ウイングス
ウイングズ (Wings) は、1971年に結成された、元ビートルズのメンバーであるポール・マッカートニーと彼の妻リンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースのデニー・レインの3人を中心に構成されたロックバンドである。1981年の解散までに7枚のオリジナル・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを発表した。多くのヒット曲を発表し、代表曲に「ハイ・ハイ・ハイ」「C・ムーン」「マイ・ラヴ」「007 死ぬのは奴らだ」「ジェット」「バンド・オン・ザ・ラン」「ジュニアズ・ファーム」「あの娘におせっかい」「心のラブ・ソング」「幸せのノック」「夢の旅人」「しあわせの予感」「グッドナイト・トゥナイト」などがある。
ウイングズ | |
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ポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニー(1976年撮影) | |
基本情報 | |
別名 |
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出身地 | イングランド |
ジャンル | |
活動期間 | 1971年 - 1981年 |
レーベル | |
旧メンバー |
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なお、一時期の作品はポール・マッカートニー&ウイングス(Paul McCartney & Wings)という名義で発表されている。
来歴
バンド結成・初期の活動:1971年 - 1972年
ポール・マッカートニーは1970年のビートルズ解散後、『マッカートニー』『ラム』の2枚のソロ・アルバムを発表した。これらのアルバムはチャート上では成功を収めた[注釈 1]が、音楽評論家やロック・ファンからの評価は芳しくなかった。
予てよりバンドによるコンサート活動を目論んでいたポールは、『ラム』のレコーディングに参加していたドラマーのデニー・シーウェルと、ギターのヒュー・マクラッケンに参加を打診したところ、シーウェルは承諾した[2]。マクラッケンに断られたポールは、ギター担当として1960年代からの知り合いであるデニー・レインに連絡を取り、参加することとなった。キーボードとコーラスはリンダが担当することとなった。今まで写真家として活動しており、音楽経験の無かったリンダだったが、ポールとの結婚時から「新たなバンドに参加してくれないか」と頼まれていたという。
1971年8月、4人は新しいバンドのアルバムのレコーディングを開始した。ウイングスというバンド名は、当時リンダの出産[注釈 2]を待つ間にポールが思いついた「天使の翼」というフレーズに由来するものであり、イギリスの音楽誌「NME」の1971年10月2日号で明らかにされた。翌月にはバンド結成を記念したパーティが開かれ、エルトン・ジョンやギルバート・オサリバンをはじめとする多くの著名人が出席した。
12月にウイングスとしてのファースト・アルバム『ワイルド・ライフ』は発売され、全米・全英ともに10位台を記録した[3]が、このアルバムはわずか2週間、そのうち録音に費やされたのは3日間という短期間で完成させたため、音楽評論家の評価は批判的だった。
1972年1月に新メンバーとしてジョー・コッカーのバックバンド、グリース・バンドのギタリストだったヘンリー・マカロックが参加したウイングスは、『ワイルド・ライフ』の発売から約2か月後の2月9日、イギリスのノッティンガム大学を皮切りに最初のツアーを開始した。抜き打ちで選んだ大学にアポイントなしで向かい、ポール自らが大学と交渉してライブを行うというこのツアーは、新バンドのデモンストレーション的要素の強いものであった。同年7月からは、本国を除くヨーロッパを回る2度目のコンサート・ツアーを敢行した。ちなみに、これらのツアーではビートルズの楽曲は一切演奏されていない。
1972年にウイングスはシングル「アイルランドに平和を」「メアリーの子羊」「ハイ・ハイ・ハイ」「C・ムーン」を発表した。「アイルランドに平和を」は政治的な内容であるとして、「ハイ・ハイ・ハイ」はドラッグを連想させ、性的な内容にも捉えられるとの理由でラジオ等で放送禁止となったが、それでもチャート上ではスマッシュヒットとなった。
音楽的全盛期:1973年 - 1976年
1973年になると、新アルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』の先行シングル「マイ・ラヴ」が大ヒットとなり[4]、その勢いでアルバムも前作を大きく上回るセールスを記録し、ウイングスにとってどちらも初の全米1位を記録した。このアルバムは、当初『ラム』で漏れた楽曲も収録して2枚組にする予定で制作されたものの、前作のセールス不振を理由に所属レコード会社キャピトルの反対で1枚で発表された[注釈 3]。また同様の理由で以後の数枚のシングル、アルバムにおけるアーティスト名は、“ポール・マッカートニー&ウイングス”となっている。映画の主題歌となったシングル『007 死ぬのは奴らだ』[注釈 4]も同様に全米2位をマークするヒットを記録した。
