮ )‬

 

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬

 

余剰は信頼へと変わる?

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回はつい先日に書いたことの派生みたいな話です。

 

 

とんとんじゃだめ

わたしはバンドが好きです。

ライヴも好きです。

ミュージシャンによってまちまちですが、チケットのお代は3,000圓からのお求めとなっております。

 

有名な方であればイッチ萬圓超えもざらではありません。

その理由は後で説明するとして。

 

 

いきなり本題になりますが、仮にチケット代が5,000圓として、演者は5,000圓分の演奏とパフォーマンスをすれば良いのでしょうか。

 

恐らく個々人各々に対してならばそれでも良いでしょう。

 

ですがそんなのでは駄目です。

 

それこそ『お金を稼ぐ時間も考慮しないといけない』ということです。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

ならば価値がいくらの演奏を意識すれば良いのか。

 

 

300人収容できるライヴハウスがソールドアウトだった場合、5,000×300=1,500,000となります。

150萬圓の売り上げ、そこからライヴハウスのレンタル料が三十萬圓だとしたら、純利益は120万圓。

 

百二〇萬圓を觀客数で割ると「4,000」となります。

 

本当に出鱈目な概算ですがこの4,000圓を上乗せした9,000圓分の演奏を意識しましょうね、ということです。

 

ですが、ここで書きました金額自体は、実は対して重要ではありません。

 

正直150萬圓の演奏を意識するのでも素晴らしいですし、舞台に立つ人ならそれくらいの氣概は必要でしょう。

「我は一億圓プレイヤー!」と思うくらいでも良い。

 

 

『金額は重要ではない』のであれば、何が重要なのか。

それは、觀客が払った金額を超過した分の余剰です。

上記の概算で言えば4,000圓の部分です。

 

 

觀客が5,000圓を支払い、演者は9,000圓の演奏を意識する。

觀客が9,000圓分として受け取ったなら、觀客は4,000圓分を得したことになります。

 

この『得』という余剰があるとどうして良いのか、どうして余剰がないといけないのか。

 

余剰が何に変わるのか、といえば、それは《信用》や《信頼》になります。

 

その《信用》や《信頼》があれば、觀客は「また觀たい」と思うのではないでしょうか。

 

舞台をビジネスとしたものは、觀客のリピートが非常に重要になってきます。

そのため「また觀たい」の《信頼》を得る為に「お!値段以上」と觀客が思うものを演者は提供しないといけない、少なくとも演者側はそういう氣概でいないといけないのです。

 

この余剰は〈感動〉と言い換えることも可能です。

 

 

演者自身の「また觀に来てほしい」という純粋な氣持ちが余剰を生み出すこともあるでしょう。

この余剰は受け手によっても変わりますよね。

 

演者が支払われた金額よりも良いものを提供する意識で演奏していたとしても、その演者のセンスが琴線に響かない人には余剰を感じる以前に損を感じるかも知れませんし、その演者のことがめちゃくちゃ好きなファンからすれば支払った金額の何倍もの余剰を感じることでしょう。

 

まぁ端的に言えば『てめえのベストを尽くせや』ということです。

 

 

何にでも当てはまるよ

さて、ここまで書いてきたことは何も舞台などのショービジネスに限ったものではありません。

聡明な皆様でございましたらお氣付きのことだと思いますけどね‪( ¨̮ )‬

 

一般的なビジネス、商品でも同じことですし、これは雇用をする側 / 雇用される側にも当てはまります。

 

わたしのこのブログをお読みいただいている方の中にも、経営者様がいらっしゃったりするのかもかも知れません。

 

経営者、雇用をする側の立場からしたらどのような労働者がいてほしいでしょうか。

 

程度はあると思いますが、『よく働いてくれる人』ではないでしょうか。

実際問題そうだと感じます。

 

三〇萬圓の給与に対して三〇萬圓分の働きをする人より、三十五萬圓分の働きをする人の方が重宝がられるでしょう(とはいえ、その人自身の健康の方が大事)。

 

この場合、給与に対して五萬圓が余剰となるわけですが、上記した『給与と同額の働きをする人』と『給与以上の働きをする人』ならどちらに新しい仕事を任せたいでしょうか。

きっと後者の方ではないでしょうか。

 

これが、【余剰が生む《信用》】というやつですよ。

 

 

めちゃ資本主義ですね‪( ¨̮ )‬

 

 

ちなみにわたしは雇用される側です。

前々から『雇用される側って結局は首根っこを捕まれてるってことなんだよな』と薄ぼんやり思っていましたが、ここ最近いよいよ雇用される側に厭氣が差してきました。

「組織運用について」とか、「世の『大人と自称している人』の殆どが中高生の延長を行なっていること」とかで、です。

金もらってるんだから公私を混同してんじゃねーっての。と思いますが、ここら辺の話は愚痴にしかならないので書きません。

 

 

薄っぺれ〜。

当然で一般的なことを得意顔で言ってんじゃねえっての。

 

正直、雇用される側の方が樂ではあると思います。

だって支配されてるんだから。

与えられたことをして一定の所得を得る、それはとても素晴らしいことです。

ですが、それって奴隷的な幸せでもあると思うんですね。

『上司の愚痴を言いながら管巻いているけどずっとその場に留まってる』って、それは有意義な時間で期間なのか、と、わたしは思っちゃうし。

 

とはいえ、まだまだ雇用される側だろうなぁ。

このブログみたいな内容だけ書いてお金をいただきたい。

そしてギターを弾き続けたい。

 

 

規模によって金額が変わるのは、そりゃあそう

ところで有名なミュージシャンであるとどうしてチケット代が高くなるのか、ですが、それは単純に事務所内外の人間が多く関わるからでしょうね。

 

広告費やら運搬費、特設会場ならその設営費などなどなどetc...etc...ですね。

 

また有名なミュージシャンともなれば事務所の顔でもあるでしょうし、そうなると稼ぎ頭となります。

給料(+著作権)制をとっている事務所であれば、所属したての若手もその若手のチーム自体も食わせないといけなかったりします。

そういった単純な人件費などから大人の事情が絡んだりしてチケット代は高くなったりするんですね。

 

しかし、ELLEGARDENthe HIATUS細美武士さんは「ライヴのチケットなんてお小遣いで買える金額じゃないとあかんじゃろがい!」と全く粋な考えを持って、自らが搬入出を行なっているなんて方もいらっしゃいます。

 

全く粋ではありますが、これはどっちがいいとかじゃない。

 

『適切』とは状況によって変化するものです‪٩( ᐛ )و‬

 

 

 

暇つぶし程度にでもなりましたなら‪٩( ᐛ )و‬

 

 

ありがとうございました‪٩( ᐛ )و‬

 

お金を使う ~公共と広告と~

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

はじめに 〜ゲームというものを久々に購入しました〜

以前に少し書きましたが、最近スイカゲームのアプリ版を購入しました。

 

『ゲームを購入』です。

 

基本的にはギターと読書で手一杯なので、ゲーム自体は好きながらも購入してまで興じるということはほぼほぼありません。

 

最後に身銭を切って購入したゲームは『Plague Inc.』という作品で、それももう五年以上前です。

 

とはいえ、パズルゲームは好きなので興じることもあります。

『PN Style』というゲームでは61,000スコア超えくらいやりこんでいます。

 

イカゲームはどうやってもへったくそで、いけて3,400とかです。

 

さて。

そんなゲームを久しぶりに購入したことで知ったこと?改めて実感したこと?があります。

 

ゲームって買うと広告がないんですね!!

