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| 画像 = Paul McCartney with Linda McCartney - Wings - 1976.jpg
| 画像説明 = ポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニー(1976年撮影)
| 画像サイズ = 250px
| 画像補正 = yes
| 背景色 = band
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}}
| 出身地 = {{ENG}}
| ジャンル = {{hlist-comma|[[ポップ・ロック]]<ref>{{cite web2 |last= Lewis |first= Dave |date= 2020-06-18 |title= The 10 best Paul McCartney & Wings songs |url= https://www.loudersound.com/features/the-10-best-paul-mccartney-wings-songs |work= Louder |publisher= Future Publishing Limited |accessdate= 2024-06-30 |url-status= live |archiveurl= https://web.archive.org/web/20200620054951/https://www.loudersound.com/features/the-10-best-paul-mccartney-wings-songs |archivedate= 2020-06-20 }}</ref>|[[ソフトロック]]<ref>{{cite web2 |title= Paul McCartney's 73rd birthday: Some interesting facts about the music legend |url= https://www.indiatoday.in/education-today/gk-and-current-affairs/story/paul-mccartneys-73rd-birthday-258227-2015-06-18 |work= India Today |publisher= Living Media India Limited |accessdate= 2024-06-30 }}</ref><ref>{{cite web2 |last= Stubbs |first= Stuart |date= 2020-10-21 |title= ‘It's just me’: an exclusive interview with Paul McCartney about McCartney III |url= https://www.loudandquiet.com/interview/its-just-me-an-exclusive-interview-with-paul-mccartney-about-mccartney-iii/ |work= Loud And Quiet |accessdate= 2024-06-30 }}</ref>}}
| ジャンル = {{Hlist-comma|[[ロック (音楽)|ロック]]<ref name="allmusic">{{Cite web |first=Stephen Thomas |last=Erlewine |authorlink=スティーヴン・トマス・アールワイン |title=Wings {{!}} Biography & History |url={{AllMusic|artist|wings-mn0000956707/biography|pure_url=yes}} |website=[[オールミュージック]] |publisher=All Media Group |accessdate=2020-06-20 }}</ref>|[[ポップ・ミュージック|ポップ]]<ref name="allmusic" />|[[ソフトロック]]<ref name="allmusic" />|[[アダルト・コンテンポラリー・ミュージック|アダルト・コンテンポラリー]]<ref name="allmusic" />|[[ロックンロール]]<ref name="allmusic" />}}
| 活動期間 = [[1971年]] - [[1981年]]
| レーベル = {{Hlist-comma|[[アップル・レコード|アップル]]|[[キャピトル・レコード|キャピトル]]|[[パーロフォン]]|[[コロムビア・レコード|コロムビア]]}}
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* [[リンダ・マッカートニー]]
* [[デニー・レイン]]
* デニー・シーセイウェル
* ヘンリー・マカロック
* ジェフ・ブリトン
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}}
}}
{{after float}}
'''ウイングス''' ({{Lang|en|''Wings''}}) は、[[1971年]]に結成された、元[[ビートルズ]]のメンバーである[[ポール・マッカートニー]]と彼の妻[[リンダ・マッカートニー]]、元[[ムーディー・ブルース]]の[[デニー・レイン]]の3人を中心に構成された[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]である。[[1981年]]の解散までに7枚のオリジナル・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを発表した。多くのヒット曲を発表し、代表曲に「[[ハイ・ハイ・ハイ]]」「[[C・ムーン]]」「[[マイ・ラヴ (ポール・マッカートニー&ウイングスの曲)|マイ・ラヴ]]」「[[007 死ぬのは奴らだ (曲)|007 死ぬのは奴らだ]]」「[[ジェット (曲)|ジェット]]」「[[バンド・オン・ザ・ラン (曲)|バンド・オン・ザ・ラン]]」「[[ジュニアズ・ファーム]]」「[[あの娘におせっかい]]」「[[心のラブ・ソング]]」「[[幸せのノック]]」「[[夢の旅人 (ポール・マッカートニー&ウイングスの曲)|夢の旅人]]」「[[しあわせの予感]]」「[[グッドナイト・トゥナイト]]」などがある。
 
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ポール・マッカートニーは1970年の[[ビートルズ]]解散後、『[[マッカートニー (アルバム)|マッカートニー]]』『[[ラム (アルバム)|ラム]]』の2枚のソロ・アルバムを発表した。これらのアルバムはチャート上では成功を収めた{{Efn|『マッカートニー』は全米1位と全英2位、『ラム』は全米2位と全英1位だった。}}が、音楽評論家やロック・ファンからの評価は芳しくなかった。
 
予てよりバンドによるコンサート公演活動を目論んでいた{{Efn|きっかけは[[ジョニー・キャッシュ]]が、マッカートニーの大ヒーローだった[[カール・パーキンス]]と一緒にバンドを組んで[[:en:The Johnny Cash Show|テレビ番組]]に出演していたのを観たことだった<ref>{{Cite web |title=ポール・マッカートニー、デニー・レインを偲ぶ/ウイングス結成のインスピレーションの源はジョニー・キャッシュだったことなど語る|url=https://amass.jp/172627/|website=amass|date=2024-01-25 |accessdate=2024-01-25}}</ref>。}}マッカートニーは、『ラム』のレコーディング録音に参加していたドラマーの[[:en:Denny Seiwell|デニー・セイウェル]]と、ギターの[[:en:Hugh McCracken|ヒュー・マクラッケン]]に参加を打診したところ、セイウェルは承諾した{{Sfn| Badman |2001|p=}}。マクラッケンに断られたマッカートニは、ギター担当として1960年代からの知り合いであるデニー・レイン{{Efn|1965年当時、レインが在籍していた[[ムーディー・ブルース]]は [[ブライアン・エプスタイン]]がマネージメントを担当していた関係で、ビートルズの[[:en: The Beatles' 1965 UK tour|イギリス・ツアー]]に同行していた{{Sfn| Everett |2001|p=335}}。}}に連絡を取り、参加することとなっを決定した。キーボードとコーラスはリンダが担当することとなった。今まで写真家として活動しており、音楽経験の無かったリンダだったが、マッカートニとの結婚時から新たなバンドに参加してくれないか」するようと頼まれていたという{{Sfn| Lewisohn |2002|p=}}。
 
[[1971年]][[8月]]、4人は新しいバンドのアルバムのレコーディング録音を開始した。ウイングスというバンド名は、当時リンダの出産{{Efn|1971年9月13日マッカートニー夫妻の間に三女[[ステラ・マッカートニー|ステラ]]が誕生した。}}を待つ間にマッカートニが思いついた「天使の翼」というフレーズ言葉に由来するものであり、イギリスの音楽誌「[[ニュー・ミュージカル・エクスプレス|NME]]」の[[1971年]][[10月2日]]号で明らかにされた。翌月にはバンド結成を記念したパーティが開かれ、[[エルトン・ジョン]]や[[ギルバート・オサリバン]]をはじめとする多くの著名人が出席した。
 
[[12月]]にウイングスとしてのファースト・アルバム『[[ワイルド・ライフ]]』は発売され、全米・全英ともに10位台を記録した<ref>[https://www.rollingstone.com/music/artists/paul-mccartney/albumguide  Paul McCartney: Album Guide Rollingstone.com]</ref>が、このアルバムはわずか2週間、そのうち録音に費やされたのは3日間という短期間で完成させたため、音楽評論家の評価は批判的だった{{Sfn| Woffinden |1975|p=47, 62–63}}{{Sfn| Madinge|Easter |2000|p=151}}。
 
