Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

張裔

これはこのページの過去の版です。PixelBot (会話 | 投稿記録) による 2007年12月26日 (水) 10:33個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (ロボットによる 追加: de:Zhang Yi (Zivilverwalter))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

張裔(ちょうえい 166年167年? - 230年)、君嗣(くんし)。蜀郡成都県の人。

概要・生涯

初めは劉璋に、後に劉備に仕えた。

蜀書』霍王向張楊費伝 - 張裔伝には、
「『公羊春秋』を学び、広く『史記』『漢書』を全て読破した」とある。

また、楊恭と仲が良く、彼の死に対し、その妻と子の面倒を見たとされ、
「その義行は、まことに行き届いたものだった」と記述されている。

その死後、子の張毣が後を継いだ。その弟の張郁は太子中庶子となった。

出来事 (年代順)

  • 劉璋の時代、孝廉に推挙され、魚復県の県長となる。
  • 州に帰り従事に任じられ帳下(ちょうか)司馬を兼務。
  • 張飛が荊州から、滇江(てんこう)を通り侵入した時、劉璋より兵を授かり、徳陽の陌下(はくか)で防ぐが、敗北し成都に帰還。
  • 劉璋のために、劉備の下へ使者として赴く。
  • 劉備により、巴郡太守に任じられ、司金中朗将となり、農機具と武器の製造を司る。
  • 益州南部の建寧太守の正昴(せいこう)が現地の豪族によって殺害された後、その後任として益州太守(永昌太守の説あり)に任命されるが、現地の豪族である雍闔によって捕らえられ、孫権の下へ送られる。
  • 劉備没後、蜀漢から諸葛亮の命で使者として赴いた鄧芝が呉との講和に成功して無事に共に蜀漢に帰還。この時、58歳という。
  • 帰国後、諸葛亮より参軍に任じられ、諸葛亮の傍らで軍務の事務を取り仕切る。また、益州治中従事を兼務。
  • 諸葛亮、漢中への駐屯時、射声校尉の官位にあって、留府長史を兼務。
  • 翌年、北方諸葛亮の下へ事務の打ち合わせに赴く。
  • 輔漢将軍の官位を付加される。
  • 建興八年(230年)、亡くなる。

参考書籍

『正史 三国志 5 蜀書』 (陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳) ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7