 

「ゲームを購入する、ってそういうことかぁ」なんて呑氣に思った次第です。

 

そんな、一件に端を発して思ったこと。

その一連。

 

それが今回の内容です。

 

 

お金を使う

塵も積もれば山となる

ある日。

公共的な交通の機関に乗っていた時のこと。

 

基本的にわたしは時間があれば本を読みますが、おそらくその時、八十八ヶ所巡礼さんの音源を聴いていました。

個人的にわたしは八十八ヶ所巡礼さんの音樂を聴きながらだと読書ができないので、その時はぼやん、と、座席に鎮座していたと思います。

 

 

現代では猫も杓子もみんなが皆んな暇があれば携帯電話を触っています。

 

たまたまその時にお隣のladyがゲームアプリに興じている様が目に入ったのですが(決して故意に覗いたわけではないです。つーか現代社会どうしても目に入っちゃうじゃんね)、その時は広告動画が画面に表示されておりました。

先に書きました『PN Style』も無料アプリケーションなので、広告の厄介さというか、面倒さは存じてあります。

 

「そもそも広告邪魔くさいからデータ通信切ればいんじゃね」と思って『PN Style』は興じていましたが、その公共交通機関的な車内での些細な出来事で、あることを思ったのですね。

 

「これって時間を無駄にしてるってことだよな」

 

考えてもみてくださいな。

広告が流れている三十秒から一分の間、ただ待っているわけです。その間も寿命が縮んでいるわけです。

 

塵も積もれば山となる。

広告ひとつひとつは一分程度であったとしても、積み重なって日に十分とか二十分とかに膨れ上がったりするでしょう。

二十分もあればなにができますでしょうか?

 

何かしらができます。

なんでも良いですが、何かしらはできます。必ず。

 

ここで勘違いをしてほしくないのは、「それ」を自覺し受け入れている場合は良いし、何もそれを受け入れている人を否定するわけでも修正したいわけでもありません。

 

 

重要さと危険性を帯びてくるのは『その先』です。

 

 

"繰り返す" ことで生まれるもの

本当にわたしは再三言っていますが、広告は繰り返しが重要です。

単純接触効果というやつですね。

floodinhead.hatenablog.com

 

広告は何のためにあるかといえば「消費者が商品を購買して利益を生み出すため」です。

その利益発生のために繰り返し広告を打っているわけですが、広告が流れている間はただぼうっと画面を見ていたりするでしょう。

 

ぼうっと繰り返し見た結果、知らないうちにその商品に興味を持ち、購買を行う。

 

これって、時間も費やしているしお金も使っているのです。

 

ある作家さんが「お金を使って小説を買うということは、労働時間と読書の時間とで、その人は二倍時間を使っていることになる。それはつまり二倍人生を使っていることと同じだ」と話していたのですが、この場合も『広告を見る』ということと『お金を使う』というとことを行なっている。

ましてや後者の場合は『労働の時間』も発生しているので、三倍も人生を使っていることになります。

 

どうでしょうか、空恐ろしく思ってはきませんでしょうか。

 

ことわざ?で『もしあなたが無料でそのサービスで使っているなら、あなたは客ではなく商品なのだ』というものがありますが、今回のお話がまるでそれそのものなのじゃないかと思います。

 

 

次の項目では『無料』について言及いたします。

 

 

節約するためにお金を使う

前述では無料のゲームアプリについて書きましたが、この法則は別にゲームアプリにのみ適用されるのではありません。

 

 

YouTubeという動画配信サービスがあります。

 

わたしはこのサービスを非常に多用していて、もはや染脳されているほどじゃないのかとすら、我ながら思います。

わたしがYouTubeを利用する際、基本はPCの広告ブロックブラウザでの利用なので広告の毒牙は心配無用ですが、携帯電話のアプリケーションでYouTubeを利用する場合は広告が頻繁に流れます。

以前までは五秒待てば広告を飛ばすことができましたが、今では待つ秒数が長くなっていたり飛ばせない広告すらもあります。

 

ところでこの動画広告、最近では飛ばされることを見越して「スキップボタンが表示される直前」で続きが氣になるような内容を表示するという工夫がされていたり、スキップボタンの表示直前で商品名や目玉のサービス名が表示されるという工夫(これこそ潜在的に意識させる方法)がされていますね。

非常に人間の心理を利用した巧いやり方だと思います。

 

閑話休題

 

この繰り返し流れる動画広告を見ていると、次第にその広告内容に興味が出てきたりします。

そして、購買する。

 

ここで面白いというのか、恐ろしいというのか、巧妙だというのか、『広告の内容』に注目してみてください。

 

基本的に他の無料サービスへの紹介的な内容じゃないですか?

あるいは「本来よりも安くしますよ」的な割引内容。

 

無料サービスを利用している層、それは、言ってしまえばお金がない層でしょう(もちろんわたし自身も含め。こんなこと自分で言いたくない)。

そのお金がない層に対して、同様の無料サービスやコンテンツを広告表示する。

巧いですね〜〜。そして抜け目がない。

 

単純接触効果で興味を持ち、お金が回る。

受け手側の時間とお金という《人生》も削られる。

 

ちょっと、これ、本当に面白くできているなと思います。

 

 

そういった構造を垣間見て、広告の悪どさ(そのためにあるものなんだけども)に苦い顔をしている日々です。

広告が表示される、その広告が飛ばせない、となると、わたしは自分自身の意識が侵されているような氣持ちになり人生を無駄にしているという感慨も生じます。

 

 

じゃあその無駄時間を省くにはどうすれば良いのかというと、YouTubeプレミアムに入れば良いのです。

しかし、昨日見てみると月賦で1,700円ほどするらしい。

「ちょっと高くね…?」と思ってしまい、尻込みしている現状です。

 

まぁそもそも携帯電話(正確にはいんたねっと)への依存症的な傾向ははっきりとあるので、それ自体をどうにかしろよ、とも我ながら思います。

 

 

さて、これまでの話で行き着いた結論ですが、それは『人生を無駄にしないためにお金を使う』のだな、ということです。

表現を変えれば『節約をするためにお金を使う』ですね。

 

広告を見たことにより生じたお金よりも、その広告を見ないようにするためにお金を使った方が安くつく。

そして広告を見ている時間をぎゅっとまとめた二十分かそこら(人によって変化するし)を別な何らかのことに使うことができる。

 

『人生を無駄にしないためにお金を使う/ 節約をするためにお金を使う』というのが、身近に感じるのではないでしょうか。

 

 

 

うわー。さっき氣付いたのですが、YouTubeって動画前の広告が流れない時もあるんじゃん。

スマホ脳』にて言及されていましたが、SNSはギャンブルの要素を取り入れているそうです。

 

「次は勝てるかもしれない」という期待により、もう一回、と始めてしまうそれです。

わたし自身もはっきりと自覺したのはついさっきですが、無意識では『この動画は広告がないかもしれない』と思って動画を再生していたのかもしれません。

そして、脳みそが快感を得ていた。

 