[[1972年]][[1月]]に新メンバーとして[[ジョー・コッカー]]のバックバンド、[[グリース・バンド]]のギタリストだった[[:en:Henry McCullough|ヘンリー・マカロック]]が参加した{{Sfn|Badman |2001|p=}}ウイングスは、『ワイルド・ライフ』の発売から約2か月後の[[2月9日]]、イギリスの[[ノッティンガム大学]]を皮切りに[[:en:Wings University Tour|最初のツアー]]を開始した<ref>{{cite web |url=http://www.uncut.co.uk/paul-mccartney/how-on-earth-do-you-follow-the-beatles-paul-mccartney-on-wings-feature |title=How On Earth Do You Follow The Beatles? Paul McCartney On Wings |publisher=Uncut.co.uk |access-date=18 April 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20120910165819/http://www.uncut.co.uk/paul-mccartney/how-on-earth-do-you-follow-the-beatles-paul-mccartney-on-wings-feature |archive-date=10 September 2012 |url-status=live }}</ref>。抜き打ちで選んだ大学にアポイント予告しで向かいく赴きマッカートニ自らが大学と交渉してライブ公演を行うというこのツアーは、新バンドのデモンストレーション的要素の強いものであった。同年7月からは、本国を除く[[:en:Wings Over Europe Tour|ヨーロッパを回る2度目のコンサート・ツアー]]を敢行した。ちなみに、これらのツアーではビートルズの楽曲は一切演奏されていない<ref name="MPL">However, McCartney played a solo version of "Let It Be", on piano, at Nottingham. [http://www.mplcommunications.com/MCCARTNEY/paul_bio1971.htm Paul McCartney biography] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061210094741/http://www.mplcommunications.com/McCartney/paul_bio1971.htm |date=10 December 2006 }}(2003). MPL Communications. Retrieved: 11 December 2006.</ref>。
 
1972年にウイングスはシングル「[[アイルランドに平和を]]」「[[メアリーの子羊]]」「[[ハイ・ハイ・ハイ]]」「[[C・ムーン]]」を発表した。「アイルランドに平和を」は政治的な内容であるとして、「ハイ・ハイ・ハイ」はドラッグ薬物を連想させ、性的な内容にも捉えられるとの理由によりラジオ等で放送禁止となったが、それでもチャート上ではスマッシュヒットとなった。
 
=== 音楽的全盛期:1973年 - 1976年 ===
[[1973年]]になると、新アルバム『[[レッド・ローズ・スピードウェイ]]』の先行シングル「[[マイ・ラヴ (ポール・マッカートニー&ウイングスの曲)|マイ・ラヴ]]」が大ヒットとなり{{Sfn| かまち潤 |2005|p=181}}、その勢いでアルバムも前作を大きく上回るセールス売上を記録しただけでなく、ウイングスにとってどちらも初の全米1位を記録した。このアルバムは、当初『[[ラム (アルバム)|ラム]]』で漏制作時に録音された楽曲も収録し2枚組にする予定でアルバムとして制作されたものの、前作のセールス売上不振を理由に所属レコード会社全米での販売を担っている[[キャピトル・レコード|キャピトル]]の反対により1枚で発表さにまとめられた{{Sfn| Benitez |2010|p=43}}{{Efn|当時、[[アラン・クライン]]が[[アップル・コア|アップル]]を去ったため{{Sfn|Goodman|2015|p=234, 237}}、アメリカでの販売戦略やプロモーションはキャピトルが主導していた。}}{{Efn|2018年に「アーカイヴ・コレクション・シリーズ」で、当初構想されていたLP2枚組に収録予定だった楽曲を再構成したダブルアルバム再現盤が発売されている。}}。また同様の理由で以後の数枚のシングルアルバムにおけるアーティスト名は、“ポール・マッカートニー&ウイングス”となっている{{Sfn| Mulligan |2010|p=150}}。映画の主題歌となったシングル[[007 死ぬのは奴らだ (曲)|007 死ぬのは奴らだ]]{{Efn|ロジャー・ムーア主演の『007死ぬのは奴らだ』のオープニング・テーマ曲。この時期のシングルでは唯一ウイングス名義になっている。}}も同様に全米2位をマークに到達するヒットを記録した。
 
ウイングスとしての活動軌道に乗り始めマッカートニは[[:en:Wings 1973 UK Tour|英国ツアー]]を終えた後、新作のレコーディングアルバムを[[ナイジェリア]]の[[ラゴス]]で行う制作することを決定する。しかし、リハーサルセッション準備を終えてラゴスに向かう前日、マカロックとセイウェルがグループを脱退してしまうする{{Sfn| Emerick | Massey |2006|p=337}}{{Efn|原因としては音楽の方向性の相違、素人のリンダを入れていることへの違和感、報酬に対する不満、滞在先の衛生環境や治安等が挙げられている{{Sfn| Clayson |2003|p=167}}{{Sfn| Rodriguez |2010|p=204,210}}{{Sfn| Sounes |2010|p=308-10}}。}}。結局、[[8月]]にマッカトニー夫妻リンダ、レインの3人でナイジェリアに渡り、1か月半に及ぶラゴスでのレコーディング録音に臨んだが、デモテープの盗難などさまざまなトラブルに見舞われたも問題が続々なっ発生した。マッカートニはベースやギターだけでなく[[キーボード (楽器)|キーボード]]やドラムなども演奏し、一人で数役を担っていた。録音された作品は最終的にイギリスでの仕上げ作業を経て、その年の暮れに『[[バンド・オン・ザ・ラン]]』としてリリース発売された。このアルバムは全世界で600万枚以上のセールス売上を記録し、ビートルズ解散後のマッカートニのアルバムとしては最大級の成功を収めた{{Efn|1998年には発売25周年を記念してボーナス・ディスクを追加した限定盤も発売されている。}}。またシングル「[[愛しのヘレン]]」「[[ジェット (曲)|ジェット]]」「[[バンド・オン・ザ・ラン (曲)|バンド・オン・ザ・ラン]]」もヒットした{{Sfn| かまち潤 |2005|p=194}}。なお、これらのシングルやこのアルバムの他の収録曲の一部は、2010年以降もマッカートニライヴ公演での定番のレパートリーとなっている。
 
[[1974年]]になると、ポールはコンサート活動の再開を思案する。新たなメンバーを必要としたポールは選考オーディションを行い、最終的にギター担当の元[[:en:STONE THE CROWS|ストーン・ザ・クロウズ]]の[[ジミー・マカロック]]、ドラマーとして[[:en:Geoff Britton|ジェフ・ブリトン]]をグループに加入させた{{Efn|マカロック加入直後の1月から5月まで、メンバー4人でポールの弟マイクのレコーディングセッションに参加している。ブリトンは6月に加入した。}}。この2人を加えた新たなラインナップを引き連れて[[ナッシュビル]]、[[ロンドン]]などでレコーディングを行い、シングル「[[ジュニアズ・ファーム]]」も発表された。[[1975年]]1月には[[ニューオーリンズ]]に渡って本格的なアルバムの制作に取り掛かる。しかしその矢先にブリトンが脱退{{Efn|彼がグループを脱退したのは加入からわずか7か月後のことであり、この布陣はグループの約10年間の活動期間の中で最も短命に終わっている。}}。代わって[[:en:Joe English (musician)|ジョー・イングリッシュ]]がドラマーとして加入し、完成したアルバムは『[[ヴィーナス・アンド・マース (アルバム)|ヴィーナス・アンド・マース]]』として同年5月に発売された。このアルバムは、前作の成功が追い風となり、アメリカでは発売前の予約枚数だけで200万枚に達する高いセールスを記録し、先行シングル「[[あの娘におせっかい]]」とともに全米1位を達成した。
 
