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また、軍団兵力は外征も可能なものであった。[[天平宝字]]3年([[759年]])、[[藤原仲麻呂]]は新羅征伐の遠征準備を行ない、これは軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な計画であった。しかし、[[孝謙上皇]]と仲麻呂との不和により実行されずに終わっている<ref>岸俊男『藤原仲麻呂』261-292頁。</ref>。
 
なお[[蝦夷]]と対峙する[[陸奥国]]には、軍団とは別に[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]に属する[[鎮守府 (古代)#鎮兵|鎮兵]]と呼ばれる固有の兵力が常設配備されてい、[[鎮守府将軍]]がその長官を務めた。鎮守府は始め[[多賀城]](現宮城県[[多賀城市]])におかれ、後に[[胆沢城]](現岩手県[[奥州市]])に移された。多賀城は防御のために周囲を長大な柵で囲まれていたが、この内部に陸奥[[国府]]がおかれていた。この他にも蝦夷に対する備えとして、軍事・行政機能を有する多数の[[城柵]]が築かれた。しかし、蝦夷の反乱は9世紀になっても続いた([[日本の古代東北経営#三十八年騒乱の時代|三十八年騒乱]])。一方で九州南部の[[隼人]]は[[養老]]4年(720年)に[[隼人の反乱|反乱]]を起こすが、征隼人持節大将軍[[大伴旅人]]等によって翌年には鎮圧され、その後は反乱することはなかった。
 
軍団兵士が着用した、[[奈良時代]]・[[平安時代]]前半([[8世紀]]-[[10世紀]])の甲冑については、[[聖武天皇]]崩御77回忌にあたる[[天平勝宝]]8年6月21日([[756年]]7月22日)に、[[光明皇后|光明皇太后]]が亡帝の遺品を[[東大寺]]に献納した際の目録『[[東大寺献物帳]]』に「[[短甲]]・[[挂甲]]」の名が見える。延長5年(927年)成立の『[[延喜式]]』にも見えることから、10世紀代までは存在していた甲冑形式と考えられている{{Sfn|橋本|2009|pp=27-30}}。実際にどのような姿であったのかは[[遺物]]が小札の残欠程度しか残っておらず明確ではなかったが、今日の研究では「短甲」は「胴丸式挂甲」(どうまるしきけいこう){{Refnest|group="注"|現在一般に「短甲」と呼ばれている古墳時代の板造りタイプのものは示していないとされる{{Sfn|宮崎|2006|pp=13-15}}{{Sfn|橋本|2009|pp=27-30}}。}}、「挂甲」は「裲襠式挂甲」(りょうとうしきけいこう)と呼ばれる形態だったと推定されている{{Sfn|宮崎|2006|pp=6-18}}{{Sfn|橋本|2009|pp=27-30}}。また、鉄製以外のものでは「[[綿襖甲]]」・「綿襖冑」<ref>『続日本紀考証巻八』淳仁の条</ref>や「革製甲」<ref>『[[続日本紀]]』[[宝亀]]11年(780年)</ref>が使用されていた。