これは憶測ですが、興味のない広告が繰り返されてストレスを感じている時の方が意識・無意識関わらず浸透させやすいのかもしれませんね。

ほら、怒りとかモヤモヤした感情って長く尾を引いて覺えていたりするものじゃないですか。

 

 

公共性

いんやー面白い。

我ながら面白い考察です。

 

そして以下に記すこともつい昨日認識したことです。

 

例の通り公共交通的機関のものに乗っているとき。

広告に対して色々と言及しているわたしですが、実際のところ広告というもの自体は好きです。

行動経済學というのでしょうか、その広告自体の意図をわたしなりに読み取るのが愉しいし面白いと感じるからです。

 

広告は好きなので、昨日も機関公共交通の場で広告を觀察していたんですね。その様を。

 

その時、ふと思いました。

「どうして広告が掲示されているのだろう」

 

その時に、ぶわっと、いや じわっと?ある仮説が我が頭に去来いたしました。

 

『公共性がある場所だから広告があるのでは?』

 

最初に書きました無料の場と近い部分はあるのですが、この場合は〈無料〉というよりも【公共性】という要素の方が重要となります。

 

 

まず、広告というのはメディアです。

メディア自体でもあるし、メディア自体に織り込まれるものでもあります。

 

テレビ。

わたしが広告というものを最初に意識したのはそれでしょう。

おそらく多くの方がそうなのではないかと思います。

 

テレビというものは、機械や周辺機器自体にはお金が必要ですが、テレビ番組を見るという行為にはお金が発生足しません。

 

「いや、國営放送には受信料を払ってんじゃねえーかよ。ダウト」と思われた方もいらっしゃると思いますが、國営放送には企業広告が流れることはありません。

もし流れていたならば、「どうして國営放送でCMが流れるんだ!」とどこかの俳優さんが声をあげるのではないでしょうか。

 

 

企業広告が流れているのは民放のみです。

そして、民放は無料で見ることができる。

そもそもメディアというものはマス(多数)に向けて組織されているので、公共性を前提としています。

 

交通機関である電車、また別の交通機関であるタクシーや飛行機、これらは集団に対して向けられたサービスです。

つまりは公共性があるものです。

 

最初に書きましたYouTubeは無料サービスですが、無料であるということで公共性が担保されます。

 

思い出していただきたいのですが、お金を持っている方は自家用車やプライベートジェットなどを所有しています。

そういった個人のものは【所有物】となるので、当然公共性は発生いたしません。

 

個人の所有物であるため、内部などは自由にすることが可能です。

 

つまり、個人の所有物には、広告は発生しない。

 

 

『お金を使う』ということは、その本懐とはそういうことなのではないでしょうか。

 

 

 

お店さんは、その店内自体が広告であるので別の広告は発生しない。

というより、お店さんはお店ですがまず前提として店主さんの所有物となるので広告は発生し得ないという感じですね。

ですがその店主さんが好きなものを店内に置いているために、自分自身に対しては広告となるという事象は発生いたします。

 

 

以前に「その人の本質って身につけてるものじゃね?」的な内容的な記事を書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

今回のお話を交えて補足?をすると、個人が購入したものは個人の所有物となりますが、他者から見れば他人に対しては公共性が発生している、という感じですね。

ちょっとこのお話はややこしいですね。

 

 

 

我ながら面白い考察だった

いやぁ、我ながら面白い考察でした。

久しぶりに五千字近く書いておりますね。

 

わたし自身としては確信めいたものはありますが、あくまでも現時点の考えですし、それ以前に酔狂な与太話程度のエンタメとでも思っていただけたら幸いです。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

 

知的エンターテイメント

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

〈知的エンターテイメント〉

 

一般に『オカルト』と呼称されるものは〈知的エンターテイメント〉と呼ばれていたりします(一般的かどうかは知らない)。

 

オカルトとは総称でございまして、幽靈や宇宙人、UAP(古の表現だとUFO)、UMA、最近では都市伝説もオカルトの一部であるかなぁと思います。

 

そのオカルトと称されているものが、どうして〈知的エンターテイメント〉と呼ばれているかについて、最近理由が判明したような氣がいたします。

 

ということで、今回は〈知的エンターテイメント〉について書きます。

 

 

一般的に『オカルト』と称されているものは、科學的な意味合いで証明がされておりません。

そういった理由故に「本当にあるの?胡散臭い。非科學的ー 笑」と敬遠されがちです。

 

が、そのように「証明されていない」からこそ、『オカルト』というものであり〈知的エンターテイメント〉と呼ばれるのだと思われます。

 

「証明されていない」ということは実態が摑めない。

→実態が摑めないということは、そのもの・ことを想像する。

→→想像するには、知力が必要になる。

 

というわけです。

 

結論、オカルトは想像力・知性が必要になるから〈知的エンターテイメント〉と呼ばれている。

 

 

あらまぁ、もう結論が出てしまいました。

 

 

結論が出たのでもはや蛇足となりますが、人は不確定な要素を嫌います。

不確定なものは不安定なので不安を感じる、ということです。

なので、人はその説明が偽りであっても目の前に提示された説明を信じる。安心をしたいから。

 

また人間は怠惰な生き物らしいので、エネルギーを使って想像することを嫌う。

疲れるからですね。

「そうやって説明されてるんだからそれが真実でいいじゃーん」という心理構造です。

 

( ◠‿◠ )

 

そして、その説明要素として、ヒジョ〜に効果を発揮するのが『科學』というものです。

 

( ◠‿◠ )

 

科學ってすごいですよね。

なんでも説明しようとするんですから。

科學で証明できないことは「非現実的であり得ない嘘」ともするし、科學が説明できないことには「まだ科學の解明が追いついていないだけ」と弁解をします。

 

そういった『想像の余地がない答え』を、科學というものは与えてくれるのです。

考えることを放棄したい、疑問を感じずに生きていたい方々にとっては御誂え向きな体の良い【神様】ですね( ◠‿◠ )

 

 

世間では「オカルトを信じる人間はあほ」だという認識があったりしたりしますが、こう考えると【科學を無条件に信じている人間】も同様にあほである、ということになりますね。

なんとも面白い逆転構造というか入れ子構造的なものだと思います。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

正直わたしがどうしてこれほどまでに科學に対して敵対心をいだいているのか、わたし自身も不明です。

 

もともと科學というもの自体にはそこまでの嫌惡感はなかったのだけど、あまりに世間多くの人間が『 "科學で証明されること" を無条件に信じていること』『その構図は宗教への信仰と大差がないのに、"科學を信じることも宗教的側面を強く持っている" ということを自覺していないことに阿保らしさと憤りを感じているから、でしょうか。

視座が低い、というのか。

まぁ視野も視座も低くて狭い方が人生幸せではあると思います。

 

とはいえ、こんなようなことを偉そうに宣っているわたし自身も視野がせまけりゃ視座も低いと思っています。

 

【自身の脳で考えたくない大衆】が大多数となった結果、科學自体に敵対心を抱いた。

直接的に科學は関係ねえじゃん。

 

結果的にわたし自身も阿保なんじゃあねーかよ。

 

あほでした( ¨̮ )

 

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オカルトと呼ばれているものがどうして〈知的エンターテイメント〉と形容されているのか。

それは『科學的に証明されているもの / いないもの』に対して「実はこれはこうなのかもしれない」と想像する知性を必要とするため、その想像にすら面白がれる知性があるためでした。

 

 

ちなみに、わたし自身といたしましては都市伝説と怪談(幽靈話も人怖も)が特に好きくらいで、宇宙人、UAP、UMAについてはさほど興味はありません。

「そりゃあ人間だって宇宙の生物なんだから宇宙人やらUAP、UMAくらいいるだろうに」と思っているからです。

 

しかし『UMAは人間がなんらか実験を行なった結果生まれた』という話になれば別です。

この「なんらか」が、また想像の余地を生むのですね( ¨̮ )

 

こうなると《人間の想像こそが最高のエンターテイメント》にもなります。

何においても人間が思考しないと物事は生まれませんからね。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

『見せる用の真実ぅ〜〜〜』 を求めているのは?