[[1974年]]になるとマッカートニコンサート公演活動の再開を思案する。新たなメンバーを必要としたマッカートニは選考オーディションを行い、最終的にギター担当の元[[:en:STONE THE CROWS|ストーン・ザ・クロウズ]]の[[ジミー・マカロック]]、ドラマーとして[[:en:Geoff Britton|ジェフ・ブリトン]]をグループに加入させ採用した{{Efn|マカロック加入直後の1月から5月まで、メンバー4人でポールマッカートニー弟マイク・マクギアレコーディングセッション作業に参加している。ブリトンは6月に加入した。}}。この2人を加えた新たなラインナップを引き連れて編成により、[[テネシー州]][[ナッシュビル]][[ロンドン]]などでレコーディング録音を行い、シングル「[[ジュニアズ・ファーム]]」発表された。[[1975年]]1月には[[ルイジアナ州]][[ニューオーリンズ]]に渡って本格的なアルバムの制作に取り掛かる。しかしその矢先にブリトンが脱退{{Efn|彼がグループを脱退したのは加入からわずか7か月後のことであり、この布陣はグループの約10年間の活動期間の中で最も短命に終わっている。}}{{Efn|空手の有段者であり国際大会にも出場していたブリトンは、酒もたばこもドラッグもやらない真面目な性格だったため他のメンバーと馴染めなかったと言われている。特にマカロックと折り合いが悪く、セッション中も険悪な雰囲気になることが多かったため、自ら脱退を申し出たとも、ポールに解雇されたとも言われている。なお公式には「空手映画への出演とサウンドトラックの制作のオファーがあり、新しいキャリアのために引き受けることになった」と発表された<ref>{{Cite web ||title=Geoff Britton|url=https://www.the-paulmccartney-project.com/artist/geoff-britton/ |website=The Paul McCartney Project |accessdate=2024-07-12 }}</ref>。}}。代わって[[:en:Joe English (musician)|ジョー・イングリッシュ]]がドラマーとして加入し、完成したアルバムは『[[ヴィーナス・アンド・マース (アルバム)|ヴィーナス・アンド・マース]]』として同年5月に発売された。このアルバムは、前作の成功が追い風となり、アメリカでは発売前の予約枚数だけで200万枚に達する高いセールス売上を記録し、先行シングル「[[あの娘におせっかい]]」とともに全米1位を達成した。
[[ファイル:Paul McCartney with Jimmy McCulloch - Wings - 1976.jpg|thumb|right|230px|ジミー・マカロック(左)とポール・マッカートニー(1976年)]]
[[ファイル:Denny Laine - Wings - 1976.jpg|thumb|right|170px|デニー・レイン(1976年)]]
『ヴィーナス・アンド・マース』には、ポール以外のメンバーがリード・ヴォーカルをとる楽曲が2曲収録されている。その一つ「メディシン・ジャー」はジミー・マカロック自身による作曲であったが、こういった楽曲を収録する背景には、「あくまでポール・マッカートニーのバックバンドにすぎない」という世間のウイングスに対する一般的なイメージを払拭したいとする彼の狙いがあった。なお、アーティスト名もこのアルバムからウイングス名義に戻っている。
 
[[1975年]][[9月]]からより、ウイングスは12ヶ国で64回公演の[[:en:Wings Over the World tour|大規模なツアー]]を開始する。その最中に制作されたのが、[[1976年]]に発売された『[[スピード・オブ・サウンド (アルバム)|スピード・オブ・サウンド]]』である。ウイングスが一つのバンドとして世間に認知されることを望んでいたマッカートニは、このアルバムではバンドメンバー全員にリード・ヴォーカルをとらせている。彼自身の歌唱による作品は半数ほどにとどまっていたが、『スピード・オブ・サウンド』はアメリカでは計7週の1位とヒットした。また、このアルバムからのシングルである「[[心のラブ・ソング]]」「[[幸せのノック]]」は大ヒットを記録した。その主たる要因となったのが、同年5月から6月にかけて行われた全米ツアー『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』である。30回の公演で60万人もの観客動員数を記録したこのツアーの模様は、のちにツアータイトルを題名にしたライヴ盤『[[ウイングス・オーヴァー・アメリカ]]』や映画『ロックショウ』としても発表された。『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』はLP3枚組という形態での発売だったが、それにもかかわらず全米チャート1位を獲得している。ウイングスを随える形で再び世界的な成功を収めたマッカートニは、[[ジョン・レノン]]が長い活動休止期間に入り、[[ジョージ・ハリスン]]や[[リンゴ・スター]]のソロ活動が次第に低調になり始めた1970年代中盤においても、ビートルズの元メンバーとして活躍し続けた。大成功したツアーが大成功を収め、わっ了しときマッカートニは嬉しさのあまり泣き崩れたと言われている。
 
=== 後期の活動:1977年 - 1979年 ===
長期間のツアーを終えたあと、レインはソロ・アルバムの制作{{Efn|[[バディ・ホリー]]のカバー・アルバム『[[:en:Holly Days|ホリーデイズ]]』。ポールがプロデュースした。}}、マカロックは他のグループに参加{{Efn|兄のジャック・マカロック(ドラムス)、デイヴ・クラーク(ベース、キーボード、ボーカル)と共に「ホワイト・ライン」を結成し数回のギグを行い、シングル「"Call My Name"/"Too Many Miles"」をリリース発売した。}}するなど、メンバーはそれぞれ各自の活動に入った。そのあいだ暫く活動が休止していたウイングスだが、[[1977年]]になると再びポールは新作の制作に取り掛かる。レコーディングは同年の2月に[[ロンドン]]の[[アビイ・ロード・スタジオ]]で開始され、5月からは[[ヴァージン諸島]]に拠点を移して行われたが、帰後にマカロックとイングリッシュが脱退し{{Efn|マカロックは[[スモール・フェイセス]]にギタリストとして加入するためにグループを脱退したが、それから約2年後の[[1979年]][[9月27日]]に[[ヘロイン]]の過剰摂取により、26歳の若さで急逝した。}}、ウイングスのメンバーは再び3人だけになってしまった。また、同時期にリンダは妊娠したため{{Efn|1977年9月12日マッカートニー夫妻の間に長男[[ジェイムズ・マッカートニー|ジェームズ]]が誕生した。}}、アルバムは最終的にマッカートニとレインの2人によって仕上げられている
 
リンダが産休に入っていた期間にウイングス名義でリリースされた唯一のレコードが、マッカートニとレインの共作によるスコティッシュ・ワルツ「[[夢の旅人 (ポール・マッカートニー&ウイングスの曲)|夢の旅人]]」である。11月に「ガールズ・スクール」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、アメリカでは最高位33位とるわなかったものの、イギリスでは9週連続1位を獲得する大ヒットとなった。この曲はマッカートニにとって初となる全英シングルチャート1位獲得作品となっただけでなく、当時[[ビートルズ]]の「[[シー・ラヴズ・ユー]]」が持っていた英国におけるシングルの最多売上枚数記録を更新し、最終的に200万枚以上を売り上げた。
 
[[1978年]]3月、「夢の旅人」などと同時期に録音された楽曲も含めアルバム『[[ロンドン・タウン]]』がリリース発売された。このアルバムからは「[[しあわせの予感]]」が全米1位、全英5位とヒットしている。またタイトル曲にもなっている「たそがれのロンドン・タウン」を中心にレインとの共作が5曲あり、全体的にレインの影響を伺わせている。アルバム・チャートではイギリスで4位、アメリカで6週連続2位と、『レッド・ローズ・スピードウェイ』から続いていた連続第1位獲得を果たせなかった{{Efn|[[ビージーズ]]が音楽担当した[[サタデー・ナイト・フィーバー (サウンドトラック)|映画『サタディ・ナイト・フィーバー』のサウンドトラック]]に阻まれた。}}。 その後6月、ドラムの[[:en:Steve Holley|スティーブ・ホリー]]とギターの[[ローレンス・ジューバー]]が参加し、再びウイングスは5人編成となると、[[クリス・トーマス]]{{Efn|[[ピンク・フロイド]]や[[エルトン・ジョン]]のプロデュースを行った音楽プロデューサー。}}をプロデューサーに迎え、新たなアルバムの制作にとりかかった
 