ウイングスとしての活動が軌道に乗り始めたポールは英国ツアーを終えた後、新作のレコーディングをナイジェリアのラゴスで行うことを決定する。しかし、リハーサルセッションを終えてラゴスに向かう前日に、マカロックとシーウェルがグループを脱退してしまう[注釈 5]。結局、8月にポールとリンダ、レインの3人でナイジェリアに渡り、1か月半に及ぶラゴスでのレコーディングに臨んだが、デモテープの盗難などさまざまなトラブルに見舞われたものとなった。ポールはベースやギターだけでなくキーボードやドラムなども演奏し、一人で数役を担っていた。録音された作品は最終的にイギリスでの仕上げ作業を経て、その年の暮れに『バンド・オン・ザ・ラン』としてリリースされた。このアルバムは全世界で600万枚以上のセールスを記録し、ビートルズ解散後のポールのアルバムとしては最大級の成功を収めた[注釈 6]。またシングル「愛しのヘレン」「ジェット」「バンド・オン・ザ・ラン」もヒットした[5]。なお、これらのシングルやこのアルバムの他の収録曲の一部は、2010年以降もポールのライヴでの定番のレパートリーとなっている。
1974年になると、ポールはコンサート活動の再開を思案する。新たなメンバーを必要としたポールは選考オーディションを行い、最終的にギター担当の元ストーン・ザ・クロウズのジミー・マカロック、ドラマーとしてジェフ・ブリトンをグループに加入させた[注釈 7]。この2人を加えた新たなラインナップを引き連れてナッシュビル、ロンドンなどでレコーディングを行い、シングル「ジュニアズ・ファーム」も発表された。1975年1月にはニューオーリンズに渡って本格的なアルバムの制作に取り掛かる。しかしその矢先にブリトンが脱退[注釈 8]。代わってジョー・イングリッシュがドラマーとして加入し、完成したアルバムは『ヴィーナス・アンド・マース』として同年5月に発売された。このアルバムは、前作の成功が追い風となり、アメリカでは発売前の予約枚数だけで200万枚に達する高いセールスを記録し、先行シングル「あの娘におせっかい」とともに全米1位を達成した。
『ヴィーナス・アンド・マース』には、ポール以外のメンバーがリード・ヴォーカルをとる楽曲が2曲収録されている。その一つ「メディシン・ジャー」はジミー・マカロック自身による作曲であったが、こういった楽曲を収録する背景には、「あくまでポール・マッカートニーのバックバンドにすぎない」という世間のウイングスに対する一般的なイメージを払拭したいとする彼の狙いがあった。なお、アーティスト名もこのアルバムからウイングス名義に戻っている。
1975年9月から、ウイングスは12ヶ国で64回公演の大規模なツアーを開始する。その最中に制作されたのが、1976年に発売された『スピード・オブ・サウンド』である。ウイングスが一つのバンドとして世間に認知されることを望んでいたポールは、このアルバムではバンドメンバー全員にリード・ヴォーカルをとらせている。彼自身の歌唱による作品は半数ほどにとどまっていたが、『スピード・オブ・サウンド』はアメリカでは計7週の1位とヒットした。また、このアルバムからのシングルである「心のラブ・ソング」「幸せのノック」は大ヒットを記録した。その主たる要因となったのが、同年5月から6月にかけて行われた全米ツアー『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』である。30回の公演で60万人もの観客動員数を記録したこのツアーの模様は、のちにツアータイトルを題名にしたライヴ盤『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』や映画『ロックショウ』としても発表された。『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』はLP3枚組という形態での発売だったが、それにもかかわらず全米チャート1位を獲得している。ウイングスを随える形で再び世界的な成功を収めたポールは、ジョン・レノンが長い活動休止期間に入り、ジョージ・ハリスンやリンゴ・スターのソロ活動が次第に低調になり始めた1970年代中盤においても、ビートルズの元メンバーとして活躍し続けた。ツアーが大成功を収め、終わったとき、ポールは嬉しさのあまり泣き崩れたと言われている。
後期の活動:1977年 - 1979年
