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→‎律令制と軍団の設立: 参考資料追加(本木)
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軍団兵士の大多数は歩兵であったと考えられる<ref>[[橋本裕]]著『律令軍団制の研究』、増補(律令軍団制と騎兵)。吉川弘文館(1990年)ISBN 978-4642022446</ref>。軍団兵士は、自弁で弓矢・[[大刀]]・小刀等を用意する必要があった<ref>養老令第十七軍防令 第七 備戎具条</ref>。その他の官給の武器として[[矛]]や[[弩]]があり、弩に関しては体格と腕力に優れた者が隊(50名)ごとに各2名ずつ選ばれて射手の教育を受けた<ref>養老令第十七軍防令 第十 軍団条</ref>。[[弩]]は朝鮮を経由して日本へは古くから導入されたが、威力向上の改良が行われた。
 
一方、古墳時代以来の地方首長層に出自する郡司の子弟は、指揮官([[軍毅]])および騎兵の役についた。弓馬に優れたものは騎兵とすることとなっていた<ref>養老令第十七軍防令 第五 隊伍条</ref>が、これら騎兵となったのは、主に古墳時代以来の地方首長層に出自する郡司の子弟であった。騎兵は、基本的に[[弓騎兵|弓射騎兵]]であるが<ref>[[近藤好和]]著『騎兵と歩兵の中世史』 吉川弘文館((2004年)、ISBN 978-4642055840</ref>、槍を扱う突撃騎兵も存在したと推定される<ref>『天平六年出雲国計会帳』に熊谷団兵士の紀打原直忍熊と意宇団兵士の蝮部臣稲主が「歩射馬槍試練」を受けたとの記述がある。</ref>。また、郡司子弟は指揮官([[軍毅]])の役目も務めた
 
[[天平]]12年([[740年]])、大宰少弐の[[藤原広嗣]]が反乱を起こす([[藤原広嗣の乱]])<ref>『続日本紀』天平12年11月5日条</ref>。広嗣も、これを鎮圧した朝廷も、共に軍団兵士を動員した。反乱軍には大隅・薩摩・筑前・豊後・筑後・肥前の九州六カ国の兵1万が参加し、朝廷は東海・東山・山陰・山陽・南海各道から合計1万7千を動員し、[[大野東人]]が大将軍に任命された。反乱軍から離反者が出たこともあり、反乱は2ヶ月弱で鎮圧された。広嗣は比較的短期の間に兵士を徴兵しているが、これは九州が対新羅の最前線であることから、太宰府の指揮で速やかに戦闘に対応する制度([[警固|警固式]])が整備されていたためと考えられる<ref>木本、p103</ref>。
 
また、軍団兵力は外征も可能なものであった。[[天平宝字]]3年([[759年]])、[[藤原仲麻呂]]は新羅征伐の遠征準備を行ない、これは軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な計画であった。しかし、[[孝謙上皇]]と仲麻呂との不和により実行されずに終わっている<ref>岸俊男『藤原仲麻呂』261-292頁。</ref>。
 
なお仲麻呂は764年に[[藤原仲麻呂の乱]]を起こす。この頃中国から乱は[[兵法吉備真備]]が伝わによって短期間で鎮圧され。『が、真備は唐留学時代に[[続日本紀兵法]]を学んでいた。760年よると、[[大宰府]]にあった[[吉備真備]]のもとへ、760年に『[[孫子 (書物)|孫子の兵法]]』を学ぶために下級武官が派遣されたことが『[[続日本紀]]』に記されている。真備は764年実際起きた[[藤原仲麻呂の乱]]では孫子兵法を実戦活用したも、仲麻呂の先手をされって動きを封じている<ref>木本、p148</ref>
 
なお[[蝦夷]]と対峙する[[陸奥国]]には、軍団とは別に[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]に属する[[鎮守府 (古代)#鎮兵|鎮兵]]と呼ばれる固有の兵力が常設配備され、[[鎮守府将軍]]がその長官を務めた。鎮守府は始め[[多賀城]](現宮城県[[多賀城市]])におかれ、後に[[胆沢城]](現岩手県[[奥州市]])に移された。多賀城は防御のために周囲を長大な柵で囲まれていたが、この内部に陸奥[[国府]]がおかれていた。この他にも蝦夷に対する備えとして、軍事・行政機能を有する多数の[[城柵]]が築かれた。しかし、蝦夷の反乱は9世紀になっても続いた([[日本の古代東北経営#三十八年騒乱の時代|三十八年騒乱]])。一方で九州南部の[[隼人]]は[[養老]]4年(720年)に[[隼人の反乱|反乱]]を起こすが、征隼人持節大将軍[[大伴旅人]]等によって翌年には鎮圧され、その後は反乱することはなかった。
 
軍団兵士が着用した、[[奈良時代]]・[[平安時代]]前半([[8世紀]]-[[10世紀]])の甲冑については、[[聖武天皇]]崩御77回忌にあたる[[天平勝宝]]8年6月21日([[756年]]7月22日)に、[[光明皇后|光明皇太后]]が亡帝の遺品を[[東大寺]]に献納した際の目録『[[東大寺献物帳]]』に「[[短甲]]・[[挂甲]]」の名が見える。延長5年(927年)成立の『[[延喜式]]』にも見えることから、10世紀代までは存在していた甲冑形式と考えられている{{Sfn|橋本|2009|pp=27-30}}。実際にどのような姿であったのかは[[遺物]]が小札の残欠程度しか残っておらず明確ではなかったが、今日の研究では「短甲」は「胴丸式挂甲」(どうまるしきけいこう){{Refnest|group="注"|現在一般に「短甲」と呼ばれている古墳時代の板造りタイプのものは示していないとされる{{Sfn|宮崎|2006|pp=13-15}}{{Sfn|橋本|2009|pp=27-30}}。}}、「挂甲」は「裲襠式挂甲」(りょうとうしきけいこう)と呼ばれる形態だったと推定されている{{Sfn|宮崎|2006|pp=6-18}}{{Sfn|橋本|2009|pp=27-30}}。また、鉄製以外のものでは「[[綿襖甲]]」・「綿襖冑」<ref>『続日本紀考証巻八』淳仁の条</ref>や「革製甲」<ref>『[[続日本紀]]』[[宝亀]]11年(780年)</ref>が使用されていた。
 
なおこの頃中国から[[兵法]]が伝わっている。『[[続日本紀]]』によると、[[大宰府]]にあった[[吉備真備]]のもとへ、760年に『[[孫子 (書物)|孫子の兵法]]』を学ぶために下級武官が派遣されたことが記されている。真備は764年に起きた[[藤原仲麻呂の乱]]では孫子の兵法を実戦に活用したとされている。
 
===軍団の縮小・廃止と健児の制===