1979年6月入ると、[[クリス・トーマス]]{{Efn|[[ピンク・フロイド]]や[[エルトン・ジョン]]のプロデュースを行っ発表され音楽プロデューサー。}}をプロデューサーに迎え、新たなアルバム『[[バック・トゥ・ジ・エッグ]]』の制作にとりかかる。本作シングルのみで発売された「[[グッドナイト・トゥナイト]]」など、当時の流行であった[[ディスコミュージック]]の影響を受けてい。また[[ハンク・マーヴィン]]{{Efn|「アパッチ」で有名な[[シャドウズ]]のギタリスト}}、[[ピート・タウンゼント]]{{Efn|[[ザ・フー]]のギタリスト}}や[[ジョン・ボーナム]]、[[ジョン・ポール・ジョーンズ (ミュージシャン)|ジョン・ポール・ジョーンズ]]、[[デヴィッド・ギルモア]]{{Efn|[[ピンク・フロイド]]のギリスト}}をはじめとする多数の大物ミュージシャンとともに「ロケストラ」と名付けられた豪華なセッションを行ったり、殆どの収録曲でプロモーション・クリップを撮影したりと、ポールはこのアルバムの制作にかなりの意欲をもって臨んでいたが、アルバムのチャート順位は全米8位、全英6位だった。
 
この新作アルバムを引っ提げての完成後に行われた[[:en:Wings UK Tour 1979|イギリスでのツアー]]を終えたウイングスは、その年の暮れの[[12月26日]]から[[12月29日|29日]]にかけて行われた[[国際連合児童基金|ユニセフ]]主催のチャリティ・コンサート「[[:en:Concerts for the People of Kampuchea|カンボジア難民救済コンサート]]」の最終日に出演。彼等はこのライブでアルバム内で繰り拡げられたセッション([[ロケストラ]])を再現し、[[クイーン (バンド)|クイーン]]や[[ザ・クラッシュ]]、[[エルヴィス・コステロ|エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ]]などが参加した豪華なコンサート公演のトリを飾った。しかし、このパフォーマンスウイングスにとって最後のライブ活動公演となってしまった。
 
=== 解散 ===
[[1980年]]、ウイングスは初のツアー本公演1月21~24日同月31日~2月2日に日本武道館、1月25日・26日に愛知県体育館、1月28日にフェスティバルホール、同月29日に大阪府立体育館で行う予定となであていた{{Efn|この約5年前の1975年にも公演が予定されていたが、1972年にマッカートニー夫妻がスウェーデンでマリファナ大麻不法所持で逮捕された前歴{{Sfn| ザ・ビートルズ・クラブ |2019/01|p=129}}を理由に法務省から入国拒否されていたため、実現には至っていなかった。}}{{Sfn| DIA Collection |2017|p=4-5}}。ところが1月16日、マッカートニ[[成田空港]]の税関で[[大麻取締法]]違反(不法所持)で現行犯逮捕されるという事件が起こった。これによりポマッカートニは数日間の勾留のあと日本からの[[退去強制|国外退去]]処分を受けて本国に帰国、急遽日本でのツアーは全公演の全日程を中止となった{{Efn|マッカートニは、同年に発表したソロ・アルバム『マッカートニーII』の中で「フローズン・ジャパニーズ」を発表。この曲は日本人に対する逆恨みではないかを歌ったもの騒が疑われたが、マッカートニは「曲を作ったのは日本に行く前、雪化粧の富士山を思い浮かべて作ったんだ。偏見があるわけじゃない、もしあったのなら日本へ行ったりはしない」とコメントしている。マッカートニが語る通り、この曲は前年の1979年の夏に完成していた。}}。
 
マッカートニ4月にソロ・シングル「[[カミング・アップ (曲)|カミング・アップ]]」、5月には10年ぶりのソロ・アルバム『[[マッカートニーII]]』を発表した{{Efn|CBSコロンビア系に移籍しての作品だった。}}。北米では「カミング・アップ」のB面に収録された1979年のウイングスのスコットランド・グラスゴー公演でのライブ音源が人気を博し、6月に全米1位を獲得した。7月にはマッカートニ、リンダとジューバーが、パリフランスで行われた[[リンゴ・スター]]の[[バラの香りを|新しいアルバム]]のレコーディング・セッション録音に参加した<ref name="Juberint">{{cite web|url=https://daytrippin.com/2010/10/15/exclusive-ex-wings-guitarist-laurence-juber-talks-about-having-paul-mccartney-as-a-boss |last=Terrill |first=Marshall |title=Exclusive: Ex-Wings guitarist, Laurence Juber, talks about having Paul McCartney as a boss |publisher=Daytrippin' Magazine |date=15 October 2010 |accessdate=2023-03-20}}</ref>。レインはソロ・アルバムの制作を行い、録音に参加していたホリーを含むバンドで短いツアーを行った。このアルバム『[[:en:Japanese Tears|ジャパニーズ・ティアーズ]]』は12月に発売されたが、ウイングスの未発表曲{{Efn|1972年の『レッド・ローズ・スピードウェイ』セッションで録音された「アイ・ウッド・オンリー・スマイル」、1974年にナッシュビルで録音された「センド・ミー・ザ・ハート」、1978年の『バック・トゥ・ジ・エッグ』セッションで録音された「愛の嘆き」の3曲。}}が含まれていた
 
秋に予定されていた全米ツアーはキャンセル中止されたが、10月にはマッカートニがメンバー全員を招集して、未発表曲を集めたアルバム『[[:en:Cold Cuts (Paul McCartney album)|コールド・カッツ]]』のオーバーダブ用のセッションと、当初ウイングスとして発表する予定だったアルバム『[[タッグ・オブ・ウォー]]』のリハーサル・セッションを行い、デモテープを録音した{{Sfn| ザ・ビートルズ・クラブ|2019/09|p=9}}。
 
10月31日・11月3日、マッカートニは「[[ウィ・オール・スタンド・トゥゲザー]]」{{Efn|自らの脚本で制作されることになった『[[ルパート (キャラクター)|くまのルパート]]』を原作とした[[アニメーション映画]]「[[:en:Rupert and the Frog Song|ルパートとカエルの歌]]」の主題歌。}}のレコーディングを録音にビートルズ時代のプロデューサーである[[ジョージ・マーティン]]を迎えて行った。その際、マッカートニーはしいアルバムのプロデュースも依頼するとしたが、デモ・テープを聴いたマーティンからソロ・アルバムにしたほうがいいと助言された。マッカートニそれ提言を受け入れ、メンバーにはアルバムが完成した後の翌年1月に再招集すると伝えた<ref name="Juberint"/>。11月末にはレインとともにマーティンのプロデュースで『タッグ・オブ・ウォー』の制作を開始した{{Sfn| ザ・ビートルズ・クラブ|2019/09|p=9}}。しかし[[12月]]、ビートルズ時代の仲間であった[[ジョン・レノン]]がニューヨークの自宅前で射殺される事件が起き、ポる。マッカートニショック強い衝撃を受け、直後にスタジオに籠ってしまった。その後年内の活動を中止、自宅に籠もったまま公の場に姿を見せなかった。
 