長期間のツアーを終えたあと、レインはソロ・アルバムの制作、マカロックは他のグループに参加[注釈 9]するなど、メンバーはそれぞれ各自の活動に入った。そのあいだ暫く活動が休止していたウイングスだが、1977年になると再びポールは新作の制作に取り掛かる。レコーディングは同年の2月にロンドンのアビイ・ロード・スタジオで開始され、5月からはヴァージン諸島に拠点を移して行われたが、帰英後にマカロックとイングリッシュが脱退し[注釈 10]、ウイングスのメンバーは再び3人だけになってしまった。また、同時期にリンダは妊娠したため[注釈 11]、アルバムは最終的にポールとレインの2人によって仕上げられている。
リンダが産休に入っていた期間にウイングス名義でリリースされた唯一のレコードが、ポールとレインの共作によるスコティッシュ・ワルツ「夢の旅人」である。11月に「ガールズ・スクール」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、アメリカでは最高位33位とふるわなかったものの、イギリスでは9週連続1位を獲得する大ヒットとなった。この曲はポールにとって初となる全英シングルチャート1位獲得作品となっただけでなく、当時ビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」が持っていた英国におけるシングルの最多売上枚数記録を更新し、最終的に200万枚以上を売り上げた。
1978年に「夢の旅人」などと同時期に録音された楽曲も含め、アルバム『ロンドン・タウン』がリリースされた。このアルバムからは「しあわせの予感」が全米1位、全英5位とヒットしている。またタイトル曲にもなっている「たそがれのロンドン・タウン」を中心にレインとの共作が5曲あり、全体的にレインの影響を伺わせている。アルバム・チャートではイギリスで4位、アメリカで6週連続2位と、『レッド・ローズ・スピードウェイ』から続いていた連続第1位獲得を果たせなかった[注釈 12]。 その後、ドラムのスティーヴ・ホリーとギターのローレンス・ジューバーが参加。再びウイングスは5人編成となる。
1979年に入ると、クリス・トーマス[注釈 13]をプロデューサーに迎え、新たなアルバム『バック・トゥ・ジ・エッグ』の制作にとりかかる。本作はシングルのみで発売された「グッドナイト・トゥナイト」など、当時の流行であったディスコミュージックの影響を受けている。またハンク・マーヴィン[注釈 14]、ピート・タウンゼント[注釈 15]やジョン・ボーナム、ジョン・ポール・ジョーンズ、デヴィッド・ギルモア[注釈 16]をはじめとする多数の大物ミュージシャンとともに「ロケストラ」と名付けられた豪華なセッションを行ったり、殆どの収録曲でプロモーション・クリップを撮影したりと、ポールはこのアルバムの制作にかなりの意欲をもって臨んでいたが、アルバムのチャート順位は全米8位、全英6位だった。
この新作アルバムを引っ提げて行われたイギリスでのツアーを終えたウイングスは、その年の暮れの12月26日から29日にかけて行われたユニセフ主催のチャリティ・コンサート「カンボジア難民救済コンサート」の最終日に出演。彼等はこのライブでアルバム内で繰り拡げられたセッション(ロケストラ)を再現し、クイーンやザ・クラッシュ、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズなどが参加した豪華なコンサートのトリを飾った。しかし、このパフォーマンスが、ウイングスにとって最後のライブ活動となってしまった。
解散
1980年、ウイングスは初の来日ツアーを、1月21~24日、同月31日~2月2日に日本武道館、1月25日・26日に愛知県体育館、1月28日にフェスティバルホール、同月29日に大阪府立体育館で行う予定となっていた[注釈 17][6]。ところが1月16日、ポールが成田空港の税関で大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕されるという事件が起こった。これによりポールは数日間の勾留のあと日本からの国外退去処分を受けて本国に帰国、急遽日本でのツアーは全公演中止となった[注釈 18]。
ポールは4月にソロ・シングル「カミング・アップ」、5月には10年ぶりのソロ・アルバム『マッカートニーII』を発表した[注釈 19]。北米では「カミング・アップ」のB面に収録された1979年のウイングスのスコットランド・グラスゴー公演でのライブ音源が人気を博し、6月に全米1位を獲得した。
秋に予定されていた全米ツアーはキャンセルされたが、10月にはポールがメンバー全員を招集して、未発表曲を集めたアルバム『コールド・カッツ』のオーバーダブ用のセッションと、当初ウイングスとして発表する予定だったアルバム『タッグ・オブ・ウォー』のリハーサル・セッションを行い、デモテープを録音した。10月31日・11月3日には「ウィ・オール・スタンド・トゥゲザー」[注釈 20]のレコーディングをビートルズ時代のプロデューサーであるジョージ・マーティンを迎えて行った。11月末にはレインとともにマーティンのプロデュースで『タッグ・オブ~』の制作を開始した。
