「クレオパトラ7世」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
出自を系譜に合せて出典追加。出自の項の記載内容を導入部に移動。出典は十分ついていると思われ「要出典」タグを削除。 |
母親候補に関して追記 |
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|子女 = [[カエサリオン|プトレマイオス15世カエサリオン]]<br/>{{仮リンク|アレクサンドロス・ヘリオス|en|Alexander Helios}}<br/>[[クレオパトラ・セレネ2世]]<br/>{{仮リンク|プトレマイオス・ピラデルポス|en|Ptolemy Philadelphus (son of Cleopatra)}}
|父 = [[プトレマイオス12世]]
|母 = [[クレオパトラ5世]]/6世もしくは別の女性
|生年 = [[紀元前69年]])<br>[[アレクサンドリア]]
|没年 = [[紀元前30年]][[8月29日]](ユリウス暦では8月12日)(満39歳没){{Sfnp|Skeat|1953|pp=98–100}}<br>、[[アレクサンドリア]]
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== 出自 ==
[[ファイル:Marcus Antonius - Cleopatra 32 BC 90020163.jpg|250px|thumb|[[紀元前32年]]頃鋳造された銀貨。左がクレオパトラ、右が裏面のアントニウス]]
父は[[紀元前80年]] - [[紀元前58年]]および[[紀元前55年]] - [[紀元前51年]]のファラオである[[プトレマイオス12世]](アウレテス)。
プトレマイオス朝末期の王家の系図に不備があるため母は特定できていない。プトレマイオス12世のきょうだいまたはいとこである[[クレオパトラ5世]]<ref>Grant(1972), p. 4</ref>、その娘クレオパトラ6世{{Sfnp|物應|2006|p=6}}、あるいは氏名不詳の女性の説がある。クレオパトラ6世は紀元前58年にプトレマイオス12世がエジプトから追放された後に摂政を努めた人物であるが、[[ストラボン]]はプトレマイオス12世には3人の娘がいたとしており<ref>[[ストラボン]]『[[地理志]]』、17.1.11</ref>、[[ベレニケ4世]](姉)、クレオパトラ7世、[[アルシノエ4世]](妹)が該当すると思われるため、矛盾が生じる。
弟に[[プトレマイオス13世]]、[[プトレマイオス14世]]がおり、何れもクレオパトラと結婚して共同統治を行っている。
== 生涯 ==
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[[プトレマイオス11世]]は、[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]によって玉座に上ったものの民衆に殺害され、クレオパトラの父である[[プトレマイオス12世]]がローマに無断で即位した。12世は地位の安定のため[[グナエウス・ポンペイウス]]を頼ったが、直接介入は渋られたため、[[紀元前60年]]に[[三頭政治]]が始まると、その一角であるカエサルを買収し、やっと正式に王位が認められた。しかしこの買収は増税でまかなったため、[[紀元前58年]]に反乱が起こり、ポンペイウスを頼ってローマ市へ亡命した{{Sfnp|物應|2006|pp=26–28}}。
アレクサンドリアではクレオパトラ6世
[[File:Giovanni Battista Tiepolo, The Meeting of Antony and Cleopatra, mid 1740s, NGA 73842.jpg|left|thumb|200px|[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]『アントニウスとクレオパトラの出会い』([[1740年代]])[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)]]]]
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*クレオパトラ1世 4・5・5・4・5・5×4・5・5・5・6・6・5・6・6=50%</small>
|f = [[プトレマイオス12世]]
|m = [[クレオパトラ5世]]/6世(異説有り)
|ff = '''[[プトレマイオス9世]]'''
|fm = [[クレオパトラ4世]]
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