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{{出典の明記|date=2019年11月24日 (日) 12:35 (UTC)|ソートキー=人1712年没}}
'''戸田忠時'''(とだ ただとき、[[寛永]]14年([[1637年]])~[[正徳 (日本)|正徳]]2年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[1712年]][[8月25日]]))は[[江戸時代]]初期から中期にかけての[[譜代大名]]。[[三河国]]田原城主・[[戸田忠次]]の次男に生まれる。初代[[足利藩]]の藩主。従四位下大炊頭侍従。
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 戸田 忠時
| 時代 = [[江戸時代]]前期 - 中期
| 生誕 = [[寛永]]14年([[1637年]])
| 死没 = [[正徳 (日本)|正徳]]2年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[1712年]][[8月25日]])
| 改名 =
| 別名 = 九十郎、三郎左衛門、八郎兵衛(幼名・[[仮名 (通称)|通称]])<br />忠利(別名)
| 諡号 =
| 戒名 = 徳翁全隆方広院
| 墓所 = [[東京都]][[新宿区]]牛込の松源寺
| 官位 = 従五位下、従四位下、[[長門国|長門]]守、[[大炊頭]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 =
| 藩 = [[下野国|下野]][[足利藩]]主
*| 氏族 = [[戸田氏]]
| 父母 = 父:[[戸田忠次 (旗本)|戸田忠次]]、母:[[伴忠好]]娘
| 兄弟 = [[戸田忠昌|忠昌]]、'''忠時'''、[[久世広之]]正室、[[水野定勝]]室
| 妻 = 正室:[[土屋利次]]の娘
| 子 = [[戸田忠勝|忠勝]]、[[松平隆欽]]、[[戸田忠義 (江戸時代)|戸田忠義]]、'''[[戸田忠囿|忠囿]]'''、娘([[戸田忠常]]室)
| 特記事項 =
}}
 
'''戸田 忠時'''(とだ ただとき)は、[[江戸時代]]前期から中期にかけての[[旗本]]、のち[[譜代大名]]。[[下野国|下野]][[足利藩]]の初代藩主。[[江戸幕府]]の[[側用人]]。[[宇都宮藩]][[戸田氏|戸田家]]分家初代。
==人物伝==
戸田忠時。初名を九十郎、次いで三郎左衛門と称する。寛永十七年([[1640年]])、幼少ながらも戸田忠次の跡を継いだ。[[延宝]]8年([[1680年]])、[[目付]]となり、[[天和 (元号)|天和]]二年([[1682年]])の正月には[[伏見奉行]]を拝命した。翌3年([[1683年]])の12月に従五位下長門守に叙任。[[貞享]]3年([[1686年]])、小姓組番頭となり、[[元禄]]2年([[1689年]])七月には[[甲府藩|甲州藩]]主・[[徳川家宣|徳川綱豊]]に附属され甲州藩[[家老]]となる。綱豊が五代将軍[[徳川綱吉]]の継嗣となって、徳川家宣となり[[江戸城]]西丸に入ると側近として再び幕臣に復帰し、[[宝永]]2年([[1705年]])には老齢のため供奉を免ぜられた。さらに[[下総国]]に一万一千石に封ぜられ[[足利藩]]を立てる。官途を大炊頭に改め従四位下に進み、綱吉から朱印をたまわる。同5年([[1708年]])には致仕し、正徳2年(1712年)[[7月24日]]に没した。[[享年]]76歳。
 
==家系 生涯 ==
寛永14年(1637年)、[[御小姓組]]番士200俵取りの[[旗本]][[戸田忠次 (旗本)|戸田忠次]](宗兵衛、[[慶長]]2年([[1597年]]) - 寛永17年3月3日([[1640年]]4月23日))の次男として生まれる。忠次は[[三河国|三河]][[田原藩]]初代藩主・[[戸田尊次]]の五男であった。藩主は兄[[戸田忠能|忠能]]が継いでいたが、忠能には子がなかったため、忠次の長男[[戸田忠昌|忠昌]]を養子に迎えた。そのため、寛永17年([[1640年]])に忠次が死去した際、次男の忠時が4歳と幼少ながらもその跡を継いだ。
三河国田原城主・[[戸田氏]]の支流。(家系の詳細図は[[戸田氏]]の項を見よ)[[戸田政光]]の次男・[[戸田光忠|戸田庄左衛門光忠]]を祖とし、[[戸田尊次|尊次]]の代に三河国[[田原藩]]主となる。忠次の嫡男・[[戸田忠昌|忠昌]]は伯父の[[宇都宮藩]]主・[[戸田忠能]]の養子となり、次男の忠時が家督を継いで[[旗本]]として家禄を得た。足利藩を立藩し、一万一千石で存続する。
 