しかし12月、ビートルズ時代の仲間であったジョン・レノンがニューヨークの自宅前で射殺される事件が起き、ポールはショックを受け、直後にスタジオに籠ってしまった。その後、年内の活動を中止、自宅に籠もったまま、公の場に姿を見せなかった。
1981年になり、ポールはカリブ海のモントセラトで有名ミュージシャン[注釈 21]とともにアルバムのレコーディンを開始したが、ウイングスが表立って再始動することはなく、僅かにジョージ・ハリスンの「過ぎ去りし日々」へのコーラスとしてポール、リンダ、レインが参加するのみだった[7]。結局、マッカートニー夫妻がロンドンで行われたリンゴ・スターの結婚式に出席していた4月27日にレインが脱退を表明したことによって、グループは実質的な解散を迎えた。
その後
ポールは1989年『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の発表後、アルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なコンサート活動を開始する。これ以降、アルバムを発表するたびにコンサート活動を行うが、あくまでもポールとそのバックバンドという形をとっており、ウイングス名義での活動は現在まで行っていない。
2001年にはMPLコミュニケーションズが制作したウイングスの軌跡を扱ったドキュメンタリー番組『ウイングスパン』が、ベスト・アルバム『夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー〜』(Wingspan: Hits and History)の発売に合わせて、全世界で放映された。さらに2002年には番組の脚本に基づいてビートルズの歴史家マーク・ルイソンが編集した書籍『ウイングスパン』が出版された。
2003年に公開されたアメリカ映画「セイブ・ザ・ワールド」(The In-Laws)のサウンドトラックにポールが3曲提供したが、いずれもウイングスの音源だった。1曲目は『ラム』のセッションで録音され、その後1980年の『コールド・カッツ』用のセッションで追加のオーバーダブを行った「A Love For You」。2曲目は『ヴィーナス・アンド・マース』のセッションで録音された「007 死ぬのは奴らだ」。3曲目は『ロンドン・タウン』に収録されていた「I'm Carrying」だった。
2010年11月『バンド・オン・ザ・ラン』から開始されたプロジェクト「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」では、ウイングスの未発表音源(ライブ、リハーサル、デモ、別ミックス等)が数多く公開されている。また、未公開だった『ブルース・マックマウス・ショー』(1972)や『ワン・ハンド・クラッピング』(1974)、未発売だったTV番組 『ジェームズ・ポール・マッカートニー』などの映像作品も公開された。2021年1月現在、『ロンドン・タウン』と『バック・トゥ・ジ・エッグ』の2作を除くウイングス名義のオリジナルアルバムとライブアルバムはリリース済である。
1997年3月、ニュージャージー州イーストラザフォードで開催された「ビートルフェスト・コンベンション」で、デニー・レイン、ローレンス・ジューバー、スティーブ・ホリーが顔を揃えた。この即席「ウイングス再結成」は元々予定されていたものではなく、これ以降の計画が立てられることもなかった。[8]
しかし、10年後の2007年7月、今度はレイン、ジュバー、デニー・シーウェルの3人が、ネバダ州ラスベガスで開催された「ビートルフェスト・コンベンション」で顔を揃え、「バンド・オン・ザ・ラン」「夢の旅人」「ゴー・ナウ」を演奏した[9]。この後、たびたびイベントに「元ウイングス」が登場することになった。
- 2010年3月、ニュージャージー州セコーカスで開催された「ビートルズファンのためのフェスティバル(以下フェスティバル)」にレインとシーウェルが登場[10]。
- 同年8月、イリノイ州シカゴで行われたフェスティバルではジューバーが加わった。
- 2014年10月、カリフォルニア州ロサンゼルスで開催されたフェスティバルでも3人が共演。セットリストには、「ハイ・ハイ・ハイ」「007 死ぬのは奴らだ」と「ロケストラのテーマ」が含まれていた[11]。
- 2017年8月、3人は再びシカゴでのフェスティバルに出演し、今回はホリーも参加した[12]。
- 2018年1月、カリフォルニア州アップランドのグランドオークライブで行われたイベント「イマジン・サムシング・イエスタデイ」でレイン、ジューバー、シーウェル、ホリーが共演し、ヘッドライナーとして演奏を行った。[13]
- 2019年3月、ニュージャージー州ジャージーシティのフェスティバルでレイン、ジューバー、ホリーは再び共演し、ウイングスのラストアルバムとなった『バック・トゥ・ジ・エッグ』から「ゲッティング・クローサー」「ソー・グラッド」「ロケストラのテーマ」など数曲を演奏した。[14]
変名バンド
