Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

栗栖天山

これはこのページの過去の版です。Hkusano (会話 | 投稿記録) による 2009年8月9日 (日) 04:15個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

栗栖 天山(くるす てんざん)、天保10年(1839年) - 慶応2年(1867年)は、日本の武士儒学者岩国藩士。名を靖、通称平次郎、字は子共、号は天山。

生涯

天保2年(1839年)8月10日、周防国岩国に生まれる。江戸昌平黌で学び、慶応元年(1865年)3月。藩校養老館の助教に任用される。慶応2年、同じく養老館の助教であった東沢瀉と共に、勤王の必死組(のち精義隊)を組織する。が、隊士の粗暴な挙動の責をとわれ、慶応2年11月17日、沢瀉と共に柱島流罪となる。その後脱島し、所思を訴えるが同士の賛同を得られず、慶応2年12月9日自害。なお、沢瀉はそのまま柱島に留まり、明治2年(1869年)秋、戊辰戦争での精義隊の活躍もあり赦された。


三士誠忠碑

東沢瀉、栗栖天山、南部五竹を岩国では三士と称する。彼らの活躍を後世に伝えるべく、明治25年(1892年)藩公および旧藩有志により、吉香神社境内に三士誠忠之碑が建立された。