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日、実家に帰って降りました。

 

その際に聞いたお話。

 

 

〜〜〜

 

わたしの母親はミシンを用いたお裁縫を趣味としております。

衣服も自作しており、今は着物をリメイクするのにハマっているのだそう。

 

母が親戚より着物のリメイクを依頼され、元となるお着物を借りた時のお話。

 

 

その着物を受け取り、自宅にて包みを開けた際に防虫剤のにおいが強烈にあったそうです。

あまりの臭さに顔を顰めたり顰めなかったり鹿となったりしたそうですが、その防虫剤のにおいを嗅いでから一定期間、寝ても覺めても鼻水が止まらなくなったそうです。

 

「そのときに氣付いた。これって花粉症の原因なんじゃないのかって」そう、母は口にしました。

 

〜〜〜〜〜〜〜

 

確かに春は衣替えの時期。

防虫剤とともに仕舞い込まれていた衣服を引っ張り出して着直したりします。

 

『花粉症』とは呼称されているけど、実は花粉は濡れ衣なのではないか。ということですね。

なかなかに興味深い考察です。

 

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花粉症が一般化しだしたのは、敗戰後の高度経済成長期以降からです。

その頃くらいから世界は、世界中は科學を神格化しだしやがりましたね。

 

日本國において最初の花粉症例が報告されたのは1961年だそうです。

それから '70年代後半から花粉症の罹患者が増えていったそうです。

 

杉花粉は杉の樹から流れます。

杉の樹は昔から日本に存在していたでしょう。

ということは『杉の花粉』自体も昔から日本で馴染みが深かった。

 

ですが、一時を境に『杉の花粉』を原因とした病が爆発的に増えているのはどうしてなのでしょう?

 

 

花粉症とはアレルギー症状の一種、と定義づけられているそうですが、アレルギー患者も1960年代から爆発的に増えています。

花粉症がアレルギー症状の一つであるとはいえ、この符合はどうしてなのでしょうか。

面白く、興味深いですね。

 

^^^ ^^^ ^^^ ^^^ ^^^ ^^^

 

もちろん、『花粉症は防虫剤が原因だ』と単一的に考えているのではなく、「花粉も要因の一端を担っている」とは思いますよ。

 

なんだって『この一つが全ての元凶』なんて言い切れません。

そういった一元論的な単一解釈は人間を莫迦にしかしませんからね。非常に危険な考え方です、氣をつけないと。

 

実際に杉花粉のアレルギーを持っている方もいらっしゃるのでしょうし、豚草花粉のアレルギーを持っている方も多くいるでしょう。

しかし、思い直せば日本で花粉症が騒がれるのは春と秋。

どちらも衣替えの時期ではありますね。不思議な一致ですね。

 

 

ペケペケペケペケペケペケペケペケペケペケペケペケ

 

 

眉唾な部分はございますが、車など石油で駆動する乗り物の排氣ガス、それらに含まれる重金属が人体に蓄積して色々なアレルギー症状を引き起こしている。という意見もあります。

『実際のところは、どうなのか』なんて知りません。だってわたしは一小市民な消費者なのですから。

 

ですが、これだけは言えます。

 

世間で真実だとされているものは『見せる用の真実』である可能性があるということです。

 

 

スリス リスリスリ スリスリスリスリ スリスリスリス リスリ リスリ スリ

 

 

むかーし、わたしは刷り込みの話を書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

刷り込み。

鳥類が生まれ始めて見た動くものを親だと思う、それです。

それは、何も鳥類だけではなく人間にも適用されるよ、と書きました。

 

その、《刷り込み》を用いれば、『見せる用の真実』も真実になるよ。ということです。

『見せる用の真実』それはつまり嘘やでっちあげに等しいのですが、そういったものの方が一般大衆には都合がよいのではないのか?なんて考えます。

それはなぜかといえば、憶測を広げる際の自由度合が無限と言えるほどに高いから、です。

 

最近、人間は憶測が多岐に及ぶものを好むんじゃないかと考えています。

自由に憶測を広げることができるということは、自由に肉付けができるということ。

 

嘘やでっちあげは「そのもの自体」に実体や真実がないので肉付けがし放題である。

 

そんな感じで。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~po

 

さーて。

そんな『見せる用の真実』はなんであるんだよ、って、そんなご意見が飛んで奇想天外な氣がしないでもないです。

わたし、思うのですが、『見せる用の真実』を求めているのって、我々一般大衆なんじゃないでしょうか。

 

ここ数年でよくよく耳にするようになりましたが、人間は「信じたいものを信じる生き物」だそうです。

 

 

本当の真実はとっても重要ですが、とてつもなく地味でよくある話でした。

 

ですが、人々はそれには見向きもしませんでした。

 

地味なものでは人々には刺激が足らなかったためです。

 

刺激を求めるがあまり、次第に人々は凶暴化していきました。

 

町では犯罪が横行し、それにすら麻痺しはじめていたのです。

 

そんな群衆を見て危惧した王様は、側近にある命を下しました。

 

「このままじゃ國が立ち行かない。民が夢中になるような噂を流しなさい。それもとびきり衝撃的で曖昧な、実態の摑めないものにしなさい」

 

