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地方豪族は倭王権に服し、[[国造]]に任命され指定地域の支配権が認められた。加えて倭王権が中央豪族を派遣し国造に任命した場合もあった。国造は軍事権・裁判権など広い範囲で自治権を認められており、従者や隷下の人民を武装させて軍を編成することができた。これを歴史学で[[国造軍]]と呼び、飛鳥時代まで続いた。
 
倭は[[朝鮮半島]]に対して、鉄素材や軍事物資などを入手する必要上、政治的・軍事的な関与を志向した。4世紀末から5世紀初には、[[百済]]との同盟関係を構築して、[[新羅]]、[[高句麗]]の軍勢と戦ったことが記録されている([[好太王碑]]<ref>好太王碑に記載される『倭』は、九州地方の地方政権であるとする説もある。</ref>)。また、倭は朝鮮半島南部の[[任那]]に、何らかの権益を持っていたと考えられている。5世紀初頭から末葉にかけて、「[[倭の五王]]」が[[南北朝時代 (中国)#南朝|中国南朝]]が[[朝貢]]したことが中国の歴史書に記録されているが、この際に倭王は朝鮮半島に対する軍事指揮権の承認を求めている。例えば、5人の最後にあたる[[武 (倭王)|武]]([[雄略天皇]]に比定)は、「使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭王」の肩書の承認を求め、百済を除いて承認を受けている。
 
これらの朝鮮半島に対する外征には国造軍を連合させ派遣したが、指揮統制の問題や、豪族自身の不満などもあり、統一された軍隊とは必ずしも言えなかった。
 
国造の中には支配地域を指定されたり、外征に動員されたりすることへの不満を持つものもあった。これから生じた倭王権への反乱の例としては、九州の[[筑紫君磐井]]による[[磐井の乱]]([[日本書紀]]によると[[527年]]〜[[528年]])があった<ref group="注">筑紫君磐井は新羅から賄賂を受けたとされている。</ref>。この磐井の乱は[[物部麁鹿火]]によって鎮圧された。