[[1981年]]になるとすぐに、マッカートニーは[[サセックス]]のパークゲート・スタジオ{{Efn|イギリス・イースト・サセックスのキャッツフィールド村にあった住宅兼レコーディング・スタジオ。2008年に売却され、住居用アパートに改築された<ref>{{cite web|url=https://www.discogs.com/ja/label/275802-Parkgate-Studios?sort=format&sort_order=asc&page=1|title=Parkgate Studios|publisher=Discogs |access-date= 2024-04-20}}</ref>。}}で録音を行うと、その後[[ジョージ・ハリスン]]の「[[過ぎ去りし日々]]」の[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]にマッカル、リンダ、トニー夫妻とレインが参加した{{Sfn| Badman |1999|p=}}{{Efn|「[[ワンダーラスト (ポール・マッカートニーの曲)|ワンダーラスト]]」にハリスンのギター演奏をオーバーダブするためだったのだが、ハリスンの提案で3人のコーラスを録音することになった。}}。1月中旬にはメンバーを再招集して『コールド・カッツ』のオーバーダブ用のセッション行ったが、結局これがグループ最後の活動となった<ref name="Juberint"/><ref>{{Cite web ||title="Cold Cuts" overdubs and mixing |url=https://www.the-paulmccartney-project.com/session/cold-cuts-overdubs-and-mixing/ |website=The Paul McCartney Project |accessdate=2023-03-20 }}</ref>。
 
2月になると、マッカートニは[[カリブ海]]の[[モントセラト]]で有名ミュージシャン{{Efn|[[スタンリー・クラーク]]、[[スティーブ・ガッド]]、リンゴ・スター、[[カール・パーキンス]]、[[スティービー・ワンダー]]等}}とともにアルバムのレコーディン録音を開始した。しかし、今後のグループの活動について意見が対立したため{{Efn|レインはコンサート公演活動の再開を望んだが、レノンの死にショック衝撃を受けていたマッカートニにそのつもりはなかった。}}、レインは途中で帰国してしまった。その後マッカートニーはロンドンに戻って録音を続けたが、レインが合流することはなかった<ref>{{Cite web ||title=Tug Of War sessions at AIR Studios, London|url=https://www.the-paulmccartney-project.com/session/tug-of-war-session-at-air-studios-london/|website=The Paul McCartney Project |accessdate=2023-03-20 }}</ref>。結局、マッカートニー夫妻がロンドンで行われたスターの結婚式に出席していた[[4月27日]]にレインが脱退を表明した<ref name="AP">{{cite news |agency=Associated Press |url=https://news.google.com/newspapers?id=r4ZVAAAAIBAJ&sjid=jT8NAAAAIBAJ&pg=2362,4599828&dq=denny+laine+wings+mccartney&hl=en |title=Wings clipped |archive-url=https://web.archive.org/web/20160618153428/https://news.google.com/newspapers?id=r4ZVAAAAIBAJ&sjid=jT8NAAAAIBAJ&pg=2362,4599828&dq=denny+laine+wings+mccartney&hl=en |archive-date=18 June 2016 |work=The Leader-Post |date=29 April 1981 |page=D2 |url-status=live |via=Google News}}</ref>ことによって、グループは実質的な解散を迎えた{{Sfn| 藤本国彦 |2021|p=99-100}}{{Efn|スタジオ・ミュージシャンなどの仕事をしながら再招集を待っていたジューバーやホリーは、新聞記事でこのことを知った。この時点で広報担当は解散を否定した<ref name="AP"/>が、二人が再招集されることはなかった。その後もポールが公式に解散を発表することはなく、グループは自然消滅した。}}。
 
=== その後 ===
ポールは[[1989年]]、ポールは『[[フラワーズ・イン・ザ・ダート]]』の発表後、アルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なコンサート公演活動を開始する。これ以降、アルバムを発表するたびにコンサート公演活動を行うが、あくまでもポールとそのバックバンドという形をとっており体裁が取られるため、ウイングス名義での活動は現在まで行っていない。
 
[[1997年]]3月、[[:en:East Rutherford, New Jersey|ニュージャージー州イーストラザフォード]]で開催された「[[:en:the Fest for Beatles Fans|ビートルフェスト・コンベンション]]」で、[[デニー・レイン]]、[[ローレンス・ジューバー]]、[[:en:Steve Holley|スティーブ・ホリー]]が顔を揃えた。この即席の再結成は元々予定されていなかったため、これ以降の計画が立てられることもなかった<ref>[https://www.cottageviews.com/wings.htm 1997 "Wings" photo page by Michael Cimino Archives] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081201191435/http://cottageviews.com/wings.htm |date=December 1, 2008 }}.</ref>。しかし、10年後の[[2007年]]7月、今度はレイン、ジュバー、[[:en:Denny Seiwell|デニー・セイウェル]]の3人が、[[ネバダ州]][[ラスベガス]]で開催された「ビートルフェスト・コンベンション」で顔を揃え、「[[バンド・オン・ザ・ラン (曲)|バンド・オン・ザ・ラン]]」「[[夢の旅人]]」「[[ゴー・ナウ]]」を演奏した<ref>[https://web.archive.org/web/20070117015943/http://classicrockcentral.com/classic_rock_news.cfm#39 "Wings Alumni to Take Flight"], ClassicRockCentral.com, 10 July 2007. Retrieved 17 September 2007.</ref>。この後、たびたびイベントに「元ウイングス」が登場することになった。
[[2001年]]には[[:en:MPL Communications|MPLコミュニケーションズ]]が制作したウイングスの軌跡を扱ったドキュメンタリー番組『[[:en:Wingspan (film)|ウイングスパン]]』が、ベスト・アルバム『[[夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー〜]]』(''[[:en:Wingspan: Hits and History|Wingspan: Hits and History]]'')の発売に合わせて、全世界で放映された。さらに[[2002年]]には番組の脚本に基づいてビートルズの歴史家[[:en:Mark Lewisohn|マーク・ルイソン]]が編集した書籍『ウイングスパン』が出版された。
* 2010年3月、[[:en:Secaucus, New Jersey|ニュージャージー州セコーカス]]で開催された「[[:en:the Fest for Beatles Fans|ビートルズファンのためのフェスティバル]](以下フェスティバル)」にレインとセイウェルが登場<ref>[https://www.thefest.com/news/index.php/2010/02/06/denny-laine-others-added-to-ny-metro-lineup/ The Fest for Beatles Fans " Blog Archive " Denny Laine &amp; others added to NY METRO Lineup.] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100220070134/http://www.thefest.com/news/index.php/2010/02/06/denny-laine-others-added-to-ny-metro-lineup/ |date=20 February 2010 }} Retrieved 20 February 2010.</ref>。
* 同年8月、[[イリノイ州]][[シカゴ]]で行われたフェスティバルではジューバーが加わった。
* 2014年10月、[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]で開催されたフェスティバルでも3人が共演。セットリストには、「[[ハイ・ハイ・ハイ]]」「007 死ぬのは奴らだ」と「[[ロケストラのテーマ]]」が含まれていた<ref name="la14">{{cite news|last=Gomez|first=Sal|title=Entertainment Corner: The Fest for Beatles Fans|url=https://midvalleynews.com/entertainment-and-beyond/music-reviews-movie-reviews-book-reviews/2014/10/29/entertainment-corner-the-fest-for-beatles-fans/|newspaper=Mid Valley News|location=El Monte, CA|date=October 29, 2014|accessdate=February 2, 2015}}</ref>。
* 2017年8月、3人は再びシカゴでのフェスティバルに出演し、今回はホリーも参加した<ref>{{Cite web|url=https://www.facebook.com/DBFLaine/posts/2062878893730013|accessdate=2021-01-19|title=Denny Laine|website=www.facebook.com}}</ref>。
* 2018年1月、[[:en:Upland, California|カリフォルニア州アップランド]]のグランドオークライブで行われたイベント「イマジン・サムシング・イエスタデイ」でレイン、ジューバー、セイウェル、ホリーが共演し、[[ヘッドライナー (コンサート)|ヘッドライナー]]として演奏を行った。<ref>{{Cite web|url=https://www.facebook.com/events/428942187521928|accessdate=2021-01-19|title=Imagine Something Yesterday (Take III)|website=www.facebook.com}}</ref>
* 2019年3月、[[:en:Jersey City, New Jersey|ニュージャージー州ジャージーシティ]]のフェスティバルでレイン、ジューバー、ホリーは再び共演し、ウイングスのラストアルバムとなった『バック・トゥ・ジ・エッグ』から「[[ゲッティング・クローサー]]」「[[ソー・グラッド]]」「ロケストラのテーマ」など数曲を演奏した<ref>"Wings Reunion at The Fest For Beatles Fans 2019". ''www.youtube.com.'' 2021年1月19日閲覧。</ref>
 