その命を受け側近が噂をながしたところ、民の話題はその噂で持ちきりとなり、町には再び平和が訪れたのでした。

 

~~~~~~~~~pe~~~~~~~~~~~~~~~~epe

 

 

ま、そんな簡単にはいかないでしょう。

 

しかし、それは作り話として書いているためです。

案外作り話みたいなことが現実で起きている現実もあり得ます。

それの真偽は我々一般的な大衆には見極めることはできないのでしょうけどね。

 

この日本で起きたある事件、調べるだけで物騒なことに巻き込まれかねないある事件があるのですが、その事件すら〈刺激的な作り話〉である可能性があるんだな、と思ったら目の前がぐにゃりと曲がるようでした。

 

 

見せる用の真実(要は嘘やでっちあげ)でも、もったいぶって打ち明けたら、打ち明けられた側はそれを真実だと思い込む。

 

始めて知ったことであれば、たとえそれが真っ赤っかでも信じ込む。

 

 

人間って、そんなような存在なのかもしれません。

 

あくまで、憶測として。

 

 

ほら、憶測って愉しいでしょう?

 

ね?

 

 

 

 

考えろ。マクガイバー

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

 

 

【八十八ヶ所巡礼】少子高齢化を実感する魔族【新曲召喚祭2024】

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

行ってきました【八十八ヶ所巡礼 新曲召喚祭2024】!!!!

記念撮影場所〜

 

👇これまでの八十八ヶ所巡礼さんについてのもの👇

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

 

開演まで

以前にも書きましたがわたしは伊予の國生まれです。

公演地は松山ですが地元は香川寄りの場所にあります。

 

ということでどんぶら電車かもしれない乗り物に乗って松山へ。

 

 

えっと、JR松山駅が新しくなっていて戸惑いました。

浦島太郎さんってこんな氣持ちだったのかな、って思いました。

 

余裕を持って松山に着し、ガソリンを入れたり、チケットを発券したり、ひぎり焼きを食べたりと觀光ともいえないようなことをしていました。

ガッソ♪ ガッソ♪ リン♪

食べたくなったらこらえきれない!

我ながらなんちゅう服を着とるのだ。




そういえばJR松山駅から箱(松山市駅のほう)に向かっているときに『最廣寺』というお寺さんを見かけたのですが、読み方って「さいこうじ」ですかね?

 

 

記念撮影場所のバックドロップみたいなのって他の場所でもありましたかね?

やっぱり愛媛だからでしょうか。

 

 

 

開場し鎮座しますはド上手。

なんかいっつもド上手にいるな

八十八ヶ所巡礼さんのライヴは觀る側なのに緊張するというあるあるがあります。

箱の大きさ的にも開場から開演までは三十分の猶予ですが、それでも緊張するもんはする。

 

へったくそなスイカゲームで緊張を溶かして、開演。

 

 

 

開演~ユーレイ・ドライヴ

開演。

Pharaoh Sandersさんの『Creator Has a Master Plan』が流れます(つぃったーのフォロワーさんに教えていただきました!有難い!)。

 

ド上手にいたとことや、この日の箱は樂屋動線が下手にあるため、袖でストレッチするマーガレット廣井さんなどを視界に納めることができました。

 

個人的に八月以来の八十八ヶ所巡礼さん。

Katzuya Shimizuさんも髪は伸びていましたが、それよりもマーガレット廣井さんの髪が伸びていたのが印象深かったです。

 

Kenzooooooooさんは相変わらず‪( ¨̮ )‬

 

 

 

「ポーン、ポーン、」とベースのハーモニクス音が奏でられたのち、Kenzooooooooさんの重厚でキレのあるドラムが鳴り響きます。

「!!! ユーレイ・ドライヴだ!!」と、この時に思ったのですが、それと同時に『あ、これドラムキレキレの日じゃない??ちょうかっこいい。ohenro3とかされちゃった仕舞いには本当にかっこいいんじゃないかしら』とも思いました。

 

わたしはギターを嗜みますが、この時ばっかりはKenzooooooooさんを凝視していました。

 

シンバルのスタッカートや、曲の最後に演奏されていた三連符のフィルとか素晴らしかったです‪( ¨̮ )‬

 

 

女性問題ト賭ケゴルフ

比較的よく演奏される初期曲です。

この曲はマーガレット廣井さんがスラップベースを披露する曲ですが、ベースのゴーストノートがとても小氣味よく、そしてドラムのグルーヴ、スネアのゴーストノートとの混ざり合いがなんとも絶妙で変なところで拳上げ貴様らになったし酔っ払いの顔もしておりました。

 

歌を歌う、マイクスタンドがあるという役割、ストレートネック?であるため、マーガレット廣井さんは前傾姿勢で歌と演奏を行なっていたのですが、その姿を見て「…真っ直ぐなバナナみたいだな…」と思いましたすみません。

 

 

月斗

曲中のキメ(ダーダーダダーン!のところ)で各々がアイコンタクトをせずともタイミングが合うのすごいと思うし、同じキメのところでマーガレット廣井さんがニヤッとしてたのが印象的でした。

ご自身でも「うまく行ったな」って思われたのでしょうかね?

 

 

ohenro3

最高。

 

イントロのフレーズが鳴らされた時『両拳上げ貴様ら』になっていましたが、『ユーレイ・ドライヴ』で予想していたよりもとんでもなく素晴らしい演奏でした。

 

まずKatzuya Shimizuさんのサビは繰り返しのリフフレーズです。

そのフレーズがエンジンが回るような独特のグルーヴで奏でられており、そのグルーヴがドライヴしていくようでした。

 

そんなギターフレーズですが、決してバンドアンサンブルで浮いていたりはしておりません。

というよりもドラムとベースのリズム隊も独特なグルーヴをしていたのですね。

つまりKatzuya Shimizuさんの演奏するフレーズが際立っていたということです。

 

そんな独特なグルーヴと独特なグルーヴとが混ざり合ってうねるような調べになっておりました。

 

ごた御託を抜きして言えば、最高だった。その一言です。

 

 

そういえばこの日のドラムソロはいつもと違ってシャッフルっぽいフレーズだったな。

 

 

ギターソロ終わりのドラムフレーズ、あそこってKenzooooooooさんキツいらしく「いつもここ短くしてくれってKenzooooooooから言われているが、今日は四倍長くやる!」と意地惡心を覗かせるマーガレット廣井さん。

「なぜなら今日はKenzooooooooのお母さんが觀にきている!」とマーガレット廣井さんが口にした時、Kenzooooooooさんがシンバルを叩いたのですが、あれって『言うなよ!』ってことの意思表示なんですかね?

日比谷野音で「おかん」と言いながら探されていたお姿を思い出しました。

 

Kenzooooooooさんのお母様も野音でご覧になってから息子さんの勇姿を觀たくなったのでしょうか( ˃̣̣̥ω˂̣̣̥ )

 

 

SYG88

この曲もちょくちょく演奏されますよね。

御三方のソロ回しが大好きです。

 

恒例?になっているマーガレット廣井さんのポーズからのKatzuya Shimizuさんのくるっとターン→Kenzooooooooさんのojizo3も披露されていました(Kenzooooooooさんってなんかオチに使われがち?)。

 

