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永安七年([[264年]])2月、征西将軍に昇進した留平は、撫軍将軍の[[歩協]]、鎮軍将軍の[[陸抗]]、建平太守の盛曼らと共に、永安を守備する[[羅憲]]を攻めたが勝てず、更に半年包囲を続けたが、[[胡烈]]が二万の兵で救援に現れたため、軍勢をまとめて引き上げた<ref>『三国志』三嗣主伝</ref>。
[[甘露 (呉)|甘露]]二年([[266年]])、丁忠が[[西晋]]より帰還すると、皇帝の[[孫皓]]は群臣を集めて盛大な宴会を催したが、[[王蕃]]が酔った振りをしているとして怒り、側近に王蕃の処刑を命じた。衛将軍の[[滕牧]]と留平が取り成しをしたが聞き入れられず、結局王蕃は処刑された<ref>『三国志』王蕃伝</ref>。
同じ年の[[宝鼎]]元年(266年)、[[丞相]]の[[陸凱]]が孫皓の廃立を計画し、大司馬の丁奉、御史大夫の[[丁固]]の賛同を得たが、孫皓の護衛をしていた左将軍の留平に反対されたため断念したという<ref>『三国志』陸凱伝</ref>。一説には、留平と丁奉が仲が悪かったのが原因という。
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