20031998に公開された4月17日、[[カ映画『ゾナ州]][[セイブ・ザ・ワルドソン]]』(''でリンダが56歳で亡くなった。1995年に[[:en:The In-Laws (2003 film)|The In-Laws乳癌]]'')のサウンドトラックにポールであること3曲提供発覚し、同年秋に行われた手術は成功したが、いずれもウイ1997年に再発。やがて転移し病状が悪化、ツーソグス音源だっ別荘で療養していた。1曲目は『[[ラム (半年後にリンダのコンピレーション・アルバム)『[[:en:Wide Prairie|ラムワイド・プレイリー]]』がリリースされたが、『[[レッド・ローズ・スピードウェイ]]』セッションで録音された「[[:en:Seaside Woman|シーサイド・ウーマン]]」その後1980年のコール[[バンド・カッツオン・ザ・ラン]]用のセッションで追加のオーバーダブを行っ録音された「A[[:en:The LoveOriental For YouNightfish|オリエンタル・ナイトフィッシュ]]。2曲目は、1973年11月にパリで録音された「ワイド・プレイリー」「アイ・ガット・アップ」、[[ヴィーナス・アンド・マース (アルバム)|ヴィーナス・アンド・マース]]セッションで録音された「[[007 死ぬのは奴らだ]]ニューオリンズ。3曲目は、そしてロン[[スピー・オブ・サウド (アルバム)|スピードオブ・サウンド]]』に収録されていた「I'm Carryingクック・オブ・ザ・ハウスの6曲がウイングスの音源だった。
 
[[2001年]]には[[:en:MPL Communications|MPLコミュニケーションズ]]が制作したウイングスの軌跡を扱ったドキュメンタリー番組『[[:en:Wingspan (film)|ウイングスパン]]』が、ベスト・アルバム『[[夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー〜]]』( (''[[:en:Wingspan: Hits and History|Wingspan: Hits and History]]'')]]』の発売に合わせて、全世界で放映された。さらに[[2002年]]には番組の脚本に基づいてビートルズの歴史家[[:en:Mark Lewisohn|マーク・ルイソン]]が編集した書籍『ウイングスパン』が出版された。
2010年11月『[[バンド・オン・ザ・ラン]]』から開始されたプロジェクト「[[:en:Paul McCartney Archive Collection|ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション]]」では、ウイングスの未発表音源(ライブ、リハーサル、デモ、別ミックス等)が数多く公開されている。また、未公開だった『ブルース・マックマウス・ショー』(1972)や『ワン・ハンド・クラッピング』(1974)、未発売だったTV番組 『ジェームズ・ポール・マッカートニー』などの映像作品も公開された。2021年1月現在、『ロンドン・タウン』と『バック・トゥ・ジ・エッグ』の2作を除くウイングス名義のオリジナルアルバムとライブアルバムはリリース済である。
 
2003年に公開されたアメリカ映画『[[セイブ・ザ・ワールド]] (''[[:en:The In-Laws (2003 film)|The In-Laws]]'')』のサウンドトラックにポールが3曲提供したが、いずれもウイングスの音源だった。1曲目は『[[ラム (アルバム)|ラム]]』のセッションで録音され、その後1980年の『コールド・カッツ』用のセッションで追加のオーバーダブを行った「A Love For You」。2曲目は『[[ワン・ハンド・クラッピング]]』のセッションで録音された「[[007 死ぬのは奴らだ]]」<ref>{{cite web|url=https://superdeluxeedition.com/news/paul-mccartney-wings-one-hand-clapping/|title=Paul McCartney & Wings / One Hand Clapping|first=Paul|last=Sinclair|date=23 April 2024|website=superdeluxeedition.com|accessdate=2024-06-18}}</ref>。3曲目は『ロンドン・タウン』に収録されていた「I'm Carrying」だった。
[[1997年]]3月、[[:en:East Rutherford, New Jersey|ニュージャージー州イーストラザフォード]]で開催された「[[:en:the Fest for Beatles Fans|ビートルフェスト・コンベンション]]」で、[[デニー・レイン]]、[[ローレンス・ジューバー]]、[[:en:Steve Holley|スティーブ・ホリー]]が顔を揃えた。この即席「ウイングス再結成」は元々予定されていたものではなく、これ以降の計画が立てられることもなかった。<ref>[https://www.cottageviews.com/wings.htm 1997 "Wings" photo page by Michael Cimino Archives] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081201191435/http://cottageviews.com/wings.htm |date=December 1, 2008 }}.</ref>
 
2010年11月『[[バンド・オン・ザ・ラン]]』から開始されたプロジェクト「[[:en:Paul McCartney Archive Collection|ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション]]」では、ウイングスの未発表音源(ライブ、リハーサル、デモ、別ミックス等)が数多く公開されている。また、未公開だった『ブルース・マックマウス・ショー』(1972)や『[[ワン・ハンド・クラッピング#映像版『ワン・ハンド・クラッピング』|ワン・ハンド・クラッピング]]』(1974)、未発売だったTV番組 『[[:en:James Paul McCartney (TV program)|ジェームズ・ポール・マッカートニー]]』などの映像作品も公開された。2021202414月現在、『ロンドン・タウン』と『バック・トゥ・ジ・エッグ』の2作を除くウイングス名義のオリジナルアルバムとライブアルバムはリリース発売済である。
しかし、10年後の[[2007年]]7月、今度はレイン、ジュバー、[[:en:Denny Seiwell|デニー・セイウェル]]の3人が、[[ネバダ州]][[ラスベガス]]で開催された「ビートルフェスト・コンベンション」で顔を揃え、「[[バンド・オン・ザ・ラン (曲)|バンド・オン・ザ・ラン]]」「[[夢の旅人]]」「[[ゴー・ナウ]]」を演奏した<ref>[https://web.archive.org/web/20070117015943/http://classicrockcentral.com/classic_rock_news.cfm#39 "Wings Alumni to Take Flight"], ClassicRockCentral.com, 10 July 2007. Retrieved 17 September 2007.</ref>。この後、たびたびイベントに「元ウイングス」が登場することになった。
 
2016年6月14日、[[北アイルランド]]・[[:en:Ballymoney|バリマネー]]でヘンリー・マカロックが72歳で亡くなった。2012年11月に重篤な心臓発作を起こし、闘病生活を送っていた<ref>{{Cite web|title=Former Wings guitarist Henry McCullough dies, aged 72|url=https://www.theguardian.com/music/2016/jun/15/wings-guitarist-henry-mccullough-grease-band-dies|publisher=GuardianNews |date=2016-06-15 |accessdate=2023-12-07 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=元ウイングスのギタリスト、ヘンリー・マカロック死去|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000127999|publisher=BARKS |date=2016-06-15 |accessdate=2023-12-07 }}</ref>。グループ脱退以後、メンバーとの接点はなかったが、2014年に[[アイルランド]]のシンガーソングライター、[[:en:Don Mescall|ドン・メスコール]]が企画したヘンリーのトリビュート・ソング「Live Long Rock & Roll」のレコーディングにポールがベースで参加した。この曲は2019年にシングルとしてリリースされ、ヘンリーのアルバム『Ballywonderland』に収録された<ref>{{Cite web|title=WORLD EXCLUSIVE: Paul McCartney, Nick Mason and more team up for Henry McCullough tribute song 'Live Long Rock 'n' Roll' co written and produced by internationally acclaimed Irish songwriter Don Mescall|url=https://www.hotpress.com/music/world-exclusive-paul-mccartney-nick-mason-team-henry-mccullough-tribute-song-live-long-rock-n-roll-written-produced-internationally-acclaimed-don-mescall-22783342|publisher=Hotpress|date=2019-08-01 |accessdate=2024-01-07 }}</ref>。
* 2010年3月、[[:en:Secaucus, New Jersey|ニュージャージー州セコーカス]]で開催された「[[:en:the Fest for Beatles Fans|ビートルズファンのためのフェスティバル]](以下フェスティバル)」にレインとセイウェルが登場<ref>[https://www.thefest.com/news/index.php/2010/02/06/denny-laine-others-added-to-ny-metro-lineup/ The Fest for Beatles Fans " Blog Archive " Denny Laine &amp; others added to NY METRO Lineup.] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100220070134/http://www.thefest.com/news/index.php/2010/02/06/denny-laine-others-added-to-ny-metro-lineup/ |date=20 February 2010 }} Retrieved 20 February 2010.</ref>。
 
