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| 死没 = [[正徳 (日本)|正徳]]2年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[1712年]][[8月25日]])
| 改名 =
| 別名 = 九十郎、三郎左衛門、八郎兵衛(幼名・[[仮名 (通称)|通称]])<br />忠利(別名)
| 諡号 =
| 戒名 = 徳翁全隆方広院
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[[延宝]]8年([[1680年]])、[[目付]]となり[[従六位]]に叙される。[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])の正月には[[伏見奉行]]を拝命し、1,000石の[[旗本]]となる。天和3年([[1683年]])の12月に[[従五位下]]・[[長門国|長門]]守に叙位・任官する。[[貞享]]3年([[1686年]])、[[小姓組]]番頭となり、[[元禄]]2年([[1689年]])7月には[[甲府藩]]主・徳川綱豊(後の[[徳川家宣]])に附属され[[家老]]となり、8,000石に加増された。綱豊が5代将軍[[徳川綱吉]]の継嗣となり、名を家宣と改め[[江戸城]]西の丸に入ると、忠時も召しだされ、[[御側衆]]として再び幕臣に復帰する。
 
[[宝永]]2年([[1705年]])、老齢のため供奉を免ぜられたが、3,0003000石の加増を受け、[[下野国]][[足利郡]]・[[河内郡]]・[[都賀郡]]の3郡のうち1万1,0001000石に封ぜられて[[足利藩]]を立藩した。[[官位]]も[[大炊頭]]に遷任し、[[従四位下]]に昇叙し、徳川綱吉から朱印を賜る。
 
宝永5年([[1708年]])6月29日、[[家督]]を四男[[戸田忠囿|忠囿]]に譲って[[隠居]]する。正徳2年([[1712年]])7月24日に死去した。[[享年]]76。
 
{{足利藩主|戸田|初代|1705年 - 1708年}}
{{江戸幕府側用人}}
 
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[[Category:足利藩主|戸01]]
[[Category:伏見奉行]]
[[Category:田原足利戸田家|たたとき]]
[[Category:1637年生]]
[[Category:1712年没]]