Kenzooooooooさんが珍しくスネアロールを叩いていたりしたのが新鮮でしたね( ¨̮ )

 

このソロ回しでわたしが拳上げ貴様らになったのは『同じフレーズをオクターブ下で瞬時に弾いたKatzuya Shimizuさん』です。

ROLLYさんが野村義男さんの前で披露されていたテクニックですね。

 

またこのソロ回しはマーガレット廣井さんが弾いたフレーズに似たフレーズをKatzuya Shimizuさんが弾くという流れもあります。

マーガレット廣井さんがスラップを弾いたらKatzuya Shimizuさんもギタースラップをし、マーガレット廣井さんが早弾きフレーズを弾いたら水を得た魚のように早弾きを披露するKatzuya Shimizuさんにも拳上げ酔っ払い貴様らでした。

 

歌い出しからサビまで鼻声で歌われてましたマーガレット廣井さん。

 

「良からぬことを考えているのは」のところだったかしら、Katzuya Shimizuさんが微笑んでいました。

 

 

いつ聴いても7/8拍子のサビは狂っている(褒めてる)。

どんなキャッチーさやねん‪٩( ᐛ )و‬

 

 

 

金土日前のメンバー紹介

本日は早めの『金土日』

 

今日はお母様が見にきているKenzooooooooさん。

本当は服を脱ぐのは苦手だけど、今では服を着る方が苦手になっている!みたいな感じでKenzooooooooさんがon Drumsとして紹介(「k,e,n,zにoが八つ」の時の手が思惟手のあれでした)。

 

ドラムソロ中にマーガレット廣井さんがパンツを脱ぐようにベースを下ろし、樂屋へ。

Kenzooooooooさんに対して手刀で断りを入れていましたし、機材を触ってもいたので機材トラブルか?と思ったのですが、ステージドリンクの一升瓶も携えて樂屋へ消えるので「なんで??」と思いました。

ステージにマーガレット廣井さんが不在のまま、Kenzooooooooさんはドラムソロを続けています。

 

三十秒ほど後マーガレット廣井さんがステージに戻ってきましたが、何事もなかったかのようにベースを担ぎます。

戻ってきた時に一升瓶も手にしておりましたが、変わってるじゃねーか!と笑いました。

 

開演時に持っていた瓶は茶色いラベルが貼られておりましたが、戻ってきた時に持っていたのは白いラベルの瓶。

マーガレット廣井さんの貴重なサブベース(日本酒)交換を目の当たりにしました。

 

マーガレット廣井さんが帰ってきたのでKenzooooooooさんのドラムソロも終わり。

Kenzooooooooさんは「長え!!」と叫んでおられました。

 

 

「最近Kenzooooooooと二人で氣付いたんだけど、前まではかっちゃん後部座席にいたけど最近は助手席にいるんだよ。後部座席はちょっと押したら勝手に閉まってくれるけど、助手席はそうじゃないから扉を閉める時の力がすげー強い。on!運転初心者!Katzuya Shimizu先生〜!」

 

 

マーガレット廣井さんは何が苦手だったかしら…。

とりあえず「Kenzooooooooのお母様の方を見ないようにしてるからわたしもKenzooooooooのお母さんが苦手なのかも知れない」と言っていたのは覺えている。

あと「苦手なものでもちょっとずつやり続けたら克服できる!」とも話してた。

 

ベースソロでは下手のお立ち台にいらしたので詳しくはわかりませんが、顔でベースを弾かれていたのは見ました。

 

そしてベースソロを弾くマーガレット廣井さんをKatzuya Shimizuさんが見ていたのですが、その表情が一番「人間」してました。

 

あとKenzooooooooさんがドラムソロを長尺で演奏したからか?マーガレット廣井さんも長尺で演奏されておりました。

 

 

脳騒曲

MVP!!!!!!!!!!

 

京都の磔磔で初めて聴いた以来です!

 

「貴様らのおかげで新曲が降りてきた!」の声からKatzuya Shimizuさんのアルペジオが奏でられます。

 

曲のサイズはPVのものと同じ。

ベースがBling Blingでかっこいい。

 

しかし!それよりもわたしの琴線に触れたのはギターの音です!!

Katzuya Shimizuさんのこれまでの音は主にファズやオーバードライヴのようなピッキングニュアンスで歪み具合が変化する音作りがされていました。

ですが!

この『脳騒曲』の歪みはディストーション的な歪みが基調となっていたんですよ!

 

ディストーションにファズの毳毳しさが追加された、みたいな!毛糸みたいな毛羽立ちと形容したら良いですかね。

しかもドンシャリの極みみたいな音像でもありましたし、どこかハーフトーン的でトライトーン的な印象も感じました。

 

「ブゥィーン」の音ではあるのですが、『月斗』とかの中音域が持ち上がってる類の音ではなく、音の"面"が広いみたいな音像の「ブゥィーン」なんですよね。

 

 

Katzuya Shimizuさんってどっちかというとキラキラした音作りをするギタリストだと思うのですが、そんな人がモヮモヮした暑い音を作っていたのがすごくとても新鮮でした。

 

これから八十八ヶ所巡礼さんのライヴに行かれる方はKatzuya Shimizuさんの音にも意識を向けてみてください‪٩( ᐛ )و

 

 

サビの「イイネ!イイネ!イイネ!」のところは「👍!!👍!!!👍!!!!」‬のようにイイネ上げ貴様らになっていました。

 

 

摩訶摩訶摩訶

この曲も新曲枠です。

これってマーガレット廣井さんベースワウ踏んでますかね?

Katzuya Shimizuさんもカッティングを弾いていますが、なんかシンセ音とか聴こえたように思うんですよね。

 

どんな藝当を用いているのだろう…?

 

あとこの曲のカッティングは手首のスナップ系ではなくて腕全体で弾いている系のカッティングだったので、どことなく鮎川誠さんやアベフトシさん、The Whoピート・タウンゼント氏みたいな長身ギタリスト然としているなと思いました(手首スナップでのカッティングは比較的軽めな音になるため、ファンク系の音樂が合います。山下達郎さんや浮雲さん。腕全体でのカッティングは、腕の重さも加わるので攻撃的でロックな音になります。布袋寅泰さんとか桜井青さん。適材適所です。ところで『日本人ギタリストでTop of Top』ってなるとやっぱりどうしてもCharさんを想起するのですが、それってなんだか『怪談のTop of Top』は稲川淳二さん、みたいな感じですね)。

 

ギターソロ終わりに16分音符のキメがありますが、あそこやっぱり難しいのか、御三方超真剣に演奏されていて職人みたいな表情になっていました。

ハットをクローズにする時のタイム感とか最高でした。

 

そんな16分キメが終わってゲゲゲセクションに入る時にKenzooooooooさんが「パシャーン!」とシンバルを鳴らしますが、その瞬間にステージが白色照明で照らされました。

これって、PVで白黒になるところですよね!!?

Kenzooooooooさんが昭和の名優になる入浴シーンですよ!!!

 

イっカす〜!

 

今PV見返したら若干早かったですね!!!

 

 

 

JOVE JOVE

イントロのギターがすげークリアに聴こえる。

輪郭がはっきりしている、と言いますか。

 

この曲ではBIG SHOOTERが二回唸っておりました‪( ¨̮ )‬

 

 

アンコール明け

御三方が再登場し、ちょっと喋らせてと断りを入れるマーガレット廣井さん(Kenzooooooooさんが「どうぞ」みたいな仕草をされていたように思う)。

 