* 同年8月、[[イリノイ州]][[シカゴ]]で行われたフェスティバルではジューバーが加わった。
2021年11月に公開されたアメリカ映画『[[リコリス・ピザ]]』でアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』収録の「[[レット・ミー・ロール・イット]]」が使用された<ref>{{Cite web|和書|title=リコリス・ピザ - オリジナル・サウンドトラック|url=https://www.universal-music.co.jp/licorice-pizza/products/uicu-1342/|publisher=Universal Music |date= |accessdate=2023-12-07 }}</ref>。
* 2014年10月、[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]で開催されたフェスティバルでも3人が共演。セットリストには、「[[ハイ・ハイ・ハイ]]」「007 死ぬのは奴らだ」と「[[ロケストラのテーマ]]」が含まれていた<ref name="la14">{{cite news|last=Gomez|first=Sal|title=Entertainment Corner: The Fest for Beatles Fans|url=https://midvalleynews.com/entertainment-and-beyond/music-reviews-movie-reviews-book-reviews/2014/10/29/entertainment-corner-the-fest-for-beatles-fans/|newspaper=Mid Valley News|location=El Monte, CA|date=October 29, 2014|accessdate=February 2, 2015}}</ref>。
 
* 2017年8月、3人は再びシカゴでのフェスティバルに出演し、今回はホリーも参加した<ref>{{Cite web|url=https://www.facebook.com/DBFLaine/posts/2062878893730013|accessdate=2021-01-19|title=Denny Laine|website=www.facebook.com}}</ref>。
2023年6月、シングル「007 死ぬのは奴らだ」の発売50周年を記念して、同曲のオリジナル・プロデューサー、ジョージ・マーティンの息子である[[ジャイルズ・マーティン]]とスティーヴ・オーチャードがリミックスを手掛けた[[ドルビーアトモス]]音源が[[Apple Music]]で配信された<ref>{{Cite web|和書|title=NEWSポール・マッカートニー、ウイングス「Live and Let Die」50周年記念でドルビーアトモス音源を配信|url=https://www.udiscovermusic.jp/news/paul-mccartneylive-and-let-die-dolby-atmos-mix|publisher=uDiscoverMusic |date=2023-06-026 |accessdate=2023-12-07 }}</ref>。
* 2018年1月、[[:en:Upland, California|カリフォルニア州アップランド]]のグランドオークライブで行われたイベント「イマジン・サムシング・イエスタデイ」でレイン、ジューバー、セイウェル、ホリーが共演し、[[ヘッドライナー]]として演奏を行った。<ref>{{Cite web|url=https://www.facebook.com/events/428942187521928|accessdate=2021-01-19|title=Imagine Something Yesterday (Take III)|website=www.facebook.com}}</ref>
 
* 2019年3月、[[:en:Jersey City, New Jersey|ニュージャージー州ジャージーシティ]]のフェスティバルでレイン、ジューバー、ホリーは再び共演し、ウイングスのラストアルバムとなった『バック・トゥ・ジ・エッグ』から「[[ゲッティング・クローサー]]」「[[ソー・グラッド]]」「ロケストラのテーマ」など数曲を演奏した。<ref>"Wings Reunion at The Fest For Beatles Fans 2019". ''www.youtube.com.'' 2021年1月19日閲覧。</ref>
12月4日、アルバム『バンド・オン・ザ・ラン』発売50周年を記念して、翌年2月に未発表音源を含めた「50周年記念エディション」をリリースすることが発表された。アンダーダブド・ミックスと呼ばれるこの未発表音源は、1973年10月に制作されたオーバーダビング前のラフミックスであった<ref>{{Cite web|和書|title=ポール・マッカートニー&ウイングス、代表作『バンド・オン・ザ・ラン』50周年記念盤の日本盤リリース決定|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/132572/2|publisher=billboard Japan |date=2023-12-08 |accessdate=2024-02-07 }}</ref>。7日にタイトル曲のアンダーダブド・ミックスが配信限定で公開された<ref>{{Cite web|和書|title=NEWS『Band On The Run』50周年記念盤から表題曲の“アンダーダブ・ミックス”が公開|url=https://www.udiscovermusic.jp/news/paul-mccartney-wings-underdubbed-band-on-the-run|publisher=uDiscoverMusic |date=2023-12-12 |accessdate=2024-02-07 }}</ref>。
 
12月5日、[[フロリダ州]][[ネープルズ (フロリダ州)|ネープルズ]]でレインが79歳で亡くなった。2022年に[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]に感染し、その後、[[間質性肺炎]]で闘病生活を送っていた<ref>{{Cite web|和書|title=ムーディー・ブルースやウイングス創設メンバー、デニー・レインが79歳で逝去。その功績を辿る|url=https://www.udiscovermusic.jp/news/denny-laine-wings-the-moody-blues-dies-at-79|publisher=uDiscoverMusic |date=2023-12-06 |accessdate=2023-12-07 }}</ref>。一週間前の11月27日に彼の医療費を集めるためのベネフィット・コンサートがカリフォルニア州ウェスト・ハリウッドの有名なナイトクラブ、[[:en:Troubadour (West Hollywood, California)|トルバドール]]で開催されたばかりだった<ref>{{cite web|和書|url=https://amass.jp/170274/|title=デニー・レインの支援するベネフィット公演にウイングス/バッドフィンガー/モンキーズ/バングルスのメンバーら参加|publisher=amass|date=2023-10-09|accessdate=2024-07-29}}</ref>。
 
2024年2月2日、『バンド・オン・ザ・ラン』50周年記念エディションが2枚組で発売された。
 
4月26日、1974年8月のスタジオ・ライブ音源『[[ワン・ハンド・クラッピング]]』を6月14日にリリースすることが発表された<ref>{{Cite web|和書|title=ポール・マッカートニー&ウイングス 1974年 未発表スタジオライヴ『ワン・ハンド・クラッピング』2024年6月14日 (金) 発売|url=https://www.hmv.co.jp/news/article/240425126/?utm_campaign=LHdiv_hmv_extra&utm_medium=email&utm_source=240426_in_rknew&site=hmv_extra_in29|publisher=HMV & BOOKS online |date=2024-04-23 |accessdate=2024-04-26 }}</ref>。これは[[MPLコミュニケイションズ]]が製作したドキュメンタリー番組『ワン・ハンド・クラッピング』制作時に録音されたものであった。番組は未公開となっていたが、2010年リリースの『バンド・オン・ザ・ラン』アーカイヴ・コレクションDVDに収録にされた。
 