- スージー・アンド・レッドストライプス - Suzy and the Red Stripes(1977年) — 1972年にロンドンで録音した、リンダ作曲の「シーサイド・ウーマン(Seaside Woman)」をリリースする際に使用。レッドストライプ(Red Stripe)は、ジャマイカの有名ビールブランド。
- カントリー・ハムズ - The Country Hams(1974年) — 1974年にナッシュビルでのセッションで録音した、ポールの父ジェイムス作曲の「エロイズ(Walking in the Park with Eloise)」をリリースする際に使用。カントリーハム(Country Ham)は、ナッシュビルがあるテネシー州などで生産されている塩蔵・燻製ハム。
メンバーの変遷
タイムライン
ラインナップ
1971–1972 |
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1972–1973 |
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1973–1974 |
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1974–1975 | |
1975–1977 |
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1977–1978 |
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1978–1980 |
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1980–1981 |
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ディスコグラフィ
オリジナル・アルバム
- ワイルド・ライフ - Wild Life(1971年)
- レッド・ローズ・スピードウェイ - Red Rose Speedway(1973年)
- バンド・オン・ザ・ラン - Band on the Run(1973年)
- ヴィーナス・アンド・マース - Venus and Mars(1975年)
- スピード・オブ・サウンド - Wings at Speed of Sound(1976年)
- ロンドン・タウン - London Town(1978年)
- バック・トゥ・ジ・エッグ - Back to the Egg(1979年)
ライヴ・アルバム
- ウイングス・オーヴァー・アメリカ - Wings Over America(1976年)
- カンボジア難民救済コンサート - Concerts for the People of Kampuchea(1981年、オムニバス)
コンピレーション・アルバム
- ウイングス・グレイテスト・ヒッツ - Wings Greatest(1978年) — ウィングスの活動期間中唯一のベスト・アルバム。
以下のベスト・アルバムにはウイングスの音源が含まれるが、いずれもポール・マッカートニー名義。
フィルモグラフィ
劇場用映画
- 『ロックショウ』 - Rockshow(1981年) — 1976年6月10日に行われたアメリカ、シアトルのキング・ドーム公演を収めた[注釈 22]125分の記録映画。1980年11月26日にニューヨークで公開された。しかししばらくして後は102分の編集版が上映されるようになった[注釈 23]。1982年にVHSとLDで編集版がリリース、全長版は2013年6月10日にDVDとブルーレイでリリースされた。
TV番組
- 『ブルース・マックマウス・ショー』- The Bruce McMouse Show — 1972年のウイングスのヨーロッパ・ツアーの映像を使い、ステージの下に住むネズミ一家のアニメと交ぜて構成した52分の作品。未発表だったが「アーカイブ・コレクション」で公開された。
- 『ジェームズ・ポール・マッカートニー』- James Paul McCartney(1973年) — スタジオライブやステージでの演奏シーンなどを交えて構成された50分のTVスペシャル番組。まずアメリカで4月16日にABCで放映され、同年6月にイギリスのITVで放映された。日本では1974年3月26日にNHKの「世界のワンマンショー」で40分に編集された短縮版が放映され、76年7月にも再放映された。
- 『ワン・ハンド・クラッピング』- One Hand Clapping(1974年-1975年制作)— ロンドンのアビイ・ロード・スタジオ、ナッシュビルなどでのスタジオライブやセッションを収めた50分の映像作品。未発表だったが「アーカイブ・コレクション」で公開された。
- 『ウイングス・オーヴァー・ザ・ワールド』- Wings Over the World(1979年) — 1976年のワールド・ツアーの模様を収めた73分のTVドキュメンタリー映画作品。1979年3月にアメリカのCBSで放映され、翌4月にはイギリスBBC2で放映された。日本では10月13日にNHKの「ヤング・ミュージック・ショー」で放映された。
