「『萌え』の正体」(「國文学11月号」)
- 出版社/メーカー: 学燈社
- 発売日: 2008/10/10
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「國文学」が、トチ狂って「萌え」についての特集を組んだので、一応買った。「萌え」というのは単なる流行語*1にすぎないだろうし、数年後にはたぶん「そんなのもあったねえ」とか言われるのだろう。もう「萌え」の話は飽和状態だし、今回の特集もあまり期待していなかった。
ところが、意外と数本は面白い文章が載っていた。中でも、本田透「『萌え』の行く先――文学は敗北したのか」は印象に残った。本田さんは、以下のように文学史をまとめる。
吉本隆明ふうに言えば、「大きな物語」=「共同幻想」に自己の居場所を見いだせなくなった70年代後半以降の大衆は、徐々に「小さな物語」=「対幻想」の内部へと入りこんでいった。この「対幻想」の中に「恋愛」という物語があったのだ。故に、かつては少女漫画の世界だけで消費されていた恋愛物語が、徐々に様々なジャンルに拡大していったのである。
この「恋愛」への志向がさらに内向し、「対幻想」からさらに狭い「私的幻想」のレベルへと突き進んだ結果、突如として発生したものがアキバ系の「萌え」ムーブメントだったのではないだろうか、と筆者は過去に何十回か書いた気がするのでこのあたりはあまり繰り返さない。
(27ページ)
このような議論はこれまで何度も本田さん自身も書いてきているし、複数の論者が指摘してきた。
しかし、本田さんが論じようとするのは、9.11以降のアメリカの状況を踏まえた、「萌え」以降の文学についてである。本田さんによれば、日本に先行してアメリカの私的幻想の時代は始まっていた。そして、9.11以降に、「キリスト教=民主主義勢力vsイスラム教勢力」の枠組みにより、アメリカ映画は再び「共同幻想」を描こうとする。その試みは「ダークナイト」のような暗欝な映画を生み出した。本田さんは次のように「ダークナイト」を評する。
かつて学生時代に、ティム・バートン版の「バットマン」を劇場で観た筆者は、90年代バブルが崩壊した以降の日本でも、おそらくはこのティム・バートン映画の如きオタク的コンテンツ――つまり「大きな物語」から「私的幻想」へと内向していくコンテンツが表現の主流になるのではないかと予感した。それから約20年が過ぎ、同じ「バットマン」というコンテンツを流用しながらも、「ダークナイト」は全く異なるコンテンツとして現われてきた。この映画はブルース・ウェイツという一個人が自ら抱いている「私的幻想」を、ゴッサム・シティなる「共同幻想」へと逆流させようとする過程、その挫折、悲劇を描いている。しかも、ヨーロッパ・ファンタジーの源流である「アーサー王」物語の神話的モチーフを「バットマン」の世界観に適用することで生み出されたかのようなコンテンツである。「白騎士」として登場し、裏返って堕ちていくハービィ・デントは、まるで「裏切りの騎士」ラーンスロットのように見える。この硬質な物語世界にはすでに「萌え」は無く、「対幻想」つまり恋愛すら無い。ブルースが抱く「私的幻想」とはそもそも「ゴッサム・シティという名の共同幻想を守ること」なのだから。
(31ページ)
そして、本田さんは「われわれがその内面に抱く『私的幻想』とは常に『共同幻想』側への逆流を最終目的にしている」(32ページ)という可能性を示唆する。
すなわち、これは次のような衝動を指す。「共同幻想」から逃れ、「対幻想」にも浸りきれない人間が、「私的幻想」を大事に温めている。そしてその「私的幻想」自体が内部を突き破って、現実の「共同幻想」に向かおうとする。この衝動に憑かれたのが、加藤容疑者であり、このようなテロリストを生み出す構造を、「私的幻想」は内包していると分析する。
この衝動を包み込むような文学が必要とされているが、その要求に現代日本の文壇は答える気はあるのだろうか。本田さんは、「現代文学――とりわけライトノベル寄りのジャンル」(32ページ)は、ひたすら「世界のループ」を描くという。「終わりなき日常」であり、キャラクターは、さまざまなパターンを変奏しながら、シチュエーションを反復する。キャラクターが生き続けるためには、これを永遠にループしなければならない。しかし、本田さんは次のように原稿を締めくくる。
しかしながら、現実の世界はループなどせず、われわれはみな死ぬ。死んだ後、蘇ったりはしない。取り返しはつかず、やり直しもできにあい。これはゲームではない。故にわれわれは「永劫回帰」なる概念でニヒリズムの勝利を宣言したニーチェの呪縛からいいかげんに離脱しなければならないのだが、「萌え」から程遠い話になった上に枚数が尽きたので、このあたりで筆を置くことにする。
(33ページ)
これは、「萌え」の終焉論である。まさか、「萌える男」の著者本田さんが終焉を宣言するとは。どうしようもない陳腐な締めくくりだが、私も同感である。そして、この陳腐さから、もう一度文学について考える時期に来ているのだと思う。それはほんとに基本的な「人が生きるとはなにか/死ぬとはなにか」という問題に立ち返ることだろう。現在を生きる人たちに、この問いの答えを、文学は用意することができるのか。まさに「國文学」向けの論考であった。
それはさておき、本田さんは、本当にオタクだなあ、と心底思った。村瀬ひろみ「第三のジェンダー『萌える人』――『萌え』が拓く(かもしれない)未来」*2にもあるように、「萌え」と「オタク」はわけて考えることができる。(正確には、「できた」という過去形、かもしれない)岡田斗司夫に代表されるオタクは、一種のエリートだった。特定分野の知識が異様に豊富であることにプライドを持ち、仲間たちの中で激しい競争があった。私も、この定義であればオタクである。というか、「オタクを名乗っていいのか迷う」そして「心の中でオタクだと思っているが、遠慮して言えない」そんな葛藤を抱えるという、オールドオタクである。本田さんは、「萌え」とか「キャラ」とかを中心に論じる、ニューオタクだと思っていた。しかし、この文章を読む限り、(特定の)哲学だの映画だのに耽溺する、サブカル系オールドオタクであった。私は初めて本田さんに親近感を覚えてしまった。
*1:ちなみに私は流行語が大好きである。「流行ってるから使ってみる」という言葉遊びが好きだし、言ってみたときのあほっぽさとダサさがたまらない。最近だと「KY」が気に入っていた。「けーわい」という語感も大好き。この語も、とみに流通量が落ちてきたので、このまま死んでいくんだろう。さびしい。
*2:タイトルは最悪だと思う。「第三のジェンダー」とは、トランスジェンダーの活動家が、政治的に表明してきたジェンダーである。注釈なく、この語を使うのは配慮がなさすぎるだろう。もし知らずに使っているのならば……そっちのほう問題だろう……。ちなみにこの論考の後半では、森岡正博「草食系男子の恋愛学」が言及されている。