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信長の死後、織田氏の家臣の一人である[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が織田家の内紛を収め、信長の事業を引き継いだ。秀吉は、九州及び関東以北を残す日本の中央部を統一した1585年に、[[関白]]となった。この関白の権限を持って、九州における戦闘の中止を命令したが([[惣無事令|九州停戦令]])、これに従わない[[島津氏]]を20万の大軍で討った([[九州征伐]])。また、[[後北条氏]]も惣無事令に従わないことを理由に攻め、これを下した([[小田原征伐]])。さらに、秀吉は中国大陸への進出を計画し、朝鮮半島に出兵するが、足かけ7年に及ぶこの戦役は秀吉の死去により終結した([[文禄・慶長の役]])。
 
秀吉は、全国を統一すると各地で[[太閤検地]]を実施し、それまでの複雑な土地所有関係を整理し、土地制度を一新した。これにより、平安期以来の[[荘園_(日本)|荘園制度]]は完全に崩壊することとなる。また、従来の貫高制に代わって[[石高制]]が採用され、軍役も石高に基づいて課された。例えば、朝鮮への出兵に際しては、九州の諸大名には一万石あたり600人の動員が命じられた。他方、農民に対しては[[刀狩り]]を行い、百姓身分から帯刀権を奪い、百姓には原則として[[脇差]]のみの一本差しを認め、裁判による紛争解決を進めつつ、武器使用を規制するという兵農分離を進めた。
 
従来兵役においてはある程度の地位以上の場合は兵量の持参が原則であったが、豊臣政権では検地による財政強化もあり、軍役の際に参加する大名に兵量を給付することが可能となった<ref>山室恭子著『黄金太閤―夢を演じた天下びと』中央公論社、1992年、P72。ISBN 978-4121011053</ref>。例えば九州征伐では兵30万人と馬2万頭の1年分の食料を調達しており<ref>