- 『バック・トゥ・ジ・エッグ』- Back to the Egg(1979年) — 同名アルバムのPVをTV用にまとめた30分の番組。1979年11月にアメリカのWTBSで初めて放映されたが、英国BBC1での放映は、バンド解散から2ヶ月後の1981年6月まで延期された。
- 『ウイングスパン』 - Wingspan - An Intimate Portrait(2001年) — ウィングスの活動を振り返ったTVドキュメンタリー映画作品。2001年5月にアメリカのABCなどで放映され、半年後の12月にVHSとDVDでリリース。DVDには22分のインタビュー映像と多くのプロモーションビデオが追加された。
脚注
注釈
- ^ 『マッカートニー』は全米1位と全英2位、『ラム』は全米2位と全英1位だった。
- ^ 1971年9月13日マッカートニー夫妻の間に三女ステラが誕生した。
- ^ 2018年に「アーカイヴ・コレクション・シリーズ」で、当初構想されていたLP2枚組に収録予定だった楽曲を再構成したダブルアルバム再現盤が発売されている。
- ^ ロジャー・ムーア主演の『007死ぬのは奴らだ』のオープニング・テーマ曲。この時期のシングルでは唯一ウイングス名義になっている。
- ^ 原因としては音楽の方向性の相違、素人のリンダを入れていることへの違和感、報酬に対する不満、滞在先の衛生環境や治安等が挙げられている。
- ^ 1998年には発売25周年を記念してボーナス・ディスクを追加した限定盤も発売されている。
- ^ マカロック加入直後の1月から5月まで、メンバー4人でポールの弟マイクのレコーディングセッションに参加している。ブリトンは6月に加入した。
- ^ 彼がグループを脱退したのは加入からわずか7か月後のことであり、この布陣はグループの約10年間の活動期間の中で最も短命に終わっている。
- ^ 兄のジャック・マカロック(ドラムス)、デイヴ・クラーク(ベース、キーボード、ボーカル)と共に「ホワイト・ライン」を結成し数回のギグを行い、シングル「"Call My Name"/"Too Many Miles"」をリリースした。
- ^ マカロックはスモール・フェイセスにギタリストとして加入するためにグループを脱退したが、それから約2年後の1979年9月27日にヘロインの過剰摂取により、26歳の若さで急逝した。
- ^ 1977年9月12日マッカートニー夫妻の間に長男ジェームズが誕生した。
- ^ ビージーズが音楽担当した映画『サタディ・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックに阻まれた。
- ^ ピンク・フロイドやエルトン・ジョンのプロデュースを行った音楽プロデューサー。
- ^ 「アパッチ」で有名なシャドウズのギタリスト
- ^ ザ・フーのギタリスト
- ^ ピンク・フロイドのギアリスト
- ^ この約5年前の1975年にも来日公演が予定されていたが、マッカートニー夫妻の薬物所持の過去を理由に法務省から入国拒否されていたため、実現には至っていなかった。
- ^ ポールは、同年に発表したソロ・アルバム『マッカートニーII』の中で「フローズン・ジャパニーズ」を発表。この曲は日本人に対する逆恨みではないかと騒がれたが、ポールは「曲を作ったのは日本に行く前、雪化粧の富士山を思い浮かべて作ったんだ。偏見があるわけじゃない、もしあったのなら日本へ行ったりはしない」とコメントしている。ポールが語る通り、この曲は前年の1979年の夏に完成していた。
- ^ CBSコロンビア系に移籍しての作品だった。
- ^ 自らの脚本で制作されることになった『くまのルパート』を原作としたアニメーション映画「ルパートとカエルの歌」の主題歌。
- ^ スタンリー・クラーク、スティーブ・ガッド、リンゴ・スター、カール・パーキンス、スティービー・ワンダー等
- ^ 実際はツアーの4つのコンサート(ニューヨーク、シアトル、ロサンゼルス2公演)の映像から構成されている。
- ^ 1975年と1980年の来日公演中止によりウイングス未体験だったファンのために、日本だけはオリジナル版が上映された。
出典
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- ^ 「20世紀ポップス名曲事典」かまち潤、p.181、平凡社
- ^ 「20世紀名曲事典」かまち潤、p.194、平凡社
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- ^ “Imagine Something Yesterday (Take III)”. www.facebook.com. 2021年1月19日閲覧。
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