京橋・八丁堀
東京京橋・八丁堀
まいどまいど! 日本最大規模のターミナル駅として知られる東京駅から徒歩圏内に位置する京橋・八丁堀。 周辺にはぎょうさんの高層ビルが立ち並び、周辺には日本橋や銀座など、東京を代表する地名が見えてきはりまんな。 かつてこの付近には川が流れていたといい、橋が架けられましたんや。 名を京橋といい、現在も地名として使用され、ぎょうさんの歴史を残してはりまんな。 京橋っちゅう橋の周辺には様々な物資が集まり、市場としてのにぎわいを見せていたという。 やがて都市開発により、川は埋め立てられ、川も橋も姿を消しはりましたんやけど、今でも橋の一部が現存し、当時の姿を垣間見ることもできまんねん。 また、その近くに江戸歌舞伎発祥の地と刻まれた石碑も。 八丁堀に出かけましたら、兵庫・赤穂で有名な赤穂浪士ゆかりの地やそうで、今でも石碑が建立。 なんや今と昔が交錯する不思議なエリアでんな。 ほんでから周辺には警察博物館がおまして、こどもたちに大人気のスポットともなってまんねん。
1952年、株式会社ブリヂストンの創業者・石橋正二郎氏の収集した美術品の展示を目的にブリヂストン本社ビルに開館。 石橋氏は日本の近代絵画・西洋美術の収集。 2019年、ブリヂストン美術館から改称。 2020年、ミュージアムタワー京橋内でリニューアルオープン。 従来日本の近代絵画・西洋美術だけでなく、古美術品や現代美術なども幅広く収蔵・展示。 アーティゾン(ARTIZON)はART(美術)とHORIZON(地平)を合わせた造語。
歌川広重は江戸時代、浮世絵師として活躍した人物の一人。 1797年、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。 幼少期より初代歌川豊国に入門を考えていたが、歌川豊広に入門。 「東海道五十三次」を発表。 また短冊版の花鳥画・歴史画・張交絵・戯画・玩具絵、春画、美人画も手掛けた。 1860年頃、「江戸日本橋南之絵図」によると日本橋大鋸町(現在の京橋)に住居があり、西隣には狩野永悳の旧居も。 その後、常磐町に移転。 風景を描いた木版画で人気を集め、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えたとか。
東京都中央区内を流れる荒川水系の一級河川の一つである亀島川に架かる橋。 中央区の霊岸橋付近で日本橋川から分流、中央区の中央大橋下流で隅田川に合流。 江戸時代、向井将監(忠勝ほか)の御船手奉行所があり、江戸に入る船舶はここであらためを受けたため、将監河岸とも呼ばれた。 また亀島橋は八重洲通りの一部に属し、1923年に発生した関東大震災の復興事業の一環として計画・整備され、1939年に完成。
江戸時代に活躍した武士で赤穂浪士四十七士の一人。 通称、安兵衛。 1670年、越後国新発田藩(新潟県新発田市)溝口家家臣の中山弥次右衛門の長男。 13歳の頃、父は溝口家を追われて浪人となる。 父の没後、母方の祖父・盛政に引き取られ、姉・きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られた。 19歳の頃、長井家の親戚・佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内正春の道場に入門。 天性の剣術の才で頭角を現し、免許皆伝となって堀内道場の奥田孫太夫、菱沼式兵衛、塩入主膳と並ぶ四天王と呼ばれた。 菅野六郎左衛門が高田馬場での果し合いの際、武庸は助太刀として相手方を斬った(高田馬場の決闘)。
18人斬り
以後、「18人斬り」として評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣・堀部金丸が武庸との養子縁組を望み、中山姓のまま堀部家の婿養子に入る。 1697年、金丸の娘・きちと結婚後、金丸が隠居し、武庸が家督相続し、堀部姓に変更。 赤穂藩では200石の禄を受け、御使番、馬廻役となった。 1701年、主君・長矩が江戸城松之大廊下で高家・吉良義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は改易。
赤穂浪士四十七士
武庸は江戸詰の藩士・奥田重盛、高田郡兵衛とともに赤穂へ赴き、国許の筆頭家老・大石良雄と面会。 赤穂城明け渡しを見届けた後、武庸らは江戸に戻る。 良雄・武庸ら赤穂浪士四十七士は本所松阪の義央の屋敷へ討ち入った。 武庸は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。 戦いの末、赤穂浪士は義央を討ち取り、幕府に投降し、その処分を委ねた。
警視庁の歴史と活動に関する資料を展示している日本の博物館。 正式名称は警視庁広報センター(旧・けいさつPRセンター)。 2017年、リニューアルオープン。 施設内では2016年まで高速道路交通警察隊で使用されていたパトロールカーやヘリコプターなどが展示。 制服を試着し、記念撮影もできる。
1664年、かつて当地を流れていた京橋川の水運を利用して、野菜の売り場が設置。 青物市場では大根の入荷が多くを占め、「京橋大根河岸市場」と呼ばれた。 明治時代、京橋青物食物河岸と呼ばれた。 規模は拡大し、青物・菓物の他、魚類・乾物も扱った。 大正時代、関東大震災が発生して甚大な被害を受けたが、卸問屋・仲買による組合の努力により、問屋68軒、仲買105名に達した。 1935年、築地に東京卸売市場の開業し、それに伴って移転。
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1624年、江戸歌舞伎は猿若座(中村座)の猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が中橋南地で櫓をあげたのが始まり。 記念碑には勘亭流による「江戸歌舞伎発祥の地」の文字、役者の姿が描かれている。
1933年、曾禰中條建築事務所の設計により建築。 地下鉄の駅と一体化となって建設された民間建造物としては現存する最古のもの。 1969年、英国フェアーへ英国王室マーガレット王女と夫君スノードンが来訪。 2009年、中央区の有形文化財に指定。