[[延宝]]8年([[1680年]])、[[目付]]となり[[従六位]]に叙される。[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])の正月には[[伏見奉行]]を拝命し、1000石の[[旗本]]となる。天和3年([[1683年]])の12月に[[従五位下]]・[[長門国|長門]]守に叙位・任官する。[[貞享]]3年([[1686年]])、[[小姓組]]番頭となり、[[元禄]]2年([[1689年]])7月には[[甲府藩]]主・徳川綱豊(後の[[徳川家宣]])に附属され[[家老]]となり、8000石に加増された。綱豊が5代将軍[[徳川綱吉]]の継嗣となり、名を家宣と改め[[江戸城]]西の丸に入ると、忠時も召しだされ、[[御側衆]]として再び幕臣に復帰する。
===祖先===
*[[戸田宗光]](三河国[[国人領主]]。戸田氏9代。伊勢伊勢守の被官。[[足利義政]]の命で賊徒を倒し勢力拡大)
*[[戸田憲光]] 丹波守。三河国国人領主。[[尾張国]][[知多半島]]に勢力拡大。河和殿。
*[[戸田政光]] 左近丞。三河国国人領主。
*[[戸田光忠]](みつただ)政光の跡を継いだ[[戸田康光]]の弟。
*[[戸田忠次]](ただつぐ)[[三河一向一揆]]で主君・[[徳川家康]]を裏切る。
 
[[宝永]]2年([[1705年]])、老齢のため供奉を免ぜられたが、3000石の加増を受け、[[下野国]][[足利郡]]・[[河内郡]]・[[都賀郡]]の3郡のうち1万1000石に封ぜられて[[足利藩]]を立藩した。[[官位]]も[[大炊頭]]に遷任し、[[従四位下]]に昇叙し、徳川綱吉から朱印を賜る。
戸田光忠流嫡系歴代当主。主に[[下野国]][[宇都宮藩]]藩を務める。
 
宝永5年([[1708年]])6月29日、[[家督]]を四男の[[戸田忠囿|忠囿]]に譲って[[隠居]]する。正徳2年([[1712年]])7月24日に死去した。[[享年]]76。
*[[戸田尊次]](たかつぐ)従五位下土佐守。三河国田原藩主。
*[[戸田忠次]](ただつぐ)旗本。嫡男[[尊次]]は宇都宮藩主を継ぎ、跡目は忠時に譲る。
 
== 系譜 ==
'''父母'''
* [[戸田忠次 (旗本)|戸田忠次]](父)
* [[伴忠好]]の娘(母)
 
'''正室'''
==歴代当主==
* [[土屋利次]]の娘
 
'''子女'''
#[[戸田忠時]](ただとき)従四位下大炊頭。旗本 戸田氏傍系15世孫[[戸田忠次]](尊次の次男)の長男。加増し立藩。足利藩主。
#* [[戸田忠]](ただその長男従五位下大隅守。侍従。戸田忠時の四男。生母は正室
* [[松平隆欽]]、生母は正室
#[[戸田忠位]](ただたか)従五位下出雲守。戸田忠囿の嫡男。
#* [[戸田忠言]](ただとき)従五位下大炊頭。義 (江戸時代)|戸田忠位の長男。義]]、生母は正室
#* [[戸田忠]](ただたか四男従五位下大炊頭。戸田忠言の八男。生母は正室
#* [[戸田忠]](ただお)
#[[戸田忠禄]](ただとみ)従五位下長門守。戸田忠喬の三男。
#[[戸田忠文]](ただあや)従五位下大炊頭。本家、宇都宮藩主 戸田忠温の四男。
#[[戸田忠行]](ただゆき)従五位下長門守。戸田忠禄の四男。子爵授爵。
#[[戸田忠雄]](ただお)
#[[戸田忠孝]](ただたか)
#[[戸田忠武]](ただたけ)
 
== 外部リンク ==
==関連項目==
*『[https://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%BF%A0%E5%88%A9-1094718 戸田忠時 ⇒ 戸田忠利]』 - [[コトバンク]]
*[[戸田氏]]
*[[松本藩]](戸田家の宗家にあたる)
*[[宇都宮藩]](本家)
*[[足利藩]](当家)
*[[徳川綱吉]]
*[[徳川家宣]]
 
{{足利藩主|戸田家|初代|1705年 - 1708年}}
[[Category:江戸の大名|とたたたとき]]
{{江戸幕府側用人}}
[[Category:1637年生|とたたたとき]]
 
[[Category:1712年没|とたたたとき]]
{{DEFAULTSORT:とた たたとき}}
[[Category:江戸幕府側用人]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:足利藩主|戸01]]
[[Category:伏見奉行]]
[[Category:甲府藩の人物]]
[[Category:足利の大名田家|とたたたとき]]
[[Category:1637年生|とたたたとき]]
[[Category:1712年没|とたたたとき]]