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{{Expand English|date=2023年8月}}
[[File:Edinburgh Castle from the south east.JPG|thumb|250px|[[エディンバラ旧市街]]にそびえ立つエディンバラ城]]
{{建築物
|名称 = エディンバラ城
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|画像 = Edinburgh Castle from the south east.JPG
[[File:Edinburgh|画像説明 Castle= from the south east.JPG|thumb|250px|[[エディンバラ旧市街]]にそびえ立つエディンバラ城]]
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|所在地 = キャッスルヒル、エジンバラEH1 2NG、[[イギリス]]
|緯度度 =55 |緯度分 = 57|緯度秒 =14|N(北緯)及びS(南緯) = N
|経度度 = 3|経度分 =15|経度秒 =00 |E(東経)及びW(西経) = W
|地図国コード = GB
|座標右上表示 = yes
|位置図種類 = UK
|文化財 = [[イギリス指定建造物]]
|指定・登録等日 =
|備考 =
}}
 
'''エディンバラ城''' エディンバラじょう、'''Edinburgh Castle'''、'''エジンバラ城'''<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/エジンバラ城-444540 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-03-11 }}</ref>)は、[[イギリス]]の[[スコットランド]]・[[エディンバラ]]にある[[]]。キャッスル・ロックという[[頸]]の上に建つ[[古代]]からの[[要塞]]で、エディンバラのシンボルである。スコットランドでは、[[グラスゴー]]のケルヴィングローヴ・アート・ギャラリー・アンド・ミュージアムに次いで多くの観光客が訪れている。人間の定住は[[紀元前9世紀]]前後からといわれている。城内で最も古い建築物は[[12世紀]]初期の建築物である[[セント・マーガレット教会堂]]を除くと[[16世紀]]以前の建築物いくつかは16世紀以前のものである。
 
[[エディンバラ]]のシンボルであり、スコットランドでは、[[グラスゴー]]の[[ケルビングローブ美術館・博物館]]に次いで多くの観光客が訪れている。[[イギリス指定建造物]]であり、現在、城の管理と運営のほとんどを行うのはスコットランド政府の外局であるヒストリック・スコットランドである。
多くの城がそうであるように、エディンバラの要塞は軍事活動の中心地だった。エディンバラ城はいまだにセレモニー用として駐留部隊のいる数少ない城である。かつてはロイヤル・スコッツ連隊やロイヤル・スコッツ・ドラグーン・ガーズ連隊の本部があった。1915年に陸軍がレッドフォード兵舎へ移ったとはいえ、城と陸軍のつながりは深い。朝6時から9時まで城の[[城門]]に歩哨が立ち、スコットランド王の宝冠の警護に当たっている。
 
多くの城がそうであるように、エディンバラの要塞は軍事活動の中心地だった。エディンバラ城はいまだにセレモニー用として駐留部隊のいる数少ない城ある。かつては[[ロイヤル・スコッツ連隊]]やロイヤル・スコッツ・ドラグーン・ガーズ連隊の本部があった{{efn|陸軍は[[1915年]]陸軍がレッドフォード兵舎へ移ったとはいえ、。}}。現在も城と陸軍のつながりは深い。く、朝6時から9時まで城の[[城門]]に[[歩哨]]が立ち、[[スコットランド王]]の宝冠の警護に当たっている。エディンバラ城はいまだにセレモニー用の駐留部隊のいる数少ない城である。
現在、城の管理と運営のほとんどを行うのはスコットランド政府の外局であるヒストリック・スコットランドである。
 