「今年は五月の日比谷公園大音楽堂から始まって、いつもよりちょっとだけ特別な一年だった」と話されておりましたが「そういえば2024年って五月四日まで公演なかったんだよな」なんてその時に思い出しました。

『悪闇霧島』でKatzuya Shimizuさんが階段に登ってギターソロを弾いた日だ。

 

わたしが「莫迦でかいスピーカーだ!」などと阿保な感想を洩らし、貴様らの皆様諸氏全員で『君が代』を永田町まで歌い届けた日。

あの日で覺えているのは「政治家?にはPink Floydの良さがわかんねえんだよ」とマーガレット廣井さんが言った時に手を叩いてまで愉しそうに共感されていたバンドマンっぽいロン毛のお兄ちゃんです。

あ、あとA24のTシャツ着てる方もいらした。

『MAXXXINE』いつ日本公開なんすかね?

 

「その日に初演奏した曲があるんだけど、その曲もこれからもずっと演奏していきたいと思っている。その曲をやって今日は終わろうと思う」と口にして『ふらふら』へ。

八十八ヶ所巡礼さんのファン第一号の方の誕生日と野音公演の日が一緒だったんですよね。

 

 

アンコール明け二曲目は『八十八銀行』です。

「生きてたらまた来年も変拍子で踊ろう」と口にして、イントロのベースフレーズが鳴らされます。

音源とは違ってイントロにブレイクがありますが、この日はマーガレット廣井さんが「フォーーウ!」と言ったのちにKenzooooooooさんが「…ッヤ!」と雄叫びいておりました最高。

 

最高!!!!!!

 

 

MCで話したこととか諸々雑記

・「幻魔大祭へようこそ貴様ら!」

 

・高松公演を忘れて「今年初四國だ」と口にするマーガレット廣井さん(のちに『愛媛が今年初』ということに氣付きます)

 

・「今年初愛媛だ。あけましておめでとうございます」

 

・「ライヴハウスは世間と闘ってきた。ライヴハウスではダンスをしてはいけないらしい。いや、それって東京だけだっけ?(頷くKenzooooooooさん) 風営法で決まっているらしい。だから踊ったら後ろ手で手錠をかけられちゃう」

ライヴハウスは世間と闘ってきた』の言葉を聞いて頭脳警察さんを思い浮かべました。

 

・Kenzooooooooさんを「けんちゃん」と呼ぶマーガレット廣井さん

 

・悪闇霧島で「この曲と『金土日』でだけ貴様らは手拍子をする。そんな曲ではないが、どう樂しんでも貴様らの自由だ」

 

・『具現化中』?でドラム台に片足をかけたKatzuya Shimizuさん。

ぴょんぴょんと飛びながら足を入れ替えるという動作(コサックダンスっぽかった)が謎でとても面白かったです。

 

・『日本』ではマーガレット廣井さんが阿波踊りをしていました。もう恒例にしてほしいもっと見たい。

 

・髪の毛がとても伸びていたマーガレット廣井さん。

時間が進むにつれて汗で髪が広がっておりましたが、最終的に一升瓶を煽る姿も合間って「すげーかっこいいじゃんね??!」と思いました。

 

・この日のマーガレット廣井さんはシャンパンゴールドの球体がついた髪ゴムをつけていたのですが、色・形状も相まって「ねこのきんたま…」と思っちゃいましたすみません。

 

・あまりに連絡をしないのでお母様から「ちゃんと食べてますか。なにも援助はできませんが」というちょっとウザめなメールがくるマーガレット廣井さん。

 

・高校時代は携帯電話を持っていなかったマーガレット廣井さんさん。

vodafoneとか、ギリJ-Phoneだったけど、docomoしか入らなかった」という愛媛あるあるを話していました(多分今は違う)。

 

・フロアに降りて貴様らの皆様諸氏と交流するとき「なんだのこの偉そうな席は!DUKEの関係者用か!モンバスの出演バンドを抽選式にしたDUKE関係者席か!!ここドラムうるせえ!!」と言っていましたマーガレット廣井さん(マーガレット廣井さんとDUKEの関係は『喧嘩するほど仲がいい』のあれなのか?)。

 

・なぜか愛媛宿が取れないらしく(「90%とかになってる」らしい)徳島で泊まり愛媛入りされたそうです。

九時とかになるとパチンコ屋さんも開くから様子を見ようと駅のロータリーに行くと「おばあさん、おばあさん、杖をついたおばあさん、杖をついたおばあさん」と若者がいなさすぎて四國の少子高齢化を危惧されていました。

 

・眠すぎてコンビニにコーヒーを買いに行ったとき、四人の貴様らさんと出くわしたらしいマーガレット廣井さんですが、その四名と息子さん?で愛媛県少子高齢化を実感されたそうです。

 

・「おばあちゃん呼びじゃなくて『おばあさん』なんだ。日本昔ばなしか?」と思いました。

 

・マーガレット廣井さんの話が長すぎて笑ってしまうKatzuya Shimizuさん。

「ごめん、愛媛だから仕方ない」と愛媛への愛が出るマーガレット廣井さん。

 

「○△□なんだよ。  ○△□なんよ。」と伊予弁に言い直すマーガレット廣井さんが良かった。

 

・凍狂のことを話す時は「薄汚え街」と形容するマーガレット廣井さん

 

・箱のテナント料?が上がった関係でレンタル料も値上がりしたらしい(値上がりはやだし「またかよ、猫も杓子も値上げじゃねえかよ」と思いますが、それぞれ皆様の生活を暮らすためには仕方ないよねーと考えて(´-ω-`)ってな顔になってる日々)。

 

・Katzuya Shimizuさんこの日は十重二十重にストレートジャックを挿していました。

あと今更知ったけど十重二十重はボルトオンではなくセットネック(ボディとネックをつなぐ部分がねじ式か接着剤でくっつけているかという違い)なんですね。

 

・Katzuya Shimizuさんのピックこの日は青色。

 

 

 

終演終電チャレンジ!

この日の告知が発表された時、行くのは確定していましたが、懸念点がありました。

 

それは、『愛媛の終電めっちゃ早い』ということです。

 

昨年の同じ時期もW Studio REDで公演がありましたが、終演後タクシーに乗ってギリギリ終電に間に合った、という感じでした。

そのため、「しゅ、、終電…‪( ¨̮ )‬」と戰々恐々していたんですね。

 

結局から言うと、チャレンジ、成功しました。勝利です。

 

終電逃したところで死にゃあせんのでそんなに青ざめるわけではないですが、ギリギリでいつも生きていたいわけではないですしね‪‪( ¨̮ )‬

 

とはいえまだ助かると思ってて助からなかったらso Badじゃないですか。

と言うことで、そもそも終電とか捨てて開演に臨みました。

関係ないことを氣にしながらだと集中なんてできませんからね。

 

 

「まあ間に合えばいいか〜」くらいな氣持ちでいて、本編終わりで時計を見たら21:08。

「お、、、?いけ、、そう??…か???」と思って、終演後に時間を確認したら21:28くらい。

 

目算で『21:30くらいに終わればタクシー乗って帰れるかな』と思っていたので、急いでバーカウンターへ行き麦酒に変換し、タクシーに命運を託し、無事帰宅をいたしました。

 

 

これって、あの、まさかとは思いますが、昨年の魔つやま公演感想記事で「プロ愛媛の終電は早い…。」などとボヤいたから配慮してくださったんですかね?

いや、こんな一介の変な変なところで拳上げ貴様らの感想記事なんて見てやしねえかな。

 

 

さて、次回の八十八ヶ所巡礼さんは来年の大阪と凍狂の二公演です。

これを書いている当日に大阪大猫のチケット発券開始だったので、住処に帰る道すがらのサーヴィスエーリーアで発券を行ったのですが、

 

 

やっぽやっぽぽ!やぽぽぽぽ!!!!!!!💞٩( ᐛ )و💞💞💞💞💞💞💞💞💞💞

 

 