=== 変名バンド ===
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{{Main|ウイングスの作品}}
(チャート;英:ミュージックウィーク/米:ビルボード)
===; オリジナル・アルバム ===
[[ファイル:Denny Laine - Wings - 1976.jpg|thumb|right|170px|デニー・レイン(1976年)]]
:*『[[ロンワイルタウンライフ]]』 - ''[[:en: LondonWild TownLife (Wings album)|LondonWild TownLife]]''(1978(1971年)(英411/米2)10)
[[ファイル:Paul McCartney with Jimmy McCulloch - Wings - 1976.jpg|thumb|right|230px|ジミー・マカロック(左)とポール・マッカートニー(1976年)]]
:*『[[ウイングスレッドオーヴァアメリカスピードウェイ]]』 - ''[[:en:Wings OverRed Rose AmericaSpeedway|WingsRed OverRose AmericaSpeedway]]''(1976(1973年)(英85/米13週'''1''')
 
:*『[[バックンドトゥオンエッグラン]]』 - ''[[:en: BackBand toon the EggRun|BackBand toon the EggRun]]''(1979(1973年)(英67週'''1'''/米8)4週'''1''')
=== オリジナル・アルバム ===
:*『[[ワイヴィーナス・アンド・マース (アバム)|ヴィーナス・アンド・ライフマース]]』 - ''[[:en: WildVenus Lifeand Mars (Wings album)|WildVenus Lifeand Mars]]''(1971(1975年)(英112週'''1'''/米10)1週'''1''')
:*『[[レッスピード・ローズオブサウンド (アルバム)|スピード・オブ・サェインド]]』 - ''[[:en: RedWings Roseat SpeedwaySpeed of Sound|RedWings at Speed Roseof SpeedwaySound]]''(1973(1976年)(英52/米37週'''1''')
:*『[[ンド・オン・ザ・ラタウン]]』 - ''[[:en: BandLondon onTown the(Wings Runalbum)|BandLondon on the RunTown]]''(1973(1978年)(英7週'''1'''4/米4週'''1''')2)
:*『[[ヴィーナスバックアンド・マース (アルバム)|ヴィーナストゥアンドマースエッグ]]』 - ''[[:en: VenusBack andto Marsthe (Wings album)Egg|VenusBack to andthe MarsEgg]]''(1975(1979年)(英2週'''1'''6/米1週'''1''')8)
*『[[スピード・オブ・サウンド (アルバム)|スピード・オブ・サウンド]]』 - ''[[:en: Wings at Speed of Sound|Wings at Speed of Sound]]''(1976年)(英2/米7週'''1''')
*『[[ロンドン・タウン]]』 - ''[[:en: London Town (Wings album)|London Town]]''(1978年)(英4/米2)
*『[[バック・トゥ・ジ・エッグ]]』 - ''[[:en: Back to the Egg|Back to the Egg]]''(1979年)(英6/米8)
 
=== ライブ・アルバム ===
*『[[ウイングス・オーヴァー・アメリカ]]』 - ''[[:en:Wings Over America|Wings Over America]]''(1976年)(英8/米1週'''1''')
 
=== コンピレーション・アルバム ===
*『[[ウイングス・グレイテスト・ヒッツ]]』 - ''[[:en:Wings Greatest|Wings Greatest]]''(1978年) ウィングスの活動期間中唯一のベスト・アルバム。
 
以下のベスト・アルバムにはウイングスの音源が含まれるが、いずれもポール・マッカートニー名義。
*『[[オール・ザ・ベスト]]』 - ''[[:en:All The Best!|All The Best!]]''(1987年)
*『[[夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー〜]]』 - ''[[:en:Wingspan: Hits and History|Wingspan: Hits and History]]''(2001年)
*『[[ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト]]』 - ''[[:en:Pure McCartney (Paul McCartney album)|Pure McCartney]]''(2016年)
 
== フィルモグラフィ ==
=== 劇場用映画 ===
* 『ロックショウ』 - ''[[:en:Rockshow|Rockshow]]''([[1981年]]) — [[1976年]][[6月10日]]に行われたアメリカ、[[シアトル]]の[[キング・ドーム]]公演を収めた{{Efn|実際はツアーの4つのコンサート公演(ニューヨーク、シアトル、ロサンゼルス2公演)の映像から構成されている。}}125分の記録映画。1980年11月26日にニューヨークで公開された。しかししばらくして後は102分の編集版が上映されるようになった{{Efn|1975年と1980年の公演中止によりウイングス未体験だったファンのために、日本だけはオリジナル版が上映された。}}。1982年にVHSとLDで編集版がリリース、全長版は2013年6月10日にDVDとブルーレイでリリース発売された。
 
=== TV番組 ===
* 『ブルース・マックマウス・ショー』- ''The Bruce McMouse Show'' — 1972年のウイングスのヨーロッパ・ツアーの映像を使い、ステージの下に住むネズミ一家のアニメと交ぜて構成した52分の作品。未発表だったが「アーカイブ・コレクション」で公開された。
* 『ジェームズ・ポール・マッカートニー』- ''[[:en:James Paul McCartney (TV program)|James Paul McCartney]]''([[1973年]]) — スタジオライブやステージでの演奏シーンなどを交えて構成された50分のTVスペシャル番組。まずアメリカで4月16日に[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]で放映され、同年6月に[[イギリス]]の[[ITV (イギリス)|ITV]]で放映された。日本では[[1974年]]3月26日に[[日本放送協会|NHK]]の「世界のワンマンショー」で40分に編集された短縮版が放映され、76年7月にも再放映された。
* 『[[ワン・ハンド・クラッピング#映像版『ワン・ハンド・クラッピング』|ワン・ハンド・クラッピング]]』- ''One Hand Clapping''(1974年-[[1975年]]制作)&mdash; ロンドンのアビイ・ロード・スタジオ、ナッシュビルなどでのスタジオライブやセッションを収めた50分の映像作品。未発表だったが「アーカイブ・コレクション」で公開された。
* 『ウイングス・オーヴァー・ザ・ワールド』- ''[[:en:Wings Over the World|Wings Over the World]]''([[1979年]]) — [[1976年]]のワールド・ツアーの模様を収めた73分のTV[[ドキュメンタリー]]映画作品。1979年3月にアメリカの[[CBS]]で放映され、翌4月にはイギリス[[英国放送協会|BBC]]2で放映された。日本では10月13日にNHKの「[[ヤング・ミュージック・ショー]]」で放映された。
* 『バック・トゥ・ジ・エッグ』- ''[[:en:Back to the Egg (TV program)|Back to the Egg]]''(1979年) — 同名アルバムのPVをTV用にまとめた30分の番組。1979年11月にアメリカの[[:en:TBS (American TV channel)|WTBS]]で初めて放映されたが、英国BBC1での放映は、バンド解散から2ヶ月後の1981年6月まで延期された。
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* {{Cite book |last1=Madinger |first1=Chip |last2=Easter |first2=Mark |title=Eight Arms to Hold You: The Solo Beatles Compendium |publisher=44.1 Productions |location=Chesterfield, MO |year=2000 |isbn=0-615-11724-4 |ref=harv }}
* {{cite book |last= Badman |first= Keith |title= The Beatles Diary Volume 2: After the Break-Up 1970-2001|publisher= Omnibus Press |year=2001 |isbn=978-0-711-98307-6|ref=harv }}
* {{cite book| last=Everett| first=Walter| year=2001| title=The Beatles as Musicians: The Quarry Men through Rubber Soul| publisher=Oxford University Press| location=New York, NY| isbn=0-19-514105-9| url=https://archive.org/details/beatlesasmusicia00ever|ref=harv }}
* {{cite book |last= Rosen |first= Robert |title= Nowhere Man: The Final Days of John Lennon |publisher= Quick American Archives |year=2002 |isbn= 978-0-932-55151-1|ref=harv }}
* {{cite book |last= Lewisohn |first= Mark |title= Wingspan |publisher= Little, Brown and Company |year=2002 |isbn=0-316-86032-8|ref=harv }}