== 沿革 ==
{{see also|{{仮リンク|エディンバラ城の城主の一覧|en|List of Governors of Edinburgh Castle|label=エディンバラ城の城主}}}}
* [[ゴドズィン王国]]が存在した紀元前600年頃に、[[ウェールズ語]]の叙事詩「[[ア・ゴドズィン]]」に現れる「エディンの要塞」(Din Eidyn)がキャッスル・ロックであるとされている。ゴドズィン王国は[[ノーサンブリア王国]]に敗れ、ノーサンブリア王国は954年、[[ウェセックス王国]]に併合された。
* [[スコットランド王国]]の[[スコットランド王|王]]であった[[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世大首領王]](在位1058年–1093年)の妻マーガレットが居住していたという説がある{{efn|[[セント・マーガレット教会堂]]は現存するエディンバラ最古の建築物と伝統的に見なされているものの、ほとんどの研究者は現在、現存する形式でのこの教会はマーガレットの末の息子である[[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]によって母を追悼して建設された可能性が高いと考えている<ref>D Daiches, ''Edinburgh'' (1978) pp.13-14</ref>。}}。
* エディンバラ城が王宮として使用されるようになったのは、スコットランド王[[エドガー (スコットランド王)|エドガー]]の時代である。
* 1291年にはイングランド貴族で軍人の{{仮リンク|ラルフ・バセット (初代バセット・オブ・ドレイトン卿)|en|Ralph Basset, 1st Lord Basset of Drayton|label=バセット卿}}が城主となり、以後、1341年まで断続的に続いた[[スコットランド独立戦争]]のあいだ、イングランド人が城主となっていた。イングランド王の[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]は{{仮リンク|イングランドのスコットランド侵攻 (1298年)|en|English invasion of Scotland (1298)|label=1298年のイングランドのスコットランド侵攻}}のときも、既にイングランド軍が支配するエディンバラの街には立ち入らなかった<ref>{{cite book |last=Prestwich |first=Michael |date=1988 |title=Edward I |url= |location= |publisher=University of California Press |page=479 |isbn=9780520062665 }}</ref>。
*1579年、イングランド・スコットランド・アイルランドの王である[[ジェームズ6世]]が成人となり、エディンバラ城に居住するようになった{{sfn|トランター|1997|pp=241-242}}。
*1726年、グレートブリテン貴族のひとつとして創設された「[[エディンバラ公]]」は始めに[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の孫で[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ウェールズ王太子]]に叙爵されたが、本人はエディンバラ城に居住することはなかった。
* 1854年から1860年まで城主は空席となっていた。
* 現在もイギリス軍関係者が城主を兼ねており、2022年現在はテレビ記者で予備軍人の{{仮リンク|アラスター・ブルース|en|Alastair Bruce of Crionaich|preserve=1}}が管理人城主である。
 
==みどころ==
===デイヴィッズ・タワー===
デイヴィッズ・タワーは、[[1376年]]に[[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド2世]]により建設が委任された。当時の主流の建築であり、城の主要な入り口であったが、のち塔が宿泊する客人や貴族のため拡張され、原型の入り口はゲスト・ハウスに塗り込められた。
 
[[カトリック教会|カトリック]]を信仰した女王[[メアリー1世 (スコットランド女王)|メアリー1世]]は[[1567年]]に[[プロテスタント]]の[[ジェームズ・ヘップバーン (ボスウェル伯)|ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン]]と結婚し、これに反対する貴族たちの大規模な反乱を引き起こした。反乱軍側に投降したメアリーは[[ロッホ・リーヴン城]]へ監禁された。メアリーに忠誠を尽くす一部の貴族の助けを借り、彼女は城から逃亡しイングランドへ亡命した。エディンバラ城守護だったウィリアム・カークカルディーは1年余り城に立てこもった。幼王ジェームズ6世(のちのイングランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]])の摂政[[モートン伯]][[ジェイムズ・ダグラス (第4代モトン伯爵)|ジェイムズ・ダグラス]]は、[[エリザベス1世]]より支援を受け、砲撃と銃撃でデイヴィッズ・タワーを崩壊させた。城の陥落後、ウィリアム・カークルディーは絞首刑にされ、ハーフ・ムーン・バッテリーを含む多くが再建された。
 
===ハーフ・ムーン・バッテリー===
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===キングズ・ロッジング===
[[15世紀]]から、かつて王族の居室のあった部分である。メアリー1世が嫡子ジェームズ6世を生んだ産室、またはメアリー・ルームも含む。
 
===グレート・ホール===
グレート・ホールは[[1511年]]、[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]の命令で建てられた。[[スコットランド議会 (スコットランド王国)|スコットランド議会]]のミーティング会場として使われた。現在時折儀礼的行事に用いられる。
 
===クラウン・ルーム===
スコットランド王家の宝冠や宝石類が展示されている。宝冠は[[1540年]]に作られ、スコットランド産の金、94個の[[真珠]]、10個の[[ダイアモンド]]、33個の貴石と半貴石でできている。スコットランド王が代々戴冠してきた運命の石と呼ばれる『[[スクーンの石]]』も展示されている。この石は長く[[ウェストミンスター寺院]]で保管され、イングランド、[[イギリス]]の代々の王が戴冠に用いてきたが、[[1996年]]にスコットランドへ返還された。
 
===セント・マーガレット教会堂===
[[セント・マーガレット教会堂]]は、エディンバラ、また城内の中で最も古い建物である。12世紀に建設が始められた。[[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]が、[[1093年]]にエディンバラ城で亡くなった母[[マーガレット・オブ・スコットランド|マーガレット]]に捧げ、王家の私用礼拝堂として建てた。
 