BIG CATで初二桁整番しかも20番代でした!!!!💞💞٩( ᐛ )و💞💞💞💞💞💞💞🌚🌝💞💞

 

最前列確定じゃないですか…??????

 

 

年明けから幸先が良いなぁおい!!!‪‪٩( ᐛ )و‬‪٩( ᐛ )و‬‪٩( ᐛ )و‬‪٩( ᐛ )و‬‪٩( ᐛ )و‬‪٩( ᐛ )و‬‪‪

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

 

 

 

DUKEにて

 

取るに足らない話の三章

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回の内容は特に読むべき内容ではないです。

というより、わたしのブログは別に読むべき内容のものなんてないです。

 

読むか否かは、お任せいたします。

 

さぁ。

 

 

 

イメージンgはすべてのザッピーポルに

以前にも書きましたが、現在わたしは伊坂幸太郎さんの『モダンタイムス』の単行本版を読んでいます。

 

現在は主人公の渡辺さんが岩手の安藤さん家に訪問しに行っている部分に差し掛かっています。


www.youtube.com

 

わたしはこの作品が本当に好きでして、五回以上廿回未満は読んでおります。

しかし、はっとしたことがございます。

 

物語の前半部分はシステムエンジニアとして働くためにオフィスの場面が多く登場します。

その、オフィスのイメージが、以前に想起したものから変わっていなかったのです。

 

何度も読んだ同じ文章、読む内容は同じでも、読み手は変わります。

 

労働者としてオフィス従事していなくとも、オフィス場面が描かれた映像作品は目にすることはあります。

 

上記したような経験をしているはずなのに、想像した場面とその見てくれは変化をしていなかった。

 

これは由々しき問題ではないでしょうか。

由々しき問題であると感じますし、はっきりと危険であると思います。

 

何が危険かといえば『成長できていない』などの短絡的な要素もありますが、それよりも『自分の想像を刷新できていない』こと、それが危険です。

 

これの何が危険かというと、自身が「こうだ」と思ったことを改めることができない可能性があるためです。

 

以前に書きました記事にも繋がってきますね。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

これは本当に由々しき問題です。まったく看過できない。

なぜならば『曲解した・していたことを自分自身で訂正することができなくなるかもしれない』のです。

 

嗚呼、これが老化ということなのかしら。

本当に恐ろしいです。

まったく笑えない部類の懸念です。

 

自分自身に懸念点を見いだせているだけまだマシ、というところでしょうか。

いや、それはわたし自身を甘やかしていることに他ならないと思える。

自分を戒められる、律することができるのは自分自身だけなのですからね。

 

 

空氣抵抗

わたしは興味のないものにはとても興味がありません。

 

車とかがまさにそうです。

 

つい先日、とあるコンビニエンスストアの駐車場にて、あるものを見ました。

 

トラックの運転部分?の上にはお豆腐みたいなの乗っているじゃないですか。

斜めの冷ややっこみたいなあれです。

 

その『つい先日』に、上記した冷ややっこの中身がくりぬかれていることを見たのですね。

どういうことかというと、はりぼてのとうふ、ということです。

 

「えっ?はりぼて?!」と思ったことを覺えています。

 

もういっちょ思ったことは『無駄を愛す…、、ってコト!?』ですが、効率化の鬼資本主義がそんな無駄金を使うわけがありません。

 

 

そこでたどり着いた答え。

それが「空氣抵抗をなくす」ってコトでした。

 

この見立て、正解でした。

日本語では『導風板』、インギリッシヱでは『エアデフレクター』というそうです。

 

以前「おとうふは仮眠室として利用できるんだぜ」と見たことはありましたが、すべてのおとうふが仮眠室だと思っていたので、そもそもの理由として空氣抵抗をなくすためだと思ってはいませんDした。

 

 

空氣抵抗のことが意識に入ると、世の車たちが空氣抵抗をなくそうとために作られた構造であることが見えます。

流線形流線形。

面白いくらいに町を走る車は流線形をしておりました。

 

ほら、『知識を得ると世界への解像度が上がる』って話ですよ。

 

 

わたしは車に興味がないですし二度も交通事故に遭遇しているためモーター物には恐怖心すらも抱いています。

 

なので車が空氣抵抗をなくそうとしていることに全く気付きませんでした。ってお話でした。

 

じゃあパグの顔面みたいな車はなんなんだ。

 

 

人間って、円好きですよね。

 

まぁ、「まる」とも言われるやつです。

 

皆様もきれいな円は日常的に目にされるのではないでしょうか。

 

 

ですが、いま皆さんが想起されたもの、それって、人工物じゃないですか?

企業のロゴ、ペットボトルの蓋、お皿、など。

 

円形、

 

 

考えてみれば、世の中でよく目にする綺麗な円をしているものって、ほとんどが人工物です。

自然物の円ってほとんどない。

 

 

綺麗な円は単一的。

人工物は綺麗な円をしていますが、それはまさに人工物だから綺麗な円をしているのです。

大量生産ができるから綺麗な円ができる、とも言える?

 

しかし自然界にはほとんど綺麗な円は存在しない。

そもそも単一的ですらもない。

自然は多面的だからです。

円に限らず、同じ形をしているものでも【全く同じ形】のものはないですよね。

 

自然物で綺麗な円をしているものって太陽、月、瞳くらいです。

ですが、こんなにも綺麗な円がない自然界なら、綺麗な円をしている月や太陽も人工物?

 

とはさすがに飛躍しすぎていますね。

我ながら何を言っているのかとも思います。

 

そもそも太陽と月は我々に一方の面しか見せていないのですから。

 

一方向からしか見ていない。

なら別の面からみてみよう。

 

たまご。

 

 

たまごは一般的には「たまご形」と形容される容姿をしています。

しかし、そのたまごを真下や真上から見れば、その形は綺麗な円をしています。

 

ウ~~~~ン、見る角度~~~~~~~。

 

ですが綺麗な円をしているものは本当に少ない。

 

 

ところで、人間なぜか綺麗な円が好きです。

こんなにも円、まる、というものが世の中にあふれている。

 

それって螺旋が関係しているんじゃないのかなと考えます。

わたしは螺旋に対して非常に興味を持っていて、世界の謎が詰まっているとすら考えています。

DNAの二重(三重)螺旋や竜巻、渦、バネ、まっすぐに推進する作用など、ほかにもの色んなものがあります。

 

螺旋。

今回はバネを用いますが、たまごの時と同じようにバネも横から見てみる。

すると、それは長方形なり正方形をしています。

 

しかし、バネを真上から、あるいは真下から見た場合、その形は円になります。

 

 

螺旋。

それは、どうして?と思うほど我々の生きる世界に関係しています。

螺旋には神秘が隠されている。

 

その神秘の具現化、象徴として『綺麗な円』というものがあるのではないか、その神秘と美しさがあるから、我々人間は【円】に惹かれるのではないかと感じます。

 

 

まったくの自然物で円を持っているものって何がございますか?

 

 

 

 

ありがとうございました。

取るに足らないお話たちでした。

 

 

‪( ¨̮ )‬