[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]は、[[バノックバーンの戦い]]に敗れイングランド軍に捕らえられるのを避けるため、配下の司令官初代マリ伯に命じて城を破壊させた。しかし彼は行いを悔い教会堂の改修を依頼した。最大25人程度しか入らない教会堂だが、結婚式や洗礼式といった宗教行事に多く私用されている。
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{{main|モンス・メグ}}
[[File:Mons Meg, Medieval Bombard, Edinburgh, Scotland. Pic 01.jpg|thumb|200px|right|モンス・メグ]]
15世紀、北側にむけ6トンもの巨大な[[大砲]]が設置されていた。150キロの[[砲弾|砲丸]]が使われ、メアリー1世とフランス王太子フランソワ(のちの[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]])との結婚を祝い[[1558年]]に打ち上げられた。
{{-}}
 
== 催し物 ==
[[エディンバラ国際フェスティバル]]、[[エディンバラ・フェスティバル]]
===ミリタリー・タトゥー===
{{see also|[[:en:Royal Edinburgh Military Tattoo]]}}
[[File:MilitaryTattoo.JPG|thumb|200px|right|ミリタリー・タトゥー]]
8月に行われるスコットランド駐留部隊のパレードで、[[バグパイプ]]とドラムを演奏し行進する。外国からパフォーマーを招待することもあり、[[2006年]]には[[ウガンダ]]の孤児たちのコーラス隊が、[[2017年]]には日本から[[陸上自衛隊中央音楽隊]]が参加した。パレードのクライマックスは、[[バグパイプ]]による『ピルブロッホ』の独演である。
{{-}}
 
===ワン・オクロック・ガン===
[[File:One OClock Gun.JPG|thumb|200px|right|ワン・オクロック・ガン]]
ワン・オクロック・ガンとは、日曜を除く毎ほぼ13以外の午後1きっかりに、エディンバラ城に設置されたガン、大砲で行わから打たれる[[空砲]]である。1時ちょっと定刻の少し前になると兵士が登場し儀式めいたやりかたで空砲を1発打つ。その時刻になると観光客が見物に集まる。元々は、[[フォース湾]]を航行する[[船乗り]]たちに正確な時刻を教えるためであったという。昔は、時計の時刻を正確に合わせておかなければ遭難しかねなかった<ref name="nhk_fureai">(昔の[[航海術]]では、時計の時刻があっていなければ自船の位置を正しく算出できず、遭難した)
[[世界ふれあい街歩き]]「エディンバラ 旧市街から新市街へ」2014年1月16日(木) 午後0:00~1:00 放送。エディンバラ城のガイドをしているおじさんの語った話。</ref>。なぜ定時を教えるためだというのに、きっかり12時ではなく、(常識的に言えば半端な)1時に行うのか? と言うと、12時だと空砲を12回打たねばならず、打つたびに(火薬を使い)砲身を12回も掃除しなければならないが、1時ならば1発で済むから倹約できる、合理的だ、とスコットランド人は考えたからだという<ref name="nhk_fureai" />。この銃砲は、2マイル離れたリース・ハーバーに停泊する船にもたやすく聞こえる。この音で市民や観光客が自分の時計の時刻あわせをする。
 
かつては口径18ポンドの前装式大砲を使用してきたが、1953年には当時のイギリス軍主力野戦砲であった[[QF 25ポンド砲|25ポンド野砲]]に更新され、現在は新たにイギリス軍の主力野戦砲となった[[L118 105mm榴弾砲]]がその役目を担っている。
{{-}}
{{commonscat|Edinburgh Castle}}
 
== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:Entrance to the Edinburgh Castle 20150503 105944.jpg|入場口
ファイル:St Giles Cathedral as seen from entrance to Edinburgh Castle 20150503 110046.jpg|入場口から[[セント・ジャイルズ大聖堂]]を見たところ
ファイル:National War Museum of Scotland 20150503 111406.jpg|国立戦争記念館
</gallery>
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
;注釈
{{Notelist}}
;出典
{{Reflist|2}}
 
{{commonscat|Edinburgh Castle}}
{{ヨーロッパ100名城}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えていんはらしよう}}
[[Category:エディンバラの建築物]]
[[Category:エディンバラの歴史]]
[[Category:エディンバラの観光地]]
[[Category:スコットランドの城]]
[[Category:スコットランドの歴史ルネサンス建築]]
[[Category:ヨーロッパ100名城]]
[[Category:刑務所博物館]]